7.あとがき -このテーマを選んだ理由
このテーマをなぜ取り上げたか? それを最後に書く必要があるであろう。
私の世代は、子供の頃、既に現在のアフガンやパレスチナの人々と同じように、毎日が死に向き合う時代を生きてきた。敗戦の年の1945年、私は旧制中学の1年生であった。当時、太平洋戦争はもはや最終の「本土決戦」の段階を迎えており、4月から始まった沖縄戦では、同年代の学生が対戦車戦やひめゆり部隊に参加して、多数戦死していた。また、8月には広島で疎開家屋の取り壊し作業を行っていて原爆の直撃を受けたのも、同年代の中学1年生であった。
その頃、都会の小学生は空襲を避けて田舎に集団疎開をしていた。私がまだ空襲をうけていない名古屋の町へ疎開から帰ってきたのは、B29による本格的な日本本土への空襲が始まる直前の3月9日であった。その翌日、歴史に残る東京大空襲が行われ、名古屋が最初の爆撃を受けたのは3月12日のことであった。
12日の夜の空襲では名古屋の南部が被害を受け、幸いにして私のいた市の中心部は被害を免れた。その翌日、町内の寺へ行ったら、前夜の空襲で亡くなったお婆さんの遺体が、野天に寝かされ、むしろが掛けられていた。たった1人、付き添っていた人も、見も知らぬ私に代わりをたのんで、どこかへ行ってしまった。だれもいない寺の境内で、私は、空襲で亡くなったお婆さんと2人だけであった。むしろからは真っ黒に炭化した手足が外にでていて、着物のため焼けなった白い皮膚との境が紫と白で、ナスビのへたのように生々しかった。
翌週の3月19日、B29による大空襲で市の中心部はすべて焼けた。その夜、火炎は名古屋の空を覆つて幅100mの広い道路をかけぬけ、折からの強風に乗って火がついた紙や衣類は、猛烈な勢いで空を舞っていった。それは文字通り火焔地獄の中であり、私は家族ともはぐれて、濡れた布団を被ってさまよっていた。私の家の家号であった「立田屋漆器店」という看板が炎の中に浮き出し、濡れた地面の上には合羽を着た横丁のすしやのおじさんが仰向いて亡くなっていた。私は、何の感動もなく、その境を歩いていた。
朝、大きな太陽は煙りの中で輝きを失って東の空に昇り、すべて燃えつくした名古屋の中心地の北には、燃えなかった名古屋城、西には名古屋駅、南には名古屋港の煙突がすべて見渡せた。
その夜、横丁の喫茶店「リットル・コーヒー」の河村君が、防空壕の中で亡くなっていた。1週間前に疎開から一緒に帰った同級の友である。小学校の校舎は死体安置所になり、20日の卒業式は取り止めになった。
翌週の3月25日には、焼夷弾ではなく250キロ爆弾による無差別攻撃が行われた。これが落ちると地面には直径5m、深さ3mくらいの穴があき、50m四方の住宅は破壊された。中学校の隣の建中寺の裏に避難していた人々のすぐ横にこの爆弾が落ち、多数の市民が死んだ。寺の境内の木々には、死体がばらばらになってぶら下がり、私が中学へいった時には、まだ木々にはぼろ切れが一杯引っかかっていた。この空襲で、同級の中野君が250キロの直撃弾を受けて亡くなった。2週間前に一緒に疎開から帰ってきた友人は、すでに2人亡くなっていた。
名古屋の中心部は、すべて焼けて破壊され、小学校の卒業式もなくなり、中学校の入学試験もなく、全員そのまま希望の中学へ入った。
私の入った私立中学では、戦争の真っただ中というのに英語、数学、国語、地理、歴史といった授業が続けられていたが、その他の多くの時間が軍事教練にさかれていた。本土決戦は、もはや目前にせまっており、連日、米軍のM4戦車を標的とした「戦車肉攻」と称する特攻攻撃の練習を行っていた。1人だけ入るタコツボを掘り、戦車が目前に迫るまでその中に隠れている。そして巨大な戦車が、ほとんど頭上にきた時、タコツボから飛びだし、戦車に爆雷を投げて自分も爆死する。現在のパレスチナの自爆テロの原形である。
当時の日本では、人生25才といわれていたが、私はその時、12才であった。あと13年も生き延びることは、ほとんど不可能であろうと思っていた。
8月15日には、朝、本土決戦に備えて返納することになった38式歩兵銃の油掃除をして、ピカピカに磨き上げた銃をかついで師団指令部まで行った。
昼に天皇の放送があり、全員並んで聞いたが、雑音が激しくてほとんど何も理解出来なかった。帰り道、どうやら戦争に負けたらしいということがわかってきた。いまTVでは泣きながら聞いているシーンがでてくるが、自分たちの周辺で泣いた奴は、だれ一人いなかった。みんな口には出さないが、これで命が助かったと思っていた。
考えて見ると、我々日本人は明治以降、10年ごとに起こる戦争を通じて、常に死と隣あわせで生きてきた。そして個々人は、外から強制される死に対して、いつも心の中で対決せざるをえなかった。
戦後の50年、日本は幸い平和に推移している。しかしそれに代わる激しい経済戦争が戦われた。私が大学を出た1955年は、「高度成長」の出発の年である。それから30年、敗戦で焦土と化した日本は、奇跡の復興を遂げて、80年代には「世界一の経済大国」になっていた。
日本は新しい経済戦争を戦ったわけで、その中で企業では多くの同僚が戦死していった。TQC(全社的品質管理)運動では、社長は“血の小便をして戦え!”といっていた。私の会社では2人の戦死者が出た。1人は朝の出勤のとき本社ビルから投身、1人は支店で自分を刺して亡くなった。
私はこの時、定年になったらまず四国遍路に出ようと真剣に思っていた。自分はTQC推進の責任者の一人であったから!私がその責任を果たさないでいるうちに、同期入社の渡辺さんが1人で四国の歩きお遍路さんに出た。四国遍路へ出る人は多いが、歩きお遍路は今では少ない。私は渡辺さんに先を越されて気にしているうちに、残念ながら2度と歩けない体になってしまった。
2001年10月20日は土曜日であった。翌週は年に一度、大阪で全国から集まる社長さんを相手に3日間のセミナーが予定されていた。夜、10時半ごろ、本書のコピーを読み終わったら、すこし眩暈がしたので、そのまま寝てしまった。
夜中の3時半頃トイレへ起きたら、また眩暈がしたので、家族を起こして救急車で入院した。その時はまだ2階から自分で階段を降りられるほどであったが、病院へ着いた時には狂牛病にかかった牛のような状態になっていた。CTスキャンをとっても何も出ないので、単なる高血圧による眩暈として、翌日の午後3時頃まで処置室に放置されていた。その時には、もう立つことも歩くこともできなかった。再度、CTスキャンをとってもなにも出ず、MRIで調べた時にはすでに日は暮れていた。
その夜、家族は主治医から病名は脳梗塞で、これからの3日間が生死を分ける峠になると説明を受けた。たしかにその間、私の右半身は麻痺して行動の自由を失い、自律神経は失調して半身が夥しい汗にまみれて、生死のはざまで呻吟していた。しかし頭は冴えて、意識はずっと目覚めており、その間のすべての時間の経過は、べッドの横の時計で見て知っていた。夜がふけて、やがてすこし白み始め、明るくなって朝になり、さらに明るく暖かくなって昼になる。午後になると日が陰り、やがて暮れていき再び夜になる。この地球の自転を、病院のベッドの上で肌で感じていた。
それは生涯の内で、何度も経験しない長い3日間であった。この間、自分の意識は目覚めていたが、頭は時々眠っていた。そして健康であった時とは全く異質の夢を見ていた。
第1夜は、脳卒中は初めての経験であるのに、夢の中ではまた脳卒中にかかってしまったと私は思っていた。実際にはパジャマを着てベッドに寝ているのに、夢の中の自分は、片腕を白布で吊り、温湿布がなされていた。侍屋敷のような家の広い台所では、何人かの着物を着た女性がかまどの大きな釜に湯を沸かしていた。そして中年の白い面長のしっかりした奥方風の女性が、テキパキと指示を与えて働いていた。どうやら私の病気の看病に当たっているようであるが、かなり古い時代のようで、皆知らない人々であった。
第2夜は、旧満州の地名や人名がいくつか出てきた。私の知らない地名であり、字の読み方も良く分からなかったが、ひとつ吉林省だけは読めたので記憶している。あとの細かい地名は、全くその漢字が読めなかった。人名は、金日成将軍という名前がでてきた。北朝鮮の首席であった金日成ではなく、日本軍と戦った伝説上の人物であり、その人と日本浪人との裏ばなしがいろいろ出てきたが、それらは残念ながら私の全く知らない話なので、はとんど理解できなかった。
第3夜は、竣工前の巨大なレジャー・ランドへ招待された。それはいくつもの山にまたがって作られていた。時刻は夜明けなのか日暮れなのか分からないが、薄明の山の頂上近くに、私は1人で立っていた。はるか地平線のところだけが、白く明るく輝いていた。その山の頂きを縫うように、青く長大な魚の乗り物が、本物のような迫力をもってゆっくりうねりながら動いていた。そのこの世ならぬ風景に、私はただ圧倒されて眺めていた。
この3日の間、幸いにして次の脳梗塞も脳出血も起こらず、私は無事生還した。夢も普通に戻ったが、そこから4ケ月に及ぶ長い入院生活の始まりになった。
入院中に年が改まって、春3月に退院した。リハビリの歩行訓練を重ねながら、一方、頭のリハビリのために旧稿を読んだ。そして病気の前に考えていた「さまよえる霊魂」といったものは、日本の国学、民俗学、源信や福来博士の死後探求、そしていろいろな実証的な事例に置き換えた。人間の生きている時間は、本当に短い。我々が生まれてくる前には、人類の発祥以来の長い時間があり、そして死後には、また無限に長い時間がある。
人生は、その無限に長い時間に挟まれたほんの一瞬のようなものである。「死の世界」は、その無限に長い時間にかかわるものであり、日本人が過去に考えてきたその一端を、ここで紹介してみたいと考えた。
(おわり)
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