5.日本における死後世界の探求
人間は生まれてきた以上、いつかは必ず死ぬであろうことは誰でも知っている。しかし、実際に死後どうなるかを知っている人はだれもいない。今まで、死後世界について本書でいろいろ書いていながら、それらの内容の信憑性は全く実証されているわけではない。では、それらの話は、全くでたらめな作り話であるかというと、そのことを実証することもできない。
特に、我々は近親者の死を体験したとき、物理的・生物的な死は理解できても、昨日まで話をしていた親しい人の魂まで死んでしまったとは、なかなか考えにくい。いわんや、自分自身が死んだときには、自分の心や魂も一緒に死んで無くなってしまうということは、もっと納得しにくい。
そこで人は死ぬ時、肉体は滅びても、精神とか霊魂は滅びず生き続けるという思想が登場してきた。哲学や宗教の世界では、さらに進んで、この精神世界、霊的世界こそが本当の世界であり、肉体で関わり合う世界は仮のものであるとする思想すら、存在するほどである。
しかしこの霊的世界は、実証が難しく実験も不可能な世界であるために、従来、科学の世界では死後世界、霊的世界を意識的に避けてきた。そのため、その世界に間違って踏み込んだ科学者は、洋の東西を問わず、ほとんどそのすべてが不遇な取扱いを受けてきた。そして、その状況は現在なお続いているものの、一方では1970年代以降のニュー・サイエンスの登場により、かなり状況が変わってきてもいる。
そこで、ここでは実験・実証に少し踏み込んだ、死後世界の問題を取り上げる。
(1)平安時代における死後世界の探求 -源信の二十五三昧会と往生極楽記
横川の僧源信は、寛和元年(985)に極楽往生のためのマニュアルともいうべき「往生要集」を世に出したが、その翌年、「日本往生極楽記」(985?)の編者である慶滋保胤などと共に、25人が発起人となって「二十五三昧会」という活動を始めた。
同会の内容は、永延2(988)年6月15日の日付をもつ「横川首楞巌院二十五三昧式」という起請文に述べられている。それによると、この会は毎月15日に横川の首楞巌院(しゅりょうごんいん)で開かれる。未時(午後3時頃)に会員一同が集まり、申時(午後5時頃)から法華経の購読を行い、廻向の後に起請文を読む。そして、酉終(午後8時頃)から翌朝の辰初(午前8時頃)に至るまで夜を徹して、念仏と阿弥陀経の読涌を行う。
この結集は会の時だけでなく、会員の関係は党とよばれ、おたがいに「父母兄弟の恩」をなし、たがいに離れ離れの生活をおくりながらも、決定往生のための契りをかわしていた。したがって起請に従わないものは、一同の協議のもと除名されるべきものとしていた。
また決定往生の団体であるために、党の構成員の命が危なくなると、全員で対応する。まず番をつくって看護に精進し、病人を阿弥陀仏を安置した草庵にうつす。会員の臨終に当たっては一同こぞってその一念を助け、友の極楽往生をたすけた。臨死の会員に、この世とあの世との境界で見えてくるものを聞きとったといわれる。
会員が死ぬと、共同墓地である安養廟に葬られ、党人は全員でその冥福を祈った。しかも党人は死んでも会員の資格を失うわけではなく、死後世界から会に通信をおくる資格と義務をもつという大変な会であった。(井上光貞「日本浄土教成立史の研究」)
そしてこの趣旨にそって、生者と死者を総合した会員名簿が「二十五三昧過去帳」として作られたのであろう。
二十五三昧会が発足する20年前から、慶滋保胤と叡山の僧侶との間では、3月と9月の15日に法華経の購読と念仏を夜を徹して行う、「勧学会」というのが行われてきていた。これも会合は、年2回ではあるが、日常生活における精神的団結を図ったもので、「党」とよばれてきていた。二十五三昧会は、勧学会の発展したものであり、「往生要集」はこれらの同信同行の念仏団体の、指南の書としての性格を持っていたと思われる。
また慶滋保胤は、巨万の費用を投じて「豊屋峻宇」を興す権門勢家の人々が幅をきかす「近代人世」の世相をえがいた、「池亭記」の著者として知られる人物であるが、保胤自身は、朝は新邸の西堂に参じて阿弥陀仏を念じ、昼は朝廷の王事に従い、夜はその東閣にこもって古賢の書に親しむという人物であった(井上光貞、大曽根章介編「往生伝 法華験記」日本思想体系-文献解題)。そのために彼によって編集された日本最初の往生伝である「日本往生極楽記」は、編者自身が勧学会などを通じての、なまなましい見聞をおさめていると見られる。
そのような観点から「日本往生極楽記」(以下、極楽記という)を見ると、最近のニュー・サイエンスにおける臨死体験と共通した記述が、極楽往生にあたってもいくつか登場してくる。
たとえば臨死体験においては、「非常に明るい光」が現れる。極楽記では、延暦寺座主僧正増命(6)が亡くなる時、「金光忽ちに照らし」、紫雲がたなびき、音楽が空にきこえ、香気が室にあふれた。また河内国河内郡の僧、沙弥尋祐(29)は、和泉国松尾の山寺で亡くなった。その夜、戌の刻から亥の刻にかけて大光明があり、山中はまるで昼のようになったが、亡くなると同時にこの光明も消えた。この夜、里人は火事と間違うほどの「大光」を山寺に見た。また延暦寺楞巌院の十禅師尋静(14)は、亡くなる前、夢の中で大いなる光の中に、数十人の禅僧が宝輿をもって音楽を唱えながら、虚空の中にいるのを見た。
また臨死体験では、様々な「聞き慣れない音」が、聞こえる事が報告されている。極楽記では、天に音楽が聞こえることが、数多く記載されている。聞き慣れない不快な音という記述はないが、音楽の外にも「櫓の音」が聞こえたという記述もある。摂津国豊島郡の箕面の滝の松の木の下で修行していた僧(23)に、天からお迎えが来た時、生死の大海をわたる筏の櫓の音が聞えた。衆生を極楽浄土へおくる筏の音であった。
臨死体験では、多くの人々が「心のやすらぎと静けさ」を感じるという。極楽記によると、梵釈寺の十禅師兼算(13)という僧は、病に臥して大変苦しんでいた。ところが7日の後に急に起き上がって「心神明了」になり、自分の命はまもなく終わるであろうと語った。
また、伊予国越智郡の役人であった越智益躬(36)という人は、池亭記の著者と同様に、朝は法華を読み、昼は国務に従い、夜は阿弥陀仏を念じる暮らしをしていた。臨終に当たっては、身に苦痛もなく、心に迷いや乱れもなかった。
臨死体験では、多くの人が「美しい花園や野原」を見ている。極楽記には、花園や野原は出てこないが、「異香室に満てり」など、芳い香りがしたという表現は多数出てくる。おそらく花や香の香りであろう。蓮の香りと特定したものもある。
近江国の国守彦真の妻であった伴氏(36)は、少女の頃から常に阿弥陀仏を念じてきた。臨終の日、座を胎蔵界曼荼羅の前に移した。この女性が病気で息も絶え絶えの間、蓮の香りが室に満ち溢れ、雲気が簾に入った。身に苦しみはなく、西に向かって亡くなった。
極楽記では、極楽世界からお迎えの人がもってきた花を持って亡くなった人の話も出てくる。伊勢国飯高郡の一老婆(41)は、常に仏事に勤め、勤修に当たっては、香を買って郡中の寺々に供し、春秋には花に塩、米、木の実、野菜などをつけて僧に届け、長い間、極楽往生を求めていた。この女性が病になり、数日たって、子孫が重湯を食べさせようと起こしたとき、身につけていた衣服が自然にとれて、現れた左手に一茎の蓮花をもっていた。その蓮は花びらの直径が20cm以上もあり、とてもこの世の花とは思えなかった。色あざやかで、香りがあふれていた。看病の人がこの花の由縁をきいたら、私を迎えにきた人がもってきてくれたものだと語った。そのあとすぐにこの老女は亡くなった。
臨死体験では、多くの人が亡くなった近親者が現れるという。それらの人の中には全く見知らぬ人の場合もある。極楽記においては、極楽からのお迎えがくる記事が多い。
岡山の僧普照(12)は、ある夏を楞巌院に過ごしていた。その夏の夜、麦の粥を寺中に施そうと湯屋にいた時、良い香りが山中にひろがり、妙なる音楽が空に聞えた。この時、普照がうたたねの中で、一つの宝輿が山から西を目指して飛び去るのを見た。その輿には、僧侶と楽人が左右についていた。そして輿の中には楞巌院の僧が乗っており、夢からさめた後、その僧が亡くなったことを知った。
前述の楞巌院の十禅師尋静(14)の場合も、数十人の禅僧に守られた宝輿がお迎えにきた。このように禅僧が迎えにくるケースが、他にも多く記載されている。
延暦寺の沙門真覚(27)の場合は、すこし変わっていて鳥が迎えにきた。尾長く白い鳥がきて、去来去来(いざいなむ)といった。孔雀がくることもある。源憩(35)の場合は、一羽の毛羽光麗な孔雀がきて、前を飛び舞った。
前述の伊勢国の老婦人の場合は、美しい極楽の蓮花をもった人が迎えにきた。しかし亡くなった近親者が迎えにきた例はあげられていない。
このように見てくると、20世紀末のニュー・サイエンスにおける臨死体験の報告例は、すこし異なるとはいえ、千年以上前の極楽記にも類似の事例がいくつかあることが分かる。
このようにその生涯をかけて極楽往生を目指した人々の記録は、もともと中国でつくられたものであるが、わが国では本稿でのべた「日本往生極楽記」を手始めに、多数の往生記がつくられた。首楞巌院の僧鎮源によってつくられた往生伝「大日本国法華経験記」には、源信も慶滋保胤もともに異相往生の人として記録される側にまわっている。
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