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日本人と死後世界
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  (6)神道における霊魂 -魂の顕界と幽界

◆神道における死後世界

 古来、わが国では神も仏も、もとは同じものとして厳密な区分を行ってこなかった。たとえば和歌森太郎の著書「神と仏の間」が、その冒頭に引く謡曲の言葉のように、「神といひ仏といひ、只是れ水波の隔てなり」(謡曲「誓願寺」)といわれるほどの、区別のつきがたい関係にあった。したがって神道における死後の世界を問われれば、仏教における死後世界をそのまま流用しても、なんらの説明に困ることはなかった。
 たとえば、「三途川」は神道では「三瀬川」、「奪衣婆」は「瀬織津姫」ということになる。「大祓詞」(おおはらえことば)には、「高山の末、短山の末よりさくなだりに落ちたぎつ速川の瀬にます瀬織津姫という神」とある。この「速川」が三途の川であり、瀬織津姫という禊の介添えをする神が、奪衣婆という解釈になる。(西田長男、三橋健「神々の原影」) 
 閻魔大王は、悪事を指摘してただす禍津日神や人の善事をほめる直毘神となる。つまり日本の神々には八百万(やおよろず)の神々がおられて、仏教の死後世界に登場する仏様に対応させようとすれば、おおかたは間に合うわけである。

 神道においては、古代の記紀の世界におけるこの世、つまり顕界を支配する神としてのアマテラス、幽界を支配する神としてのオオクニヌシと支配領域を分けたものの、汚らわしい死後世界については、近世にいたるまでほとんど探求されて来なかった。
 たとえば本居宣長においても、死後の世界については、一種の不可知論の立場をとっている。「人死ぬれば、善人も悪人も黄泉国へゆく外なし。」とし、善人は天上浄土・悪人は地獄と分けることは「方便の作事」であるとする(「答問録」)。人の死後については、「安心なきが安心」と断じており、国学において幽界が積極的にとりあげられるようになったのは、おおかたは平田篤胤以降のことといえる。

 もともと日本紀における「幽事」は、死後世界というよりはさらに広い解釈がなされていた。その第1は、顕事とは国家を治める政務、幽事とは神に奉仕する祭祀をさすとし、第2は、一条兼良などの説で、顕事とは人道、幽事とは神道をさすとするものであり、共に幽事を極めて広くとらえている。

 平田篤胤以降、国学においても死後の霊魂の世界としての幽界が、ようやく取り上げられるようになった。しかし、篤胤の場合にも、死後霊魂が黄泉の国という汚い国へ行くという捉え方はなかった。死後、肉体は土に帰っても霊魂は消えることなく、幽明に赴き大国主命につかえ、その命令を受けて、子孫や眷属を守ると考えた。そして死後の世界としての来世が国学の世界でも、この頃からようやく明瞭に形づくられるようになった。

 篤胤の思想は、平田の門下門流により発展させられた。死後、霊魂のゆく幽界については佐藤信淵が、天地間に存する無形無容無臭の「雰囲気」の世界であると説いている(天地鎔造化育論)。この観点からすると、死後の霊魂の世界としての幽界の主宰者を、大国主命の専属とする見解にも異論がでてきた。(鈴木雅之「撞賢木」)
 これらの見解の展開については、村岡典嗣「復古神道に於ける幽冥観の変遷」(「日本思想史研究」所収)に詳述されている。

 しかしこれらのことから見ても古来の神道は、それを宗教としてみた場合、記紀以来、死後の世界を明確に追及してこなかったことが、神道の思想の敦命的な弱点となっている。
 そしてそのことは、明治政府が神道を「国家神道」として復興しようとした際に、重大な問題となって現れてきた。

◆神道において、死後世界を主宰する神は誰か?

 明治維新により成立した新政府は、成立直後の慶應4(1868)年3月15日から、祭政一致・神祇官の再興を布告。28日には神仏判然令を発して、神仏分離・廃仏毀釈による神道の国教化という大宗教改革に乗り出した。これは江戸時代を通じて、仏教が事実上の国教となり、精神的支配を行ってきたことに対して、明治政府は古代国家の神祇官を復活させ、復古神道による宗教的権威の確立を目指すという大きな精神革命であった。
 明治3(1870)年には、「大教」の名で天皇の古代宗教的権威の復活をはかるために、大教宣布の詔が出され、神道の国教政策はその翌4年には頂点に達した。5月には神社はすべて国家の宗祇であるとする太政官達が出されて、伊勢神宮を頂点とした日本中の神社の社格を制定するという大変な制度化が行われた。

 明治3年5月の社格制定により、日本中の神社のうちから97社が官幣社(大・中・小)、国幣社(大・申・小)に指定されて神祇官の所管となり、その他の諸社のうち府社・県社・郷社は地方官の所管となった。さらに7月には、府県社・郷社・村社の社格が公的に決められて、以上の社格が付与されない神社は無格社と呼ばれることとなった。
 つまり日本の古来の八百万の神々は、皇祖神であるアマテラス大神を頂点にして格付けされ、再編成されたわけである。

 明治8(1875)年3月、神道の準公的な中央機関として神道事務局が設立され、5月には局内に仮神殿を造営して、神道布教の大道場である神道大数院をつくることになった。そして、この大教院の神殿には、旧大教院の祭神である4柱の神(天之御中主大神・高御産巣日大神・神産巣日大神、そして皇祖神である天照大神)と八百万神が祭られることになった。
 この祭神の最初の3神は、造化3神といわれ神代史の冒頭に現れるものの、その実態はなく、津田左右吉からは、記紀編纂時に権威づけのために、あとから挿入された神として指摘されていた神々である。つまり天地開闢のときの形式的な神々に、天皇の祖先神としての天照大神を加えた4神が、国教としての神道の最高神として祭られたわけである。
 この4神を祭神とする神道大数院の神殿は、明治11年6月に着工し13年3月に落成し、4月には盛大な祭典が行われた。

 事件は、この4柱の祭神に異論が出たことからはじまった。既にこの4柱の祭神については、出雲大社の大宮司兼大教正である千家尊福が、明治6(1873)年6月に、4柱大神に大国主命を加え鎮祭すべきことを建議していたのであるが、11年5月の神殿建築を機に、改めて建議書を事務局に正式に提出した。
 そこで千家尊福は、天界を統治する天照大神に対して、幽冥界の統治者としての大国主命の役割と事跡を明確にすべきとして、全国の神道教導職の大会議での審議を求めた。このことは宗教としての神道の弱点をついたものであり、その事により、賛否両論こもごも起こって、神道界は未曾有の大混乱に陥ってしまった。

 この時の賛否両論の詳しい資料は、西田長男「日本神道史研究」第1巻に収録されている。5月20日審議の結果は、千家大教正の発議に賛成するもの8名、国津神を祭るとすれば、イザナギ、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシまでを祭祇すべきとする平田大教正の見解に同意するもの11名、従来のままでよしとするもの5名、その他が2名という結果になった。
 つまり、おおかたの教正は大国主命で代表される幽界の神を祭祇すべきことには賛成したわけであるが、問題はこの幽界がかならずしも死後世界を意味するわけではないことにあった。

 さらに、千家尊福の建議に反対した伊勢神宮大宮司兼大教正 田中頼庸が、天照大神の支配がただ顕界のみに限定されて、その支配が幽冥界に及ばなくなることをおそれたことがある。もしそのようなことを許せば、「皇祖天神トイヘトモ、地球鎮座ノ分ハ、悉ク大国主神ノ部属卜言ワザルヲ得」なくなる可能性があるわけであり、明治6年7月、神宮教院では「教会要旨」を発行して、「天照大御神は此顕幽二界を主宰め給ふ御事なれば、尊き事又類なしとしるべし」と述べており、天照大神は神道における顕幽界すべての主宰神であるとする見解を、すでにとっていた。
 しかしこのことは神道界を通じての定説とはいえず、神道界は伊勢派と出雲派にわかれて、さらに4分5裂して大変な事になってしまった。そのとき、事務局や内務省に意見を上申したものの数は、なんと13万3千87人に及んだといわれる。

 この大混乱の中で明らかになったことは、神道においては死後世界について明解な思想が欠如していたということであり、そのため神道を宗教として取り扱う場合、仏教やキリスト教に比べて決定的な弱点を持つということであった。
 この事件の結果、勅裁により神道事務局の神殿は宮中祭神の遥拝殿とし、そこでの祭神は天神地祇、賢所、歴代皇霊とすることにより一件は落着した。しかし、この結果、宗教としての教派神道は、国家道徳としての「御国のカンナガラの道」とは2つに分離して進むこととなった。

◆出雲神道における幽界

 では出雲神道においては、幽界についての見解が明解になっていたかとなると、それが必ずしも明解ではない。祭神論で大国主命を幽界の主宰者として、顕界の主宰者としての天照大神との併祭を主張した千家尊福は、神道教会・大社教を明治6年1月に出雲で起こしている。大社教は、大国主命を主神とし、造化3神、天照大神、産土神の6神を祭る神道教会であった。

 この大社教の教義をみても、死後の魂の行き先としての黄泉国の実態は、明確には見えてこない。たとえば、そこでは、人の死後に「霊魂の帰着するの地は、天にあるか地にあるか、或は又黄泉国なりやといふに、善悪邪正の別に従ひて、其所在一ならずといへども、霊魂は一切悉天上に帰するにあらず、又昔此の地に留まるにあらず、況ん黄泉国をや、然れば霊魂の帰着は、偏に幽政、栄誉、実に之に過るは無く、・・・・、修身誠意は生きて人たるの法にして、死して神たるの道といふべし。」(千家尊福「出雲大神」大正2,p518-519)といった頼りないことが書いてある。
 また、「三柱大神(イザナギ・イザナミ・オオクニヌシ)の如此に留り給ふ所異なるは、(天界・黄泉国・この世)各主宰し給ふ所あるに因れば、人の霊魂もまた斯顕世を去るの後、幽冥に於て従事すべき事ありて、其留る所の如きは一方に偏する者にあらざること明かなり、然れども霊魂は神賦にして、則幽より出たる者なれば、其本に帰すべきは始祖伊邪那岐大神の上天を以て知るべく、又幽政の如何に困て斯土に留るは大国主大神の此土に座するもって知るべく、・・」(以下、略)(千家、「同上書」p519)などとある。
 つまり、死後の霊魂は、イザナギの天界、イザナミの黄泉国、そしてこの世にとどまる霊魂に分かれ、最後の霊魂がオオクニヌシの支配下に入るということになるのであろうか?

 本書で既に述べてきたような、仏教における死後世界への取組みの歴史をみるとき、神道における死後世界への取組の素朴さと不明確さには驚かされる。そのため、幽政の本府たる出雲大社において行われる代表的儀式は、死者の葬儀ではなく、生者のためのめでたい結婚式になり、大国主神は死者の霊魂を支配する神ではなく、生者の縁結びの神になる。

 日本書記では、大国主神(=大己貴命)の国造りの大業など「顕露之事」のご事跡に加えて、天日隅宮における「幽事」を司るというご神徳を明らかにしているが、「神事」、「幽事」の詳細は記していない。一体、幽事が黄泉国とどのような関係にあるのか?それが来世を意味するものかどうか?

 神道において死後世界を積極的に取り上げるようになったのは、既に述べたように平田篤胤以降になるが、ここでは大国主神との関連でみると、その思想的系譜は久保田収「出雲大神と神道思想」(「神道指令の超克」所収)によくまとめられている。
 それによると本居以前にも、中世の神道家であった慈遍が「旧事本紀玄義」の中で、幽界を死後の世界と考え、スサノオ、オオクニヌシを冥界を司どる神と考えており、これが幽界を明解に死後世界と考えた最初としている。
 本居宣長は、人が死ねば貴賎善悪を問わず、すべての人が行く先が夜見国であり、そこでの幽事を司どる神が、イザナギ、スサノオとオオクニヌシであるとした。この考えかたは、基本的に慈遍と同じとされている。

 平田篤胤は、「霊能真柱」の中で宣長の説を批判し、死者の霊魂は黄泉国へゆくのではなく、この国土にあり、墓の上にとどまるとした。つまり冥府はこの国土のほかにあるのではなく、この国土の上で霊魂を主宰する神を大国主命とした。平田にあっては、黄泉国と幽冥界とは別のもので、黄泉国はもともとは地の底にあったもので、それがやがて月となったとする。つまり月夜見国と黄泉国は同じであり、スサノオとツキヨミの神を同一として黄泉国の神と考えた。これに対して幽冥界は目にみえぬ霊魂の世界であり、そこの世界を司る神が大国主命と考えた。

 さらに詳しく幽界を論じたのは篤胤の弟子である矢野玄道で、幽界の政治はキズキノオオカミ(=大国主神?)のもと、諸国の国魂神、一宮神、氏神、産土神が分掌するとした。霊界は、神界、仏界、妖鬼界からなり、神界は高天原、仏界、妖鬼界は夜見国に属するとした。

◆神道における葬祭式

 わが国では奈良朝以降、死者の葬祭式はほとんど仏教によって行われてきた。特に、近世において神道が葬祭式から離れていた理由は、一つには死者を忌むものとして排除してきたこともあるが、今一つは、江戸幕府がキリスト教の布教をおそれて、すべての人々を生前、旦那寺に登録させて、死ねばこの寺に報告の上、仏式で葬儀を行わなければならないとする「寺請制度」が存在したことにあった。この寺請制度により、江戸時代においては仏教以外の宗教による葬祭を行うことはきわめて困難であった。

 復古神道の台頭にともない、神道による葬祭式が貞享頃から行われるようになったが、それでもその件数は、貞享から天保までに75件を数えるに過ぎない。(「神道要語集祭祇編2」)
 そのため神社でも、家族の葬儀を僧侶に頼んで行う状況になっていた。この中で石見国津和野藩では、国学者岡熊臣が中心になり、一藩の神職のすべてが神葬祭に改宗した。この運動は、幕末の福羽美静による津和野藩本学運動につながり、さらに明治初頭における津和野方式による神社行政にも影響を与えたものであるので、すこし詳しく見てみよう。

 幕府への神葬祭の請願は、まず津和野の隣藩の浜田藩において、天保10年に始まった。同藩における国学重視は、藩主松平康福と彼が招いた国学者の小篠紀をはじめとする本居門下生によるものといわれる。隣の津和野藩でも、藩主亀井之茲監(これみ)は施政の第一を学問の奨励におき、養老館を通じて国学を藩黌の教育方針の第一とした。そこで、国学者で神官であった岡熊臣を教師として、神道思想の普及に着手した。

 弘化2年、浜田藩は条件つきではあったが、神葬祭が幕府から認めらるや、すぐに弘化3年に津和野藩でも神葬祭の願いを幕府に提出し、翌年11月に許可になった。
 ここでの浜田藩における神葬祭願いの理由を見ると、神職が葬儀に際して寺から剃髪を強制されたとか、神職の子女が「田孝不忠信女」などといういやがらせを受けていたことが書かれている。

 さてこの岡熊臣の霊魂観は、神道における死後の霊魂観をさらに進めたものと評価される。彼の場合、人間の霊には、死んでこの世に残る霊と残らない霊の2つがあるとする。1つの霊魂は産霊神により与えられたものであり、この本元の霊は死ぬと月夜見国へゆき、この世へはとどまらない。この世に残る魂は、本元の霊が月夜見国へ去った後も死骸の辺りに沿って残り、祭れば時として顕れ、祭らなければ、墓所の周りにながく寂然として隠れ居るものとする。この霊は、死人の幸魂、奇魂で、この霊の上をわが国では、幽事、幽府、唐土では、幽冥、幽魂といい、この神霊の主宰者を大国主神とする。

 津和野では、藩主の意向で藩全域にわたって神葬祭を行うべく、喪儀要録・喪儀式などを作って祭儀を行ったものの、いろいろ難しい問題があったようである。はじめは神葬・仏葬の併用方式がとられ、位牌などは寺にのこされた。つまり神葬祭を完全にするには、寺に代わるべきものが必要で、祖霊社の建設が必要になり、さらには霊祭の専従者、忌日の設定、祭文や儀式のやりかた、などいろいろなことが必要になった。
 霊祭の祭主はその家の主人がつとめ、親族集まって式を勤めたものの、寺院の僧侶のようなプロが行うようなわけにはいかず、結局は自治会組織のようなものができて、それによって行ったようである。津和野藩でも神社の氏子制度ができ、全村あげて神葬祭にふみきったものの、大部分の村では葬儀だけは、その後に仏葬に戻ったといわれる。(加藤隆久「津和野藩の神葬祭復興運動」ほか、同氏「神社の史的研究」所収)

 明治15年10月24日、内務省通達により、神官の葬祭関与が府県社以下の神官を除き禁止された。そしてわが国では、江戸時代と同じように、生きている間は神社、死ぬと寺院という宗教の凄み分けが大まかにできて、今にいたる。

◆神道における霊魂 -古代と現代の招魂・鎮魂

 神道思想において現れる霊魂は、幸魂・奇魂・和魂・荒魂・国魂・産霊・天皇霊・精霊・死霊・族霊など、いろいろ登場するが、その多くは死霊ではなく生霊である点に特徴がある。
 古く大宝令や延喜式に定められていた宮中儀式で、途中300年にわたり絶えていたが、明治になって復活した「鎮魂祭」(オホミタマフリノマツリ・オホミタマシズメノマツリ)という儀式がある。その儀式は、宮中最高の儀式である新嘗祭の前日、11月21日に行われる。この祭りの初見は非常に古く、天武14年紀(685)11月24日条、「此日、天皇ノ為二招魂シキ」という記事にある。ここでの「招魂」は、タマフリと読む。つまり招魂とは、鎮魂祭を行うために天皇霊を招くための儀式であったと思われる。
 「招魂」とか「鎮魂」といえば、通常の常識では死者の魂を招き、鎮めることである。また宮中での鎮魂祭という言葉からすると、皇室の先祖霊や無念の死をとげた人々の霊の鎮魂の儀式かと思うが、実はそうではない。

 つまり鎮魂祭とは、新嘗祭という重要な儀式の前段にあたり、生きている天皇の御霊を振動して中府に鎮めまつり、新嘗の祭を無事に奉仕されるように、天皇の御身のご安泰をお祈りする神秘的な祭儀なのである。
 鈴木重胤「延喜式祝詞講義十二之巻」には、天皇の即位にあたっての大祭である「大嘗祭」に続き、「鎮魂祭」が詳しく解説されている。
 それによると職員令神祇官の条に、鎮魂とは「言う、鎮安なり。人の陽気を魂という。魂運なり。言は離遊の運魂を招きて、身体の中府を鎮める。故に鎮魂という」とされている。つまり生きている天皇の魂が、身体の中府(臍下丹田の辺り)に、天神の御霊を招き鎮めて、天神と霊合する祭が鎮魂祭の儀式のようである。そこでの考え方は、儒教における先祖霊の招魂や常識でいう死者の鎮魂の儀式とは、非常に異なるものといえる。
 最も異なる点は、仏教・儒教などでは死者の霊魂を念頭においているのに対して、神道思想における霊魂は生者の魂に大きなウエイトをおいている事からきているといえる。
 鎮魂祭は、天皇を対象にした祭儀であるが天皇自身は出御されず、天皇の御衣が鎮物となる。そしてそこで祭られる霊魂は、生きている天皇霊である。(倉林正次「天皇の祭りと民のまつり -大嘗祭新論」)

 神道における霊魂は、基本的には和魂(にぎたま)、荒魂(あらたま)、幸魂(さきたま)、奇魂(くしみたま)の4魂に要約される。日本書紀神功皇后条に、「和魂は玉身に服ひて寿命を守り、荒魂は先鋒となりて師船を導かむ」とある。
 つまり和魂は生命の持続や智徳といった霊魂の静的なはたらきをいい、荒魂は勇気、進取といった霊魂の動的はたらきをいう。また幸魂は、人の生命をまもり、幸福をあたえるはたらきをし、奇魂は、智的はたらきをする霊魂と考えられた。

 たとえば大国主神は、海のかなたから寄りくる自分の幸魂・奇魂に遭って、その援助を得て国作りの大業を成し遂げることができたとされている。つまり生きている自分の魂が、自分を助けてくれるという話である。
 儒教では、子孫が先祖霊を祭ると、それに感謝した先祖霊が子孫を助けてくれるとしているが、神道における魂は生きている自分自身の霊魂である。その自分の霊を招き鎮めることにより、自分の働きを助けてもらおうというわけである。現世を中心にした神道の思想の面目が躍如とした考え方である。

 しかし、この古代からの神道における招魂・鎮魂に対して、明治以降の神道では死者の霊魂に対する招魂・鎮魂が非常に重要になってきてしまった。
 それは日清戦争、日露戦争、そして今度の太平洋戦争など、多くの戦争において200万人を越える戦没者を出してしまい、その夥しい死者の霊魂に対して、国家としての対応に迫られるようになったことにある。つまり古来の「神道」は、明治以降になって「国家神道」という新しい段階を迎えたことにより、現代の神道は死者の霊魂に対する「鎮魂」を迫られることになった。

◆招魂社から靖国神社へ -「国家神道」による死後世界の処遇

 文久2(1862)年8月、孝明天皇は長州藩の内請をうけて、幕府に対して幕府の手により処刑されたり獄死した尊王攘夷派の志士達の招魂、及び現存者の赦免を命じる勅文を下した。
 その前年には皇女和宮のご婚儀があり、公武合体が進むかにみえた。しかし、実際には文久2年に入って尊攘派による報復的テロ行為としての「天誅」は激しくなり、一方、幕府の側では新撰組の活躍も激化し、明治維新への流れは急速に加速していた。

 幕府は11月に安政の大獄以来の尊攘派の囚人を赦免し、刑死者、病死者の罪名を除いて墓をつくることを許すとともに、天領と各藩領における尊攘派の犠牲者の姓名の調査を開始した。そして12月には、京都霊山にある神葬祭施設である霊明舎で、最初の「報国忠士」の招魂祭が行われた。当日は、尊皇の志士ら66名が参集して、神祇伯白川家の執事であった古川躬行が祭主をつとめ、神道式の私祭として祭儀が行われた。

 既に倒幕運動の中心となった長州藩では、1853年以来、藩の手で忠死者、戦没者の招魂祭を行ってきており、1865年には、背後に共同墓地をもつ桜山招魂場(のちの桜山神社)がつくられていた。

 明治元(1869)年6月、明治政府は、江戸城内で大総督府主宰による東征軍戦没者の招魂祭を行い、7月には京都河東操練場で、鳥羽伏見の戦以降の戦没者の招魂祭を行なった。これらの祭りにおいては、官軍は「皇御軍(すめらみいくさ)」、旧幕府軍は「道不知醜の奴(みちしらぬしこのやっこ)」とされて、賊軍の戦没者は「朝敵」としてその霊魂は一顧だにされなかった。
 江戸の上野戦争でも、彰義隊の若い戦死者の遺体は上野の山に累々として放置されており、折りからの雨と暑さに腐敗して悲惨をきわめていた。それを見かねた神田旅籠町の三河屋幸三郎という侠客は、「死んだら仏だ、敵も味方もねえ」といって引取り、円通寺という小さな寺へ埋葬した。その寺は、江戸っ子が密かにお参りしたため、四十七士の泉岳寺のように有名になったという。(東京日々新聞社会部編「戊辰物語」)

 「御霊信仰」においては、死後の敵方の霊の鎮魂を行っている。御霊にはならなかったが、将門・純友の乱においても、そのような敵方の死後の霊をまつり、その荒魂を鎮め和魂とする鎮魂の祭りが行われていた。この流れを受けて、幕末期の孝明天皇は犠牲者に対して、幕府軍、尊皇派を問わず共に祭ることを幕府に指示していた。
 しかし明治政府の「国家神道」における招魂社の思想では、それらの配慮が全くなくなっていた。

 明治2(1869)年、王政復古後の東京奠都を機に、長州の大村益次郎(日本陸軍の創設者)が中心となって、東京に全国規模の招魂社をつくる計画がすすんだ。最初は上野の寛永寺、東照宮の一帯をあてる予定であったが、そこは上野戦争の「亡魂の地」であるとして、九段の田安台の地が選ばれ、東京招魂社がつくられた。そしてこの神社は、明治5(1872)年から、普通の神社のように内務省の所管ではなく、陸・海軍省の共同所管による特別の神社として、大祭には天皇が礼拝されるという破格の処遇をうけるようになった。

 明治12(1879)年6月、東京招魂社は靖国神社と改称され、別格官幣社の社格を与えられた。そして靖国神社の祭神は、現人神であり、陸・海軍の大元帥である天皇の参拝を受けるという大変な名誉を受けることとなった。
 祭典においては、祭主を陸・海軍の将官がつとめ、陸・海軍省が任命した宮司が祭主の代理をつとめ、憲兵が警備にあたるという特殊な神社となった。

 明治12年の創立当初は、1万5千柱程度であった御祭神は、日清・日露の戦役をへて、明治の末年にはおよそ12万柱となった。昭和に入って「満州・支那事変」により、一挙に20万柱が加わり、今度の太平洋戦争により、さらに213万柱という大変な戦没者が加わった。そして昭和62年7月現在では、246万柱が神として祭られている。
 靖国神社はこのような性格をもった神社のため、戦後、昭和20年12月に連合国軍による「神道指令」により政府からの保証、支援を禁止され、さらに、象徴天皇制と平和憲法下での戦没者慰霊をどのようにしたらよいか?明確にならないままで現在に至っている。

 靖国神社の問題点のいくつかをまとめてみると、まずその名前がある。神社名称である「靖国」は、古代中国の史書「春秋左氏伝」を出典とし、「国を安んずる」という意味であるが、ここでの「国」とは、天皇が統治する日本国の意味である。主権在民となった現在の憲法と靖国は、どうなじむのであろうか?
 第2に祭神の問題がある。祭神は、同神社規則第3条にいうように、明治天皇の言葉である「安国」の聖旨に基づくものであり、尊皇の立場にたって、そのために国事に殉じられた人々を奉祭している。その祭神は、昭和44年6月に提出された「靖国神社法案」(以下、「法案」という)では、「戦没者及び国事に殉じた人々の英霊」となっている。
 しかし実は日本国のために殉じた人々のすべての霊魂が、ここに祭られているわけではない。たとえば、明治の「戊辰戦争」では、多くの有為の人材が賊軍の汚名を着せられて亡くなっている。さらにそれには女性や子供まで道づれになった。彼等は、新しい日本をつくるために殉じた人々であるのに、靖国神社には祭られていない。また、2・26事件など、軍部の内部対立によって処刑された人々も、ここには祭られていない。

 見方によっては、本当に国事のために殉じた多くの霊の名誉復活がなされていないまま、一方的な価値観によって合祀されるしくみになっている。それに対して2百万人を越す戦没者を出すに至った戦争の責任者として、国際的には犯罪者と見倣されて処刑されたA級戦犯は、靖国神社に合祀されている。
 また戦前には日本人として戦争に参加させられ、戦死していった台湾、朝鮮などの人々の霊にたいする処遇なども明確ではない。さらに、太平洋戦争では、沖縄や日本本土も戦場になったわけで、そこでの市民の犠牲者の鎮魂も、問題を残している。

 つまり幕末に長州藩が作った招魂社と、その後の陸・海軍の戦死者に対する「鎮魂」が、その時の価値基準を残したまま、その後の靖国神社の宗教的行事の運営がなされていることに最大の問題がある。
 日本は国民主権となり、しかも2度と戦争を起こさないために、戦力まで放棄した現状では、靖国神社は全く新しい観点から考え直すしかない。沖縄戦の最後の激戦地となった南部の摩布仁の丘には、沖縄戦で亡くなった敵味方、すべての人々の名前を刻んだ碑がたてられ、そこを訪れた人々のすべてに、戦争の悲惨さとむなしさをうったえている。これが本当の鎮魂碑といえるのではないか?

 靖国神社問題の悲劇は、旧陸・海軍省を始め、戦後も選挙や利権にからむ政治家達を、世俗的な形で日本国民の「鎮魂」に関わらせてしまったことにあるといえる。




 
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