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  (3)「御霊」-平安京の怨霊

 「御霊」は3つの種類で構成されているように見える。
 まず第1の御霊は、桓武天皇による平安京への遷都とそこでの権力闘争の犠牲者の怨霊である。その犠牲者とは早良親王、井上内親王、他戸親王、伊予親王、藤原吉子である。これらの御霊は、すべて桓武天皇に関わる人々の怨霊である。この内、井上内親王と他戸親王については、「御霊会」が正式に開始された863年には、天智系の皇統が確立して桓武天皇も崩御されており、「六所御霊」からはずされている。

 第2の御霊は、桓武天皇以降の天皇の代になって作られた怨霊である。橘逸勢、文屋宮田麻呂、そしてなぜか「御霊会」の段階になって登場した藤原広継がある。

 第3の御霊は、「御霊会」の発足後に登場した菅原道真公の怨霊と、古く遡って祭ることになった吉備真備の怨霊である。この順に沿って、以下に述べる。

◆第1の御霊

 平安京を開いた桓武天皇(737-806)は、母を渡来人系の高野新笠、父を天智天皇の皇孫白壁王(光仁天皇)とする天智系の天皇である。
 奈良時代における天皇家は、天武天皇の皇后であった持統天皇以来、文武-元明-元正-聖武-孝謙-淳仁-称徳と、すべて天武系で占められてきた。この流れが称徳天皇(718-770)を最後に終り、光仁天皇(709-781)の即位によって新しく天智系に変わった。しかもこの権力の交替が藤原・橘という古代貴族の政権とからみ、血なまぐさい政争に発展した。
 この権力交替に始まる多くの政争の犠牲者の怨霊が、最初の「御霊」である。その鎮魂が 「御霊信仰」であり、863年の「御霊会」よりかなり遡って行われている。

● 崇道天皇(廃太子早良親王)
 早良親王(さわらしんのう)(?-785)は、光仁天皇の第2皇子で母は高野新笠である。桓武天皇即位で東宮となったが、藤原種継の暗殺事件に連座し、淡路へ流される途中、絶食して死去。安殿親王に祟りをなすと思われ、崇道天皇と追号され、京都御霊神社に祭られた。いわば第一の「御霊」の中心的人物である。

 事件は、新都長岡京の造営にからんで起こった。従来の天武系の都であった奈良の地を離れて、桓武天皇は、新しい権力基盤として新都長岡京の造営をすすめていた。この指揮者が藤原種継(737-785)であった。彼は、藤原百川に続く式家藤原氏を代表する実力政治家として活躍していた。
 この種継が、延暦4年(785)9月24日、突然、暗殺される事件が起こった。暗殺計画は、佐伯・大伴氏が中心になり、北家藤原氏や春宮の宮人を含む、かなり大がかりなことが分かった。桓武天皇は反逆の罪で、斬罪、流罪を執行したが、その範囲は非常に広範に及んだ。事件に関係したといわれる大伴家持は直前に死んでいて処刑は逃れたが、葬式も出せない状態になった。
 事件には北家藤原氏や春宮関係の宮人が加わっていたことから、嫌疑が早良親王にも及び、親王は10月8日に皇太子を廃されて乙訓寺に幽閉された。親王はこれに対して、十余日間飲食を断って抗議し、淡路島へ移送の途中に高瀬橋頭で死去した。遺体はそのまま淡路島に送られ葬られた。
 11月25日、天皇は、早良親王に代り、安殿(あて)親王を皇太子にした。

 早良親王は、桓武天皇とは母を高野新笠とする同腹の兄弟である。この事件は、早良親王の下に結集した大伴・佐伯など古代の名族と、反式家藤原氏勢力の蹉跌であった。

 廃太子の後、桓武天皇の近親者には災害が頻発した。延暦5年(786)藤原古川の夫人旅子の母諸姉死去、延暦7年旅子が死去、延暦8年母高野新笠が死去、延暦9年皇后乙牟漏が死去、延暦11年皇太子が重病。占いにより、早良親王の祟りと分かった。
 天皇が畿内の神社に奉幣したが、長岡京は洪水に襲われたり、雷雨で南門が倒壊したり、自然災害まで相次いだ。このようなことから、延暦12年(793)1月に平安京への遷都の検討が始まり、翌年、平安京への遷都が実施された。つまり平安遷都も、早良親王の祟りからの逃避が一つの動機になっていたといえる。

 しかし遷都後も親王の祟りと思われる病気や災害がつづいた。そこで天皇は、延暦16年5月、禁中や東宮で怪異があるので転読悔過を勤仕して親王の霊に謝った。それでも怨霊の祟りが続いたため、延暦18年2月には、役人と僧を淡路島にやり親王の墓前に奉幣し、さらに翌19年(800)7月に親王に崇道天皇の号を送り、墓を崇道天皇山稜として陳謝の儀式が行われた。

● 井上内親王
 井上(いがみ)内親王(717-775)は「六所御霊」にはないが、早良親王とともに恐れられ鎮魂された人である。内親王は、聖武天皇の皇女であり、光仁天皇の正妃である。伊勢の斎王として20年にわたる巫女の生活をした上で、30才を過ぎてから白壁王(のちの光仁天皇)と結婚し、他戸(おさべ)親王を生んでいる。宝亀元年(770)10月、光仁天皇の即位とともに皇后になった。その翌年、他戸親王は皇太子になった。

 宝亀3年(772)3月、井上皇后が光仁天皇を呪詛したとして、「巫蠱(ふこ)罪」により廃后になる事件が起こった。他戸皇太子も翌年廃皇太子となった。
 前皇后と前皇太子は、大和宇智郡没官宅に隔離幽閉されて、宝亀6年(775)4月に共に亡くなり、天武系皇統は終蔦を迎えた。呪詛事件の翌年、式家・藤原百川の推薦により皇太子になった山部親王が、後の桓武天皇である。

 この井上内親王・他戸親王の事件は、天武系の権力を取り除くためのものであることは明らかであり、しかも早良親王と同様に、桓武天皇に最も近いところで起こったものである。それだけ怨念も強いわけであり、桓武天皇はこの3人の霊の鎮魂のために、奈良県五條市に御霊大明神社を建てた。

● 伊予親王(桓武皇子)、藤原吉子
 伊予親王(?-807)は、桓武天皇第3皇子であり、母は藤原是公の娘吉子(?-807)である。平城天皇は元来虚弱な体質であり、即位後も怨霊の祟りで神経質な性格であったが、藤原種継の娘の薬子を信任していた。
 大同2年(807)、薬子の兄藤原仲成が皇弟伊予親王の反逆を讒奏したため、平成天皇は伊予親王と生母吉子を川原寺に幽閉し、食を断たせた。そのため親王母子は毒をあおいで自殺した。これは式家藤原仲成と妹薬子が、南家藤原氏の勢力を排除しようとした陰謀といわれ、このことにより御霊は、もはや桓武天皇だけではすまなくなった。
 平城天皇はその後も健康がすぐれず、在位3年で嵯峨天皇に譲位した。譲位後も不調が続いたため、これらの御霊に対する鎮祭が始められた。弘仁元年(810)7月17日に、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人を祭った記事がある。

◆第2の御霊

 仁明天皇の御世(833-850)の承和9年(842)に承和の変がおこり、橘逸勢と文屋宮田麻呂が犠牲者となり、御霊に加えられた。さらに既に百年も前に亡くなり、その上、冤罪者ではないと思われる藤原広継が御霊に加えられた。
 そして井上内親王と他戸親王は、天武系の皇統が絶えて天智系のそれが確立した段階で、「御霊」から外された。
 以上の6柱が、貞観5年(863)5月2日の「御霊会」で御霊として祭られ、鎮魂の儀式が毎年行われることになった。

● 橘逸勢
 橘逸勢(たちばな の はやなり)(?-842)は、橘奈良麻呂の孫で、804年に遭唐史として入唐。書道の名人で「3筆」の1人である。仁明天皇の承和9年(842)7月、北家藤原良房らの策謀で皇太子恒貞親王が廃せられ、仁明皇子の道康親王(後の文徳天皇)がこれに代わった。(「承和の変」)
 橘逸勢は、このとき恒貞を擁し、仁明廃立をはかった首謀者として流罪にされた。逸勢は拷問に屈せず、伊豆に流される途中に遠江で死去した。

● 文屋宮田麻呂(生没年不詳)
 平安初期の貴族。840年(承和7)筑前守として九州へ赴任。新羅と交易。841年に解任後も現地にとどまり、西国地方を舞台に貿易、商業を行った。
 新羅商人と結び反乱を企てたとして、843年12月謀反人として伊豆へ流された。これも恒貞廃太子事件に関係があると見られるが、証拠となる隠匿の兵器類は少量であり、密告者が宮田麻呂の従者であることから、多分に冤罪の疑いがある。

● 藤原広継
 藤原広継(?-740)は奈良時代中期の公卿。738年に大養徳(やまと)国守兼式部小輔となったが、翌年、大宰少弐に左遷。玄昉・吉備真備らの専横を非難し、北九州で乱を起こしたが、1か月ほどで破れ殺された。

◆第3の御霊

 最初の「御霊会」が行われてから、雷神となって祟りを恐れられた菅原道真の霊と、かなり古く遡って御霊に加えられた吉備真備の霊である。

● 吉備真備
 吉備真備(693-775)は、奈良時代の貴族であり、右大臣を勤めた。吉備地方の豪族の出身であり、717-735年の間、留学生として入唐。儒学・天文・兵学など各種の学問に通じ、玄昉と共に橘諸兄の下で活躍。藤原仲麻呂の政権下で筑前守に左遷され、ついで肥前守となる。その後、遣唐副使として再び入唐した。
 帰朝後、大宰大弐となり、怡土城を築く。天平宝字4年(760)の恵美押勝の乱には、機敏な処置で軍事に参画して押勝を倒した。その功績により称徳天皇の天平神護2年(766)に従二位右大臣となった。ちなみに同時に左大臣になったのが、藤原永手である。
 永手は、天智系の光仁天皇を擁立した功績により、宝亀元年(770)正一位を授けられている。真備は光仁帝ではなく、天武系の長親王の子である文室大市を皇位に押したといわれ、職を辞し、宝亀6年に83才で亡くなった。国際的な知識人であり、優れた政治家であったが、晩年になって大きな権力の交替期の犠牲になった人である。「長生の弊、還りてこ の此の恥にあう」(長生きして、恥をかいた)といったという説が残されている。

● 菅原道真 -別項で述べる。

◆「御霊」とはどのような神か?

  「御霊」は、神として神社に祭られた特定の怨霊をいう。その祭られた「御霊神」とは、どのような「神」なのであろうか? 実は、神泉苑で行われた「御霊会」に関する「三代実録」の注解も妙である。そこでは、御霊会において「仏を祭り経を説き、御霊を慰撫してその祟りを鎮めるために、歌舞・演劇・相撲・騎射・競馬などの歓を尽くす」、と書かれている。とすれば、それは仏教的な鎮魂の儀式である。日本には、八百万(やほよろず)の神があるといっても、そこで神として祭られる「御霊神」とは、どのような神なのか?

 桜井徳太郎「民間信仰辞典」をみると、「御霊」とは、「人霊の総称らしいが、とりわけ荒々しい怨念をこめた人霊のみに限定して用いられる事例が多い」。また、「御霊は災厄をもたらす根源だとする古代心意は、人々の間で潜在的に伝承されて今日に至っている。行疫神・厄病神などは御霊の発現形態の一つで民間に定着した。しかし御霊も祭神として祀られ、怨霊が鎮まると、守護神として働くようになる。」として、近世の事例を記している。

 また柳田国男「民俗学辞典」には、「御霊」という神名はなく、信仰の形態として「御霊信仰」という項目をあげている。そして、この祭祀は従来の氏神のそれとは、非常に異なり、規模において行列と芸能が大きな役割をなし、大きな飾り物、地方色を出した民衆芸術であり、激しい神輿渡御などに特徴があるという。

 つまり「御霊」は、あまりに怨念がつよい霊魂なので、通常の仏教的な鎮魂の儀式では成仏できないと考えた場合に、その怨霊そのものを「神」に祭って鎮魂し、できれば守護神になってもらおうという、日本的・便宜的な「神」のようである。
 「御霊」の場合は、幾柱かの複数の怨霊をまとめて鎮魂できたが、さらに怨念が強い霊魂に対しては、その都度、個別の「神」として祭る必要がでてくる。
 そのように、個別の神になった怨霊が日本には幾柱もある。その第1が、御霊としても祭られている菅原道真の霊である。






 
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