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  (5)平将門と「天慶の乱」

 現在、東京駅の近く大手町のビルの谷間に「将門首塚」があり、日夜、供養が行われている。太平洋戦争後、何度か整地や建設の計画があったようであるが、その都度、事故や関係者の死亡など、将門の祟りと思われる怪異があり、現在も将門の御霊は「神」として祭られている。
 平将門(?-940)は、平安朝の中期に、下総を中心にして勢力をふるった武将である。父の遺領をめぐる一族の紛争を起こしたが、その後にこの紛争が「将門の乱」と呼ばれる内乱にまで発展し、西に起こった「藤原純友の乱」とともに、古代国家を揺るがす事件となった。

 古代、東北地方(蝦夷)を鎮圧するために、陸奥に「鎮守府」が設置されていた。この鎮守府長官である平良将(正)の3男が将門である(「尊卑分脈」)。北畠親房の「神皇正統記」(1339)によると、将門は若い頃京都で藤原忠平に仕え、その推薦で検非違使になろうとしたが、顧みられなかったので憤って国へ帰った、とされている。もともと、中央の権力への志向が強かったと思われる。

 将門の乱は、2つの段階に分けられる。第1の段階は、東国における地方豪族間の権力争いである。将門は、前常陸大掾源護とそれを助けた叔父国香、叔父良兼、良正などと、承平5年(935)から6年にかけて、何度も戦っている。
 「今昔物語」巻25では、将門のことを、「多ノ猛キ兵ヲ集テ伴トシテ、合戦ヲ以テ業トス」と書いている。このことで双方が朝廷に訴えたり、訴えられたりしている。

 第2の段階は、将門の行動が国家に対する反乱の性格を持つようになったところから始まる。最初は、将門の本拠である下総国の隣国である常陸国で、国司に反抗していた藤原玄明という人物が、常陸国司藤原維幾に追われて、将門に援を求めてきた。将門は、玄明を保護し、天慶2年(939)11月に千余の兵を率いて常陸に赴き、これ維幾と交渉して、玄明の常陸国への居住を許して追捕しないことをせまった。しかし維幾は、既に3千の精兵を集めて将門に備えていたため、戦争になった。
 結果は、将門が維幾の軍を破り、府中を焼き、維幾を捕らえ、印鍮を奪って帰った。さらに武蔵国でも、国司と対立していた武蔵権守興世王が、将門を頼ってきた。期せずして国の地方政策に反対の立場をとる人々が、将門のもとに結集したわけである。

 1国をとるも関東八州をとるも罪は同じという興世王の言葉をうけて、将門は近隣の諸国へ兵をすすめた。12月に下野国では国司が将門を迎え、上野国も占領した。
 この時、八幡大菩薩の使いという一人の巫女が現れて、朕が位を将門に授け奉る、というお告げを語った。その位記は菅原道真の霊魂が表し、八幡大菩薩が八万の軍を起こして、朕の位を授けるであろう。今、すべからく三十二相の音楽を奏して、これを迎え奉るべし、というご託宣であった。
 将門は再拝しこれを受け、一軍挙って相慶した。将門は、桓武天皇-高望王-良持という5世の末孫をほこる家系である。そこで将門自ら「新皇」と称し、「下野国亭南」を平安京にみたてて王城とした。律令制度を模して、板東諸国の国司を任命し、さらに左右大臣をはじめとする官職を任命した。ついで将門は、武蔵、相模等の国々を巡検し、国府の印鑑を収めた。

 将門は、天慶2年12月15日付けをもって、摂政藤原忠平に上申書を提出し、従来の顛末を報告して了解を求めた。そこには既に「新皇」を称しているのに、「将門、傾国の謀(はかりごと)を萌すといえども、いずくんぞ旧主を忘れんや。貴閣、これを察し賜れば甚幸なり。」と低姿勢な言葉で書かれている。
 朝廷は、将門の「西上入京」を信じて恐れたが、彼の野心は関東八州によって、日本の半分を統治することにあったことが、上申書の内容から分かる。
 しかし一方、西では「純友の乱」が起こっているわけで、古代の律令制国家は最大の危機を迎えていた。

◆将門誅滅と将門伝説

 この時、京都の貴族が講じた乱への対策は、神仏にすがることであった。特に伊勢神宮には頻繁に奉幣が行われた。
 天慶3年正月19日、藤原忠文が征夷大将軍に任じられ、2月には東国へ出発した。一方、藤原秀郷と平貞盛は共に挙兵し、2月14日に4千の兵で将門の兵と激しく戦った。「扶桑略記」によれば、その日、将門は平貞盛の矢が左目に当たり、落馬したところへ、秀郷が駆け付けて首をとったといわれる。その後、将門の一統はすべて斬られて、滅んだ。3月5日、朝廷は将門誅滅の詳報をうけ、秀郷は従五位下、また後に、下野、武蔵守に任ぜられ、貞盛は従五位下に叙せられた。征夷大将軍の藤原忠文が、東国へ到着したときには、事件はすでに終わっていた。
 事件後、将門の首は4月25日に都に送られて、京の東市にさらされた。

 「史籍集覧」(第12冊)所収の「将門純友東西軍記」によると、将門の眼は暫く枯れず、その上、首が夜な夜な笑って、遺骸(むくろ)があれば今一度合戦すべきもの、と叫んだ。その時、ある男が、「将門の、こめかみよりぞ射られけり、俵藤太がはかりごとにて」と詠んだら、眼がたちまち枯れてしまった。また、将門の遺骸は、首を追って武州まできて、豊島郡で倒れた。これが後の神田明神である、という話をのせている。

 伝説では、都で木に吊された将門の首は、故郷を目指して空を飛んだ。力つきて落ちた場所が、大手町の将門首塚であるという。そしてその後、神田明神に神として祭られた。
 東京には、他に「鎧神社」(新宿)がある。将門の鎧が埋められ、祭られたという説があり、神田明神と同様に、オオナムチの神と一緒に祭られている。

 将門の怨霊は、道真の場合と違い、天皇家や藤原氏に祟りをもたらした記事はない。そのため御霊として祭られた形跡もない。しかし将門は「明神」になった。

 想像するに、ある日、晒されている将門の首が消えた。これが空を飛んだという伝説になった。将門の首は、将門を支持する一派か、または祟りを恐れる一派の手によって、盗まれたわけである。そして飛んだ首は故郷の下総ではなく、首を盗んだ一派の地である武州に「力つきて落ちた」。そして、その一派が祟りのないように、その地に将門を神として祭った、というのが多分、筋書きであろう。

 関東には、もともとオオナムチの神を祭る神社が非常に多い。神田明神も祭神は、オオナムチと将門の2柱である。オオナムチ神は、天皇家の祖神アマテラス神にたいして、黄泉国の王である大国主命である。つまり関東地方は、宗教的には京都を支配するアマテラス神に対抗するオオナムチ神の地であり、将門はそこのオオナムチ神とともに「明神」として祭られたわけである。
 その勢力は、武州の「郡司」もしくは同等の勢力をもつ一派であったと思われる。首を盗んできて祭ったというと、中央から追及されるため、首が空を飛んできて、力つきてここで落ちたので、やむをえず祭った、というのが中央政権への弁解として分かりやすい筋道であったといえる。

 将門の乱が終結した翌年の天慶4年(941)に、西国の藤原純友の乱も終結して、古代の反乱は終わった。純友の最後は首を斬られたとも、獄中で死んだとも諸説がある。いずれにしても純友は神には祭られず、伝説にもなっていない。その違いは、彼等を支持していた地方勢力の違いなのであろうか?

 乱の終結後、御霊鎮魂の儀式は一応行われた。朱雀天皇は譲位後の天暦元年(947)3月、延暦寺で法会をいとなみ、この乱で命を落としたものに対して、「官軍」、「賊軍」の区別なく、すべて王臣としてその冥福を祈った。
 このように不慮の死をとげた者に対しては、敵・味方を問わず祭る思想は、多分、御霊信仰と共通するものであろう。つまり自分達に危害や災害を与える怨霊達も、これを手厚く鎮魂すれば、逆にわれわれを守ってくれる神に転化するというのが、そこでの考え方である。




 
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