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日本人と死後世界
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1.仏教における浄土への転生
2.日本人の死後世界
3.来世への生き方
4.死後の祭られ方
5.日本における死後世界の探求

6.日本人の霊魂のゆくえ
(1)国学から民俗学へ
(2)現代民話の死後世界
(3)生まれ変わり

7.あとがき -このテーマを選んだ理由
 
  6.日本人の霊魂のゆくえ

 死後の霊魂はどこへゆくのか?仏教では、死後49日間はこの世にとどまるものの、その後は6道を輪廻転生すると考えた。つまり死者の魂は、49日間だけは自分の家の仏壇や埋葬された墓のまわりにいるが、それが過ぎればすべて次の世界へ生れかわるということになっている。
 しかし日本では、49日の喪が明けてからも、死者の魂を供養する行事が多く行われている。例えば、百ケ日、1周忌、3回忌、7回忌などといったものがそれである。さらにその他にも、先祖の霊魂は7月14、15日と12月31日の大晦日には、自分の家にもどってきて、その都度、生者と死者の交流が「先祖供養」という形式で行われている。

 これらの先祖供養の仏事は、仏教的な念仏供養とは本質的に相容れない要素をもつように私には思われる。たとえば親鸞は「歎異妙」の中で、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まふしたること、いまださふらはず」と述べているように、仏教において念仏は自分自身のためのものであり、先祖のために念仏供養を行うなどということは、仏教思想とは違う、日本的な家族共同体的な思想からでているように思われる。
 極楽往生記を見ても、そこに登場する人々はすべて個人である。一族でとか、先祖代々とか、夫婦で仲良く極楽往生をめざすといった共同体的な思想はない。

(1)国学から民俗学へ

◆本居宣長、平田篤胤、柳田国男

 平安朝以来、極楽浄土を目指した人々の記録は、極楽往生記のかたちで明治にいたるまで、1000年にわたって書きつがれてきたことを前に記した。ここに登場する人々が求めた極楽浄土は、この世から西へ十万億土(土は国の数)という想像を絶する遠隔の地にあるといわれる。一方、地獄の方は、極楽よりはかなりこの世に近いようであるが、そこへの道も既に述べたように大変な難路である。この遠い道を年2回、また年忌ごとにこの世へ呼びもどされたのでは、いくら供養とはいえ、死者の魂も容易なことではない。

 この小さな日本列島の中の、またその内の狭い地域に定住してきた多くの日本人達は、仏教思想はともあれ、自分や親、兄弟・姉妹の死後の魂が、そんなに遠いところへ行ってしまうという思想には、馴染まなかったようである。
 そこで、身内の死者の霊魂は、死後は近くの山の中などに行き、そのような霊山へいけば、死後にも容易に会う事ができると考えた。そのような霊山は、古代の神南備山、三輪山から、中世の吉野、熊野、高野山など、いろいろ存在してきたし、そのように有名でなくとも、住む村や町の近くの山は、ほとんどすべてがかつては霊山であった。

 このような考え方は、国学の中に流れている。本居宣長は、仏道では死後に善人は天上浄土、悪人は地獄へ、生まれるというが、これらは漢国の人々によるつくりごとであり、「人死ぬれば、善人も悪人も黄泉国へゆく外なし」(「答問録」)と簡単に言っており、死者はなべて地中へ行くといった。
 この本居宣長も、自分の死に際しては、山中他界を自宅から4キロほどしか離れていない山室山の妙楽寺に求めて、そこの墓所について詳細に指示する遺書を書いた。
 宣長は、吉野水分けの山系につづく山室山の墓所を、死後の霊魂の安息の地と定めたわけである。

   山むろに千年の春のいやしめて 風にしられぬ花をこそ見め
   今よりははかなき身とはなけかしな 千代の住かをもとめ待つれば

 本居宣長のあとを受けた国学者である平田篤胤は、死者そのものをけがれたものとせず、神魂(たま)と亡骸(なきがら)に分け、骸は地中の黄泉国へ行くが、霊魂はこの国土にとどまると考えた。万葉集の歌にいうように、
   ももたらず やそのくまじにたむけせば 過去し人にけだしあはむかも

 平田は、死者の霊魂はこの国土に永久にとどまっており、この世から冥界を見ることは難しいが、この世と冥界は密着して存在しているものと考えた。
 「冥府というは、此顕国におきて別に一処あるにもあらず。直にこの顕国の内いずこにも有なれども、幽冥にして、現世とは隔りみえず。故もろこしの人も、幽冥また冥府とはいえるなり。」(「霊の真はしら」下)

◆柳田国男の「先祖の話」

 本居、平田の国学の路線の上に、柳田国男の民俗学がある。
 柳田国男は、日本の敗戦がほとんど不可避になった昭和20年4月から5月にかけて、民俗学の名著「先祖の話」を書いた。

 太平洋戦争では、すでに2百万人を越える戦没者をだしていた。かつて、わが国では、人々が口にすることをはばかってきた死後世界、霊魂があるかどうかという問題を、どうしても取り上げなければならない、という切迫した気持ちが柳田にはあった。
 この書の中で柳田は、祖霊信仰を日本人の固有信仰と位置付け、家の神祭の基本的性格を明らかにした。そしてさらに、有為の若者がお国のために外地で空しく死んでいく現実に対して、先祖へのまつりを通じて、家の伝承をうったえる警世の書でもあった。

 この書で柳田は、日本的な死後世界の考え方について4つの特徴をあげている。
 第1は、日本人は、死んでも霊魂はこの国にとどまって、遠くへは行かぬと考えていることである。これは、上記の平田の考え方に似ている。
 第2は、この世とあの世との交通が繁しく、春秋の定期の祭りだけではなく、どちらか一方の気持ち次第で、招き招かれることが容易であると考えていること。
 第3は、生人の今はの念願は、死後には必ず達成すると考えていること。これによって子孫のために、いろいろな計画をたてた。
 第4は、三度生まれ変わって、同じ事業を続けられると思っていたものが多いこと。

 これらの考え方は、常に他国からの侵略に晒され、場合によっては、自分の生まれた地を追われて、生きていかざるを得ない大陸の人々には考えられない、日本的特徴であろう。
 このように考えてみると、中国や朝鮮における儒教的なものとは違う、日本的な先祖霊とのかかわりが見えてくるし、またそれとの関連から、今まで本書で述べてきた仏教的死後世界とは大きく異なる、日本的な死後世界をえがきだした。

◆ご先祖様とは

 墓石の表面には「○○家代々之墓」と書かれていたり、墓石の裏面や墓誌または過去帳には、そこに葬られた人々の戒名が書かれている。この場合、そこへ行っておまいりすると、一度にご先祖様すべてにおまいりできて、きわめて便利なしくみである。これが「○○之墓」とか、「○○及び妻△△之墓」というように個人ごとに墓をつくっていったら、おそらく近い将来、日本中が墓地で一杯になるであろうし、おまいりする方もいろいろな所へ足を運ばなくてはならなくなる。
 その意味から「○○家代々之墓」というのは、大変便利で良いしくみであると私は思う。本来、仏教的にいえば、49日がすめば霊魂は次の世界へ生まれ変わっているわけであり、せいぜいこの世に生きたしるしとして、小さい位牌を自分の家の仏壇においておけばよいはずである。

 しかしこの○○家代々之墓という場合も、実はそこに葬られるための条件というか、ご先祖様になる条件が、なかなか難しいのである。
 柳田は、先祖には2つの考え方があるとする。その第1は、家の始祖である。しかし天皇家のように、第1代は神武天皇というように系図があれば分かるが、通常の家では3代くらいまでは遡れても、それ以前は全く分からないのが普通である。
 第2には、その家でまつるべき霊を先祖とする考え方である。この場合は、祭る側が祖先の範囲を若干ファジィーではあるが決めることができる。

 例えば、藤原氏の場合、始祖は藤原鎌足である。ところが鎌足の孫の代になって男の子が4人あったのに、どれを本家と決めなかった。そこで藤原武智麻呂を始祖とする南家、藤原房前を始祖とする北家、藤原宇合を始祖とする式家、藤原麻呂を始祖とする京家の4家に分れた。
 この内、まず南家は藤原吉子、伊予親王が配流され、平安の初めに藤原雄友を大納言にしたのを最後に滅びる。
 式家は藤原薬子、仲成の変などを起こし、藤原緒嗣を最後に滅びる。これらの人々の怨霊は、残る藤原一族や天皇家に祟ったことから、御霊として祭られたことは既に述べた。
 京家は、麻呂の後、藤原濱成が右大臣になるが、桓武天皇に退けられてからは振るわなくなった。
 残る北家がその後の藤原氏の主流になるが、この北家は藤原冬嗣から後、さらに多くの流れに分かれる。そこでこの分立した始祖を御先祖として祭ったわけである。

 しかし分立した後も、この系列を維持することは容易なことではない。なぜならば、始祖から子が5人生まれたとする。さらに、その子がそれぞれ5人生まれるとする。この状況がつづくと、その子孫の系列は、5×5×5×5×・・・、つまり5のn乗で増えていくことになる。3代で子孫の数は125人、5代で3,125人となる。
 このくらいまでは、まだ良い。ここから先、数は急速に増える。6代で一挙に15,625人、7代で78,125人、10代になるとなんと約1千万人になる。

 仮に、1代を30年とすると、300年たつと子孫の数は1千万人になってしまう。藤原氏はすでに1千年以上つづく名門である。すると日本中の人のほとんどすべてが、いまでは藤原氏の縁戚であることになる。事実、伊藤、加藤、佐藤などという藤のつく姓は、藤原氏となんらかのかかわりがあるとする説がある。それどころか私、荒木の紋章は横木瓜であり、これは藤原氏の紋章である。しかも藤原氏は天皇家の縁戚である。とすると、おそれ多いことには、日本人のほとんどすべてが天皇家の一族ということになってしまう。

 つまり家の初代を定めて、代々の御先祖様を正しく維持していくことは、意外に難しいことなのである。そこで柳田国男は、「御先祖になる」という言い方を紹介している。
 優れた子供を「跡取り」として、家の存続を図ろうという考え方である。また次男、三男で、跡取りにはなれないが優れた能力を持つものは、分家して自分が初代の「御先祖様」になれるしくみでもあった。藤原氏の歴史は、そのことを物語っている。

◆氏神と先祖崇拝

 古代においては祖先を同じくする血縁集団は、氏族とよばれた。物部、阿部、尾張、中臣、大三輪、大伴などというのがそれである。それらには、氏神という守護神がいて、氏の上が、氏人を率いてこれを奉祇していた。

 氏神は、基本的には次の4種類がある。(1)祖神をまつるもの。たとえば、中臣氏の天兒屋命、斎部氏の太玉命 
 (2)居住地の神。たとえば、信濃国造家がまつる諏訪下社、伊予越智氏がまつる大山積神社、秦氏の松尾、稲荷の神、また後世の土地の鎮守神を氏神とする場合 (3)縁故ある神。たとえば藤原氏の鹿島、香取の神、尾張氏の熱田神宮など (4)朝命などでまつる神、たとえば、出雲氏のまつる出雲大社、穴門直の長門・住吉神社、津守氏の摂津・住吉神社など、である。

 柳田国男は、氏神は当初は1氏族の神であったものが、その後に異姓の氏族の人々が合同してまつるようになった集合神と考えた。後世の鎮守神などはその典型である。その理由は、氏子達にとってわが神を「大きく力強く荘厳にすること」にあったといえる。つまり、柳田における氏神は、家ごとの祖先崇拝を拡大したものと考えられる。

 祖先崇拝をなんらかの共通姓で包括した信仰対象が、氏神であるのに対して、祖先は家におけるまつりの対象として、いくつでも分割が可能である。そのため、一方では、長子相続により連綿とつづく相続制と、分家によりどの子も幸せにしたいという2つの相続制が相い闘い、また妥協してつづいてきた。

◆先祖祭り

 さてこのようにして誕生した「家」にとって、最も大きな年中行事は、正月と盆であるが、この2つの祭りは、実は共に家に戻ってくる先祖霊をまつる祭りであった。

 春ごとに来る年の神を、商家では福の神、農家では田の神と思っているが、家ごとに幸せを与える歳徳神は、実は先祖霊であったとするのが柳田の考え方であった。
 日本では、人は亡くなってある年数たつと、その後は御先祖様、またはみたま様という霊体に融け込んでしまう。その年数は、33年または50年としていた。
 その先祖祭の祭日が、春分、秋分の両日、暮れから正月、そして盆であった。その他に4月に先祖祭を行っている所もあり、苗代の支度にかかる時を選んだと考えられる。

 盆と正月のみたま祭りは、同じ先祖霊でも、正月は「みたま」、盆は「精霊さん」などと区別されるようになった。めでたい正月にかえる先祖霊は、人に災いをなすおそれのある「御霊」とは区別して、「みたま」としか書きようがなくなった。
 清輔の「奥儀抄」には、年の終りの魂祭りを解説して、「下人はみたま祭とぞ申す。公家には荷前(のざき)の祭という」として、死者の霊を表現する言葉まで避けるようになった。その結果として、新年のたままつりは、暮れの行事となり、さらには暮れのたままつりもすたれて、先祖祭りは盆を中心にするようになった。(柳田国男「先祖の話」)

 さてその盆にお迎えする精霊は、3つのものからなる。その第1は、ここ1年の間に亡くなった荒忌みのみたまであり、このみたまのために精霊棚を設ける地方もある。第2は、関東以西の広い地域で「外精霊」(ほかじょうろう)と呼んでいるもので、無縁様とか餓鬼とかいう場合もある。先祖霊として必ず祭らねばならないみたまではない霊である。そして第3が御先祖の霊である。その意味での本来的な先祖霊は、33回忌または50回忌が終った霊であり、もはや生者であった故人を知る人が、ほとんどいなくなった霊のことといえる。

 この3種の精霊を家に招いてお祭りすることは、個人が死後に極楽往生を願うのとは、非常に異なる思想であり、きわめて東洋的、儒教的なものと思われる。本居、平田、柳田という国学思想は、これらの先祖供養と家を軸として見た死後世界を、純粋に日本的なものとして考えた。もちろん、そこには日本的な特徴はあるものの、基本的にはアジア的、儒教的な思想が基盤になっている。それは日本への儒教の伝来が仏教より遥かに古く、しかも渡来系の氏族を通じてそれらの考え方や生活がそのまま伝来しているので、その意味では儒教思想を日本人から分離することは、仏教思想よりはるかに難しいであろう。

 死者の霊魂は、儒教思想においては先祖供養という行事を通じて、過去、現在そして未来につながることになった。そしてその「先祖様」には、本当の先祖様だけではなく、あらみたまも、かわいそうな無縁仏も、一緒にまつることにより、一家の繁栄が図られると考えた。
 この考え方は、個人の霊魂が輪廻転生によって過去から未来へつながっていくとする仏教思想とは、大きく異なる。しかし日本においては、その両者が一緒になって、死後世界との生者との関係を形成してきたように見える。





 
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