アラキ ラボ
日本人と死後世界
Home > 日本人と死後世界1  <<  19  20  21  22  23  24  >> 
  前ページ次ページ
  (2)怨霊の鎮魂 -荒魂、聖霊、御霊

 生きている人々に災いをもたらす特殊な霊は、怨霊と呼ばれて恐れられてきた。わが国における怨霊は、その萌芽はかなり古くまで遡ると思われるが、一般化してくるのは平安時代以降のことである。
 古代の怨霊は、江戸時代の幽霊のようなものではなく、自然災害をもたらす巨大で恐ろしい霊であった。しかも個人の私怨というよりは、滅ぼされた権力者の恨みによるものであった。またそれほどの恨みでなければ、歴史に記録されなかったであろう。これらの権力者の怨霊は、従来は「御霊」などで知られていたが、最近は、梅原猛の「神々の流竄(るざん)」(1970)、「隠された十字架-法隆寺論」(1972)、「水底の歌」(1974)等における大国主命、聖徳太子、柿本人麻呂などの霊に対する新しい視点として有名になった。

◆大国主命 -滅ぼされた国王の怨霊

 日本書記によると、崇神天皇の5年、国内に疫病が発生して人口の半分以上が死亡した。さらに翌6年には百姓の流亡、反乱などがおこり、その勢いは、もはや徳をもって治めることが出来ないほどになってしまった。その原因は、天照大神と大国魂神を宮廷内に共に祭っていることであることが分かった。そこで天照大神にはトヨスキイリヒメの命をつけて倭の笠縫邑に祭り、大国魂神にはヌナキノイリヒメの命をつけて祭った。しかしヌナキノイリヒメの命は、髪が抜け落ち、体がやせ細って大国魂神を祭ることができなくなってしまった。

 翌7年、この災害をなくして国を治めるには、倭の大物主大神の子である大田田根子に自分を祭らせるとよい、という夢告が天皇にあった。そこで11月に大田田根子を神主として大物主大神を祭り、市磯長足市を神主として倭大国魂神を祭ったら、国内がようやく平穏になった、という記述がある。

 この崇神天皇紀で祟った怨霊の名を見ると、天照大神と併祭されていた神は倭大国魂神、ヌナキノイリヒメの命に祭らせた神は日本(やまと)大国魂神、天皇の夢に現れた神は大物主神、その後に3人の夢に出て大田田根子が神主として祭った神は大物主大神、市磯長尾市を神主として祭った神は倭大国魂神である。この2神の関係は、大物主大神は和魂、 倭大国魂神は荒魂といわれる。

 大物主神、大国魂神という名は、出雲の大国主命と同じ名前であり、この出雲の大国主命との関係が極めて分かり難い。その関係について日本書記の一書第六によると、大国主神の国造りが終わった時、神々しい光が海を照らし、そこから1人の神が現れた。その神は、大国主神の幸魂奇魂(瑞祥と神霊の魂)であるといい、さらに大和の三諸山に住みたいといったので、大国主神が神宮を作って住まわせたのが大三輪の神であると述べている。
 ところが実際の三輪山の神は、山自体をご神体とした神社以前の古い神であり、そこには鳥居があるだけで社殿はない。

 ここで詳細を述べることは控えるが、古代において大和国家にならぶ国づくりを進めていて滅ぼされた出雲の王である大国主神が、実際にはこの段階で祭られた神のように私には思われる。「大国主神」というのは、アマテラス大神をいただく天尊族に滅ぼされた部族の地主神の普通名詞であり、全国的に存在していた。たとえば東京には武蔵府中の大国魂神社があり、出雲の大国主命が祭神である。つまり全国の国津神の代表が、出雲の大国主命であったと考えられる。

 この大国主神を祭る出雲大社は、古代における最大規模の建築であった。時代は下るが平安初期の源為憲の「口遊」には「大屋を誦する」として、「雲太、和二、京三」と書いている。当時の大建築を数えあげた言葉であり、その第一位が出雲の大社、第二が東大寺大仏殿、第三が京都の大極殿であった。平安期でさえ驚く大建築が、奈良時代より前に存在したわけである。しかしその神社の社殿のプランが、さらに驚くべきものであった。
 社殿はごく普通に南向きに建てられたが、神殿は東北隅(=鬼門位)に西向きに設置されている。これは「西の三合」といって、新しい生命が生まれないことを意味しているといわれる(長原芳郎「陰陽道」)。さらに32丈という高さは、雲に分け入って雲・水・風が輪廻しない建築になっている。また建築に使用される数体系は、伊勢神宮が奇数(陽数)であるのに、すべて偶数(陰数)が使われていて、日没の幽宮であることを示している。(拙著「建築と都市のフォークロア」)
 つまり出雲大社は、非常に念入りに大国主神の霊を封じ込めるために作られている神社であることが分かる。

◆聖徳太子と法隆寺 -滅ぼされた一族の鎮魂

 梅原猛「隠された十字架 -法隆寺論」(1972)は、古来、建築的にもいろいろ不可解な点が多かった法隆寺と、有名なわりにその実像がはっきりしなかった聖徳太子に、全く新しい視点を与えた。同書により、古来、謎の多かった法隆寺は、聖徳太子と、蘇我入鹿に滅ぼされた上宮王家の子孫25人の怨霊に対する鎮魂の寺であることが立証された。

 同書ではそのことを、法隆寺の中門の真ん中に柱があること、この中門がいまなお聖霊会の時以外は開かずの門であること、金堂に太子とその父母の像と称する俗人の服装をした仏像を3体並べて本尊としていること、東院の夢殿には太子等身の像と称する救世観音が秘仏として祭られており、その顔が不気味であること、公式文書である日本書記がなぜか太子の叙述では冷静さを失っていること、太子の霊が聖霊会という儀式であまりにも丁重に祭られていることなど、従来と異なる新しい視点から解釈し、古代史の世界に大きな衝撃を与えた。

 聖徳太子の怨霊鎮魂説は、現在まだ通説となっているわけではないが、太子の死後4年目に蘇我馬子が亡くなった後、日本書記はいくつかの天変地異を記述しており、それらは状況証拠とも考えられる。例えば、蘇我馬子が亡くなった推古34年には、3月から7月まで長雨が降り、夏の6月には雪が降った。飢餓は深刻化し、老人は草の根を食べ、餓死者は溢れ、犯罪が横行した。翌35年の春2月には陸奥国でむじなが人に化けて歌をうたい、夏5月には蝿が集まって10丈にもなり、空一杯になって信濃坂を越え、雷のような羽音を出して東の上野国まで飛んでいって消えた。
 これらの天変地異に関する日本書記の叙述は、怨霊説を裏づけるおどろおどろした状況である。そして聖徳太子の怨霊は、法隆寺では「聖霊会」という名で、長い間、密かに鎮魂されてきており、その後の「御霊信仰」の原点のようにも見えるのである。

◆御霊信仰

 奈良時代から平安時代にかけて、都が平安京に移っただけではなく、そこでの権力者の構造が大きく変わった。その際、不当な罪を受けて死んだ人は少なくない。これらの死者は、怨霊となって新しい都に災いをもたらした。このような政治的陰謀などにより、無念の死を遂げた犠牲者の霊は、死後、怨霊となって国に災いや疫病をもたらすと恐れられ、「御霊」と呼ばれた。その最初となったのが、長岡京の藤原種継の暗殺事件に連座して死んだ早良親王の怨霊の祟りであった。
 廃太子早良親王の祟りといわれる怪異は、早くから宮中に現れていた。そこで親王の葬られた淡路島まで僧侶が派遣され奉幣が行われていたが、それでも祟りは治まらず、延歴19年(800)には親王に崇道天皇の尊号を追贈し、山陵への格上げが行われていた。これは最初の「御霊会」の63年も前のことである。

 平安京を開いた桓武天皇(737-806)は、天智系の天皇である。奈良時代における天皇は、持統天皇以来すべて天武系で占められてきたが、この流れが称徳天皇(718-770)を最後に終り、光仁天皇(709-781)の即位によって、新しく天智系に変わった。
 しかもこの権力の交替が、藤原・橘という古代貴族の政権争いとからみ、そこに始まる多くの政争の犠牲者の怨霊が「御霊」であり、その鎮魂が「御霊信仰」となった。

 最初、御霊社に祭られたのは早良太子と井上内親王の霊であったが、貞観5年(863)5月20日に、平安京の神泉苑で行われた最初の「御霊会」で祭られた怨霊は「六所御霊」といい、崇道天皇(早良親王)、伊予親王(桓武皇子)、藤原夫人(吉子)、橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広継の六人の霊になっていた。
 ところが御霊会による鎮魂にも関わらず、なお災害は続いた。貞観7~8年には疫病が流行して死者は3千人にのぼり、6年5月には富士山が噴火し、11年5月には陸奥地方に大地震、大津波があり死者は千人にのぼった。そのためさらに、御霊に吉備真備、菅原道真が加わって、御霊は八所となって現在にいたっている。
 その御霊とは、どのような人かを次に説明する。






 
Home > 日本人と死後世界1  <<  19  20  21  22  23  24  >> 
  前ページ次ページ