2.日本人の死後世界
(1)仏教の死後世界と臨死体験
◆冥途への旅路 死後世界の体験記
本当の極楽浄土とそこへの道程はどのようなものであろうか? といっても実際に本物を見てくることはできない。しかし、慶滋保胤の「日本往生極楽記」や鎮源の「大日本国法華経験記」を始めとする、多数の「往生伝」の中には、夢に極楽世界を見た話や、臨死体験により見てきた話が、数多く登場する。
実際に死後世界を見てきた例を見てみよう。
源尊法師という僧は幼児の頃から仏門にあり、日々、法華経の数部を読誦していた。盛年になり、重病を数日病んで亡くなった。死後、恐ろしい閻魔の庁へ行った。その僧は、閻魔王の前で、法華経の第1巻から第8巻までを声高く読んだところ、閻魔をはじめとする地獄の役人は、合掌してこれを聞いた。そこへ貴僧の姿をした観世音菩薩が現れて、汝は元の国にかえり、この経を読めといい、さらに菩薩の力で暗誦できるようにしてあげようといわれた。
僧は、一晩たって蘇生し、その後、法華経を毎日3部、自分のため衆生のために読んだといわれる。(「大日本国法華経験記」第28)
また摂津の国豊島郡多々院のある僧は、数十年の間、法華経を読み、三業修行(身・口・意の所行)を行ってきたが、はやり病で亡くなり、死後5日たって蘇った。
死後、閻魔王の前に行くと、汝は罪業が深く地獄に残すべきであるが、長年、志しをもって法華経を読誦してきた功徳により、特にこの世にもどしてあげよう、といわれた。
この話にはさらに続きがあり、この世への帰路に僧が見た「あの世」の有様が語られている。
そこでは、山野の間に数十の七宝の塔があり、荘厳微妙で僧や聖人が宝塔に向かってすわっていた。口から火をだして七宝の塔が焼けた。このとき虚空に声があり、この塔は僧や聖人が法華経を誦するときに出現するものである。怒りの心を止めて法華経を誦すれば、微妙な宝塔は世界に満ちあふれるであろう。汝はこのことを聖人につげるべきである、といわれた。
僧は、この世に蘇生した後に、聖人にこのことを語り、聖人は慙愧の心をおこして、法華経を読誦するようになったという。(大日本国法華経験記」第32)
醍醐寺の僧蓮秀は、この世とあの世の境を見た。蓮秀は、重病により冥途への道をたどり、人間世界の境を越えた。深く幽ある山、険難の高い峰を越えて、その道は遠かった。
鳥の声は聞こえず、鬼神暴悪の類がいた。深い山を越えると、大きな河があった。広く深くこわかった。この河の北岸に老女の鬼がいた。その形は醜く卑しくて、大きな樹の下に住んでいた。
その樹には、多くの衣が懸けられていた。この鬼が僧に言うには、「この河が三途の河であり、我は三途の河の渡し守である。おまえの衣服をぬいで、我に渡して渡れ!」といった。そこへ4人の天童がきて、この僧は法華の持者で観音に加護されている人です!と言うと、老女は合掌して敬った。
天童が僧に言うには、ここは冥途であり、悪業の人のくる所です。はやく元の国へ帰り、よく妙法を持し、観音を称念し、生死を捨て離れて、後に浄土に生れて下さい、と言った。
帰途、2人の天童に迎えられて、1晩後に蘇生した。(「大日本法華経験記」、第70)
◆阿弥陀来迎
臨終に当たっては、「聖衆来迎図」に見られるように、阿弥陀如来のご来迎を得て極楽往生できれば最高の喜びであろう。しかし実際のご来迎の状況の記述は、多くの往生伝を見ても、関係者の夢の中に現れる場合が多く、詳細な記述は少ない。
しかし「往生要集」の著者・源信については、「臨終の行儀」を現した、いわば「臨終」の作法のプロであり、ご来迎についても正式に行われる必要があった。
「大日本国法華経験記」(第83)の叙述を見よう。寛仁元年(1017)、僧都は重い病の床にあったが、念仏読経を続け、観念行法を怠らなかった。臨終が近付いたとき、兜率天の弥勒菩薩からの使者がお迎えにきた。しかし僧都は、極楽へ往生して、阿弥陀仏の妙法をお聞きしたく、極楽界で弥勒の礼拝をしたいので、弥勒菩薩に極楽往生できるように力を貸してほしいとたのんだ。
源信は、6月10日の午前4時頃、76歳で亡くなった。この時、天に微妙な音楽が流れた。ある人は、楽の音が西から東を指してくるといい、ある人は、東から西を指していくという。また香しい風が吹いて、奇妙な香気が、虚空に満ちあふれた。草木の枝葉は、萎へ衰へた形になり、涕涙鳴咽の声は山林に満ちた。
極楽世界を主宰する仏である阿弥陀には、2つの意味があるといわれる。その1は、時間にかかわるもので、永劫、無限を意味する「無量寿」、その2は、空間にかかわるもので、「碍りなき光」、一切の光を意味する「無量光」がそれである。つまり無限にあふれる光といったものである。
観無量寿経は、どのような人にも、極楽浄土を手にとるように見えるようにするための、訓練マニュアルともいえるお経であるが、その第1ステップは、毎日、落日を見て、次に、目を閉じて落日を心に想い浮かべる訓練を行う。これを「日想観」という。
つまり、阿弥陀仏は、沈む太陽を象徴した仏といえるように思われる。
◆臨死体験
最近、臨死体験が詳しく研究され始めた。それらは、たとえば立花隆「臨死体験」上・下に詳しく実例をあげ、分析されている。この中で、臨死にあたり、光・香り・音などが共通して現れてくることが報告されている。
その一つに、臨死の際における「まばゆい光」の体験がある。それは「太陽の何倍もの白光」であり、一つの解釈として、「呼吸を止めて仮死状態に入ったときに、瞳孔が拡大するので無限光を感ずるのだ」という言葉が紹介されている。
この無限光は、低酸素状態に入ったとき、脳内につくりだされるエンドルフィンという麻薬の作用でおこる恍惚状態と複合してくる。この状態になると、人間にとって「死」はまったく怖くなく、逆に至福の状態になるといわれる。
このような状態に、音や香りが加わる。また場合によっては、体がどんどん上昇する体験も報告されている。無量光は、まさに阿弥陀仏=無量光如来のご来迎であり、そのとき、美しい音楽と香りに満ち、体が浮いて上昇し始めたら、これはまさに仏教的な極楽往生そのものではないかといえる。
現代の人々が、念仏三昧にあけくれて極楽往生するとは考えにくい。むしろ古来の人間の臨死体験に、仏教思想がそれなりの解釈を加えてきたものが「極楽往生」かもしれない。
◆「日本霊異記」に見る蘇生と転生
生物学的な「死」とは、呼吸が止まり、心臓が停止した時をもって「生」が終わることをいうのであろう。「あろう」というのは、一時的に停止しても、人工呼吸や電気ショックによって、それらの活動が再開すれば、意識がなくてもまだ死んではいないことになる。
つまり死の時点を決めることは、意外に難しいといえる。
仏教的な「死」は、人間界における肉体から、魂が分離して次の世界へ「転生」することを意味する。つまり、魂は多くの場合、欲界の六合世界の中で「輪廻転生」を繰り返すと考えられてきた。
ここで肉体から分離した「魂」又は「霊魂」というものが独立して存在するものかどうか? また、それが「輪廻転生」するものかどうか? これらの問題を日本人がどう考えてきたか? これらは、大変面白い問題である。
死んだと思った人が生き返って、その間の体験談を語る。これは最近「臨死体験」として研究の進んできた分野であるが、その古い事例が最も豊富に記載されている「日本霊異記」のケースを見てみよう。
● 推古天皇の33年(625)12月、紀伊国名草郡の大部屋栖野古の連の公が浪速で亡くなったが、死後3日で蘇った。その間、聖徳太子に会い、共に山頂に登った。太子に、「早く家に帰って、仏を造る所を掃除せよ、私が仏前で懺悔し終わったら、宮へ帰り仏をつくろう」といわれて蘇った。(上巻第5)
● 膳臣広国は、慶雲2年(705)秋に亡くなった。死後3日で蘇り、地獄へ行った話をした。 (上巻第30)
● 聖武太上天皇の御代(750-)、摂津の国の金持ちが、漢神の祟りから逃がれようと、毎年1頭の牛を殺して神を祭り、合計7頭を殺した年に亡くなった。死ぬとき、死後9日は火葬にするな、といいつけたが、9日をへて蘇り、地獄の有様を語った。(中巻第5)
● 天平勝宝元年(749)12月、武蔵国多摩郡の役人であった大伴赤麻呂という人が死んだ。 翌2年5月に、黒牛に生れかわった。その理由は、自分が造った寺の物を借り用いて、そのままにしていた報いであった。(中巻第9)
● 聖武天皇の御代(724-749)、讃岐国香川郡に一人の金持ちがいた。この男が使用人と薪取りに山へ入り、枯れた松から足を踏み外して死んだ。卜者に伺いをたてると、「7日間は、火葬にするな。」といわれたが、約束の7日目に蘇った。贖った貝を放った功徳により、死後に行くべき宮を見た話をした。(中巻第16)
● 聖武天皇の御代、讃岐国山田郡の布敷臣の衣女が、急な病で閻魔王の使いの鬼に連れていかれた。このとき、衣女が鬼に門の左右に祭ってあった食べ物をご馳走したところ、そのお礼に同姓同名の人がいたら替え玉にしてやるといわれた。そこで鵜垂郡の衣女が替え玉として鬼に連れていかれてしまった。しかしその替え玉の女は、閻魔王に見破られて無事この世に帰ってきたが、3日たっていたため、既に、体が火葬に付されていた。
困った鵜垂郡の衣女が、閻魔王に苦情を申したてたところ、山田郡の衣女のからだがあるならば、そちらへ蘇るよういわれて、そちらで蘇った。しかし山田郡の両親は蘇った娘が、我が家は鵜垂郡にあるといっても納得できない。そこで強引に鵜垂郡へ行って、わたしはここの娘です、というと、そこの両親は娘は既に火葬にしましたという。
そこで衣女は、閻魔王の話を両家の両親に詳しく説明した結果、両家の娘となり、「二つの家の宝を得」ることになった。(中巻第25)
● 聖武天皇の御代、奈良の山寺の僧が亡くなった。死に際し、「自分の死後、3年間は、部屋の扉をひらくな」と弟子に遺言した。死後、49日に部屋の扉の所に、大きな毒蛇がいた。部屋の中には銭30貢が隠してあり、大蛇に生れかわりその銭を守っていたことが分かった。(中巻第38)
● 神護景雲2年(768)2月、藤原朝臣広足が大和国の山寺において病気で亡くなった。3日目に行くと蘇生していて、死後、閻魔の庁へ行った話をした。(下巻第9)
● 宝亀4年(773)4月、信濃国小県郡の他田舎人蝦夷が急死した。死後7日日に蘇生して、死後に閻魔の庁へ行った話をした。(下巻第22)
● 宝亀5年(774)3月、信濃国小県郡の大伴連忍勝という僧が、信徒の暴行を受けて死んだ。5日目に蘇って、地獄から帰ってきたことを話した。(下巻第23)
● 宝亀7年(776)7月、讃岐国美貴郡の田中真人広虫女が病死した。7日目に蘇ったが、腰から上が牛になり、額には角が生えていた。(下巻第26)
● 奈良時代に、佐伯宿禰伊太知という人が筑前に下り、病死した。その後蘇って、死後49日の閻魔の庁における苦役の話をした。(下巻第37)
● 大和国山辺郡の善珠禅師は、下顎に大きな黒子(ほくろ)があった。延暦17年(798)に死去する際、日本国王の夫人丹治比の胎に宿り、王子に生れ変わると予言した。
翌延暦18年に丹治比の夫人に一人の王子が誕生し、下顎の右の方に禅師と同じ黒子があり、大徳親王といった。この親王は、3年後に亡くなったが、その霊が卜者に自分が善珠法師であるといった。(下巻第39)
● 孝謙天皇の御代(750-758)、愛媛県の石槌山に寂仙菩薩という浄行の禅師がいた。臨終に際して、死後28年の後に国王の子として誕生し、名を神野といい寂仙の生まれ変わりであると予言した。
それから28年後、桓武天皇の御代の延暦5年(786)の翌年、神野親王が生まれた。この親王が、嵯峨天皇(在位809-823)である。(下巻第39)
「日本霊異記」は116話から構成されているが、そのなかで蘇りと再生に関する話が、上記の12話である。 一割以上を占めているわけで、その後の「往生伝」に比べて、非常に多い。霊異記の成立の時期は、822年頃と見られているが、最後の神野親王の話は、昔話ではなく、在世中の天皇に関する重大な挿話であることに驚かされる。
この日本最古の説話集のなかに、その後に出た夥しい説話や伝承などの原型が、ほとんど網羅されている。
古来、日本では死後の霊は、何日かの間、あの世とこの世の間をさ迷っていると思われた。仏教的には、その期間が49日となる。上記の12話からも、死後の蘇りの日数は、3日が4件、5日1件、7日2件、9日1件、49日1件となる。
死後、蘇りまでの日数は、7日以内が7/9件であり、1週間以内で殆どが蘇る。また生れ変わりは、人から人が2件、人から牛が2件、人から蛇が1件となり、その期間は、7日から28年と大きなばらつきがある。
◆蘇生と魂呼び
仏教において人の魂が死後に肉体からはなれて、次の世界へ転生するまでの期間は、49日であった。その間、魂は肉体を離れて、あの世とこの世の間をさ迷っていることになる。前記の「日本霊異記」においても、蘇りの期間は、3日から49日であり、3日が最も多かった。
この蘇りの日数は、一般的な死霊に対する取扱いと対応している。つまり、死後3~49日は、魂が他界へ向かいつつある時なので、死霊の向かう方向、つまり、井戸の底、海の方、山の方、霊山の方、西の方、墓地の方に向かって、タマヨビの儀礼が行われることが多い。遺体は、北枕、西向きにする例が多く、西、北の方角も、タマヨビの方角となる。
「日本書紀」巻11の「仁徳紀」に、3日日に「髪を解き屍に跨りて、三たび呼びて日はく、「我が弟の皇子」とのたまふ。乃ち応時にして活てたまひぬ。自ら起きて居します」として、魂呼びとそれによる蘇生譚が記されている。
平安期にも魂呼びの記録がある。藤原道長の第4女嬉子(後冷泉天皇の母)は、万寿2年(1025)8月5日午後4時、赤斑瘡のため19歳の若さで亡くなった。その夜、雨降る中で、魂呼びが行なわれた。
魂呼びは、嬉子の御衣を打ち振り、文言を唱えるやり方で行われた。「小右記」8月7日条には「尚侍殿の御衣を以て、魂喚を修す」とある。
「栄花物語」巻26、「楚王の夢」には、男達が「たゆむな、たゆむな」と魂呼びの効果を期待し、僧達は、「観音、観音」と蘇生を祈った。「女房どよめき泣きたる声、制すべき方なく、いみじくゆゆしとは、これをだにいはでは何事をかはと見えたり」と栄花物語は記している。
嬉子の遺体は、法典院北僧房に安置され、8月15日夜、蓮台野で火葬にされた。死後、10日目のことであった。
|