(3)佐藤、ニクソンの秘密外交
沖縄返還にかかわる日米の両首脳である佐藤、ニクソンは、共に秘密政治の好きな政治家であった。ニクソンは、秘密外交の得意なキッシンジャーを使って、日本の頭越しに中国との国交回復をして日本を驚かせたほど裏交渉の好きな政治家である。そしてその果ては国内においてウォーターゲート事件を起こし、失脚したほどの人物である。
一方の佐藤首相も、ニクソンに負けない隠密外交の好きな政治家であった。1971年10月、国連総会における中国代表権問題で、台湾追放に反対する共同提案国になってアメリカと共に表決に敗れた時にも、台湾に自民党代議士の松野頼三を密使として送り、蒋介石に会わせていたほどである。(千田恒「佐藤内閣回想」中公新書、82頁)
このように非常に困難が予想された沖縄返還が、比較的スムースに進行したように見える背景には、日米両国間において密使による裏交渉が重ねられた事が推測される。
「キッシンジャー秘録」によれば、沖縄交渉の最終段階における秘密交渉は、「核」と「繊維問題」に絡むものであった。
面白いことは、沖縄返還が実現したあとで、佐藤は「糸」で「縄」を買ったとうわさされた巷説が、見事に裏政治の本質をついていたことである。
沖縄返還交渉に当たって、佐藤首相の密使が活躍していることは当時から囁かれていた。それが1994年5月、京都産業大学の教授であった若泉敬氏が630頁の大著「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を文芸春秋から出版し、自らがその密使であった事を名乗り出た。
そのおかげで、秘密交渉の一部が明らかになったが、そこで述べられている事実を、今なお日本政府は認めてはいない。
●密使・若泉敬と秘密合意議事録の草案
京都産業大学は、佐藤首相の実兄で60年安保の立役者であった岸信介により創立された大学である。そこでは、若泉敬教授のほかにも高瀬保教授が密使として別に活動していたといわれる。しかし、それらはお互いに全く無関係に行なわれており、その実態は良く分かっていない。
若泉敬氏は、1930年福井県に生まれ、1954年に東京大学法学部を卒業。防衛研究所に入ってロンドン大学大学院に留学、さらにジョンズ・ホプキンス大学の高等国際問題研究所の客員研究員になった。
66年からは、京都産業大学の教授をつとめる国際政治学者であった。
佐藤は沖縄返還交渉にあたり、沖縄基地問題研究会というブレーン集団を発足させており、若泉敬はこの研究会のメンバーであった。
佐藤首相がはじめて若泉と会ったのは、1967年7月26日のことであった。佐藤日記には「若泉啓君と中食、食後懇談、米国の沖縄其の他についての意見を聞く。なんといってもベトナムで頭が一杯」と書かれている。これが初めての接触と思われ、直後の8月1日から首相の諮問機関である「沖縄問題等懇談会」が、大浜信泉を座長として発足した。
若泉敬氏は、佐藤首相から全権を任され、キッシンジャー大統領補佐官と極秘の内に沖縄返還の交渉を行なった。沖縄から核兵器の撤去を求める若泉に対して、キッシンジャーは2つの対価を要求したといわれる。
一つは、日本の繊維製品の対米輸出規制であり、いまひとつは緊急時における沖縄への核兵器の通過権と貯蔵権を認める問題であった。
佐藤首相は、この核兵器に関するキッシンジャーの条件を受け入れ、それを秘密合意議事録として交わすことに同意した。その結果、69年11月の日米首脳会談の際、佐藤とニクソンは大統領執務室の隣の小部屋に入り、秘密合意議事録にサインし、その議事録はホワイトハウスと首相官邸に1通ずつ保管されたといわれる。
若泉は、この交渉の経緯を明らかにするとともに、秘密合意議事録の草案を前掲書の中で公表した。その草案の概要は次のようなものである。
米合衆国大統領
(前略) 重大な緊急事態が生じた際には、米国政府は、日本国政府と事前協議を行なった上で、核兵器を沖縄に再び持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とするであろう。かかる事前協議においては、米国政府は好意的回答を期待するものである。更に、米国政府は、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、すなわち、嘉手納、那覇、辺野古、並びにナイキ・ハークリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、重大な緊急事態が生じた時には活用できることを必要とする。(若泉「前掲書」、448頁)
日本国総理大臣
日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行なわれた場合には、遅滞なくそれらの必要を満たすであろう。(若泉「前掲書」、448頁)
●非核3原則と食い違う秘密合意の議事録
上記の秘密合意議事録は、明らかに従来の「非核3原則」とは食い違っている。しかし従来、いわれている「非核3原則」なるものは建前に過ぎず、その実態はむしろ上記の議事録にうたわれたと考えるほうが現実的であろう。
アメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争を通じて、人海戦術的なアジアの戦争にはこりごりの状態になってきていた。そのため、特に北東アジアで次の戦争が起これば最早「核戦争」以外にはない、という考え方が常識化してきていたといわれる。
そのことから在韓米軍は、通常兵器ではなく、核戦争を前提にした装備に切り替えられている、とかなり以前から囁かれていた。
この状況を前にして、米軍が日本の基地に保有している核兵器を撤去すること、又核装備した米軍の艦船や航空機が日本に入国する際にそれらの装備を外すことは考えられない。
それらについては既に、アイゼンハワー政権との60年安保改定の際に問題となり、協定が結ばれていた。
58年9月10日、藤山・ダレス会談を前にして、日本側の最も重要な問題は「(a)米軍部隊の使用と配備、(b)日本への核兵器の持込である」(米外交機密解禁文書)として、改定交渉の最大の焦点は、米軍が危機の際に日本の基地を自由出撃できる権利を獲得すること、核兵器の持込を明確にする事、の2つである事を示して、米軍部の要求を次のように強調した。
(1) 米国は事前協議の協定を受け入れることはできるが、日本側が米国の
展開に拒否権を発動することはできない。
(2) 兵器装備艦の日本滞在、日本への核兵器の持込み(イントロダクション)
に関して、日米が共に満足する解決策はない。
そこで考え出された答弁は、日本側に拒否権のない事前協議を持ち出すことは日米双方に全く無意味な手続きであり、協議を持ち出す必要性は全くない。その結果として、事前協議が持ち込まれることはない。事前協議の申し入れがないことは、核兵器が日本に持ち込まれていない証拠である、という子供だましのような愚かしい論法であった。
これが「非核3原則」の実態であるから、国民はしらけざるを得ない。
つまり核の持込みの拒否は、もともと完全に虚構であった。従って秘密合意議事録には、単に本当のことが書かれているに過ぎない。
●沖縄返還により毎年1億ドル以上儲かったアメリカ
沖縄返還に関する密約は、このほかにもいろいろなものがあったようである。たとえば「米軍は本土・沖縄を問わず、すべての基地を事前協議なしに自由に使用できること」、また、沖縄返還についての「原状回復の補償費400万ドル」を日本が肩代わりすることなどがある。
★在日米軍基地の自由使用の密約
基地の自由使用については、97年11月13日、日本共産党の志位書記局長(当時)が朝鮮有事の際に、米軍が「事前協議」なしに、在日米軍基地から自由に出撃できる密約が存在する事を発表した。これは「岸覚書」と呼ばれるものである。
69年1月11日、ジョンソン大使は、核兵器をめぐる愛知外相との会談について、国務長官への秘密公電において次のように述べている。
「核兵器問題について、愛知(外相)は、朝鮮における国連軍の支援に対する沖縄での"自由使用(Free Use)"の方式を示しながら、"自由使用"の点の可能性を示唆した。」
その方式は、在日米軍基地に関するわれわれの現在の秘密覚書を公にすることなく、公式にさせられるものだ。この点に関して、愛知は「佐藤と私は、朝鮮における敵対行動の復活の事件がおきた場合には、この秘密覚書の実行を決定し、朝鮮における米軍の行動を全面的に支援する」と述べた。(小泉親司「日米軍事同盟史研究」新日本出版社、98-99頁)
この朝鮮半島における有事の際の自由出撃を容認する「秘密覚書」は、1960年1月における新安保条約の調印時に結ばれたといわれる。
★沖縄返還における原状回復の補償費400万ドルの肩代わり密約
毎日新聞政治部・外務省担当の西山太吉記者が、その交渉過程を記載した電信文を入手し、それに基づき社会党の横路孝弘議員が、72年3月27日の衆議院予算委員会において佐藤首相を追求した。
外務省はこの文書の流出ルートを調べて、蓮見貴久子外務省事務官が西山記者に手渡したことを突き止めた。
本来の事件は、施政権をめぐる日米交渉において、米政府が支払うべき補償費400万ドルを日本政府が支払うこと、さらに基地の改善費として向こう5年間で6500万ドルを支払うという密約がなされたことである。
ところがこの密約疑惑は、事務官による機密文書漏洩と、それに対する新聞記者による教唆の事件に摩り替えられた。
警視庁は、西山太吉記者と蓮見貴久子事務官を国家公務員法の違反容疑で逮捕し、4月15日に起訴した。10月14日から東京地裁において、外務省機密文書漏洩事件として公判が進められた。
西山記者は「秘密を漏らすようそそのかした罪」(国家公務員法111条)、蓮見事務官は「秘密を漏らした罪」(国家公務員法109条)で起訴され、事件は密約事件から男女間のプライベートな関係に置き換えられた。
74年1月31日、地裁判決は西山記者に無罪、蓮見元事務官に懲役6ヶ月、執行猶予1年の判決を下した。
その後、西山氏については検察が控訴。76年7月20日に東京高裁は西山氏に懲役4ヶ月、執行猶予1年の有罪判決。最高裁は上告を棄却して刑が確定した。
男女のプライベートな事件に摩り替えられた「密約」のほうは、2000年5月に当時の日米高官の会談記録である米国務省文書が明らかになり、2002年6月にも新しい文書が見つかった。
その結果、今日では沖縄返還に伴い、1972年から1977年までに総額で6億4500万ドルの利益を、米政府は獲得した(我部政明「沖縄返還とは何であったのか」206頁)といわれる。
日本政府が肩代わりした400万ドルも、これに含まれている。
つまりアメリカは、沖縄を日本に返還したことにより、年間1億3千万ドルの利益が出たことになり、そのことをアメリカの国務省も認めた。
2006年2月には、沖縄返還交渉当時の外務省アメリカ局長であった吉野文六氏がこの「密約」を認めており、毎日新聞に対して「西山さんは本物の電文(政府公電)を入手して報道したがゆえに罰せられた」とも語っている。このような状況を受けて、西山記者は2007年春、「密約を否定した検察官の起訴や政府高官の発言などで名誉を傷つけられた」として、国に対し3300万円の賠償を求める裁判を起こした。
これに対して東京地裁の加藤謙一裁判長は、07年3月27日、密約の有無には一切言及せず、「除斥期間(権利の存続期間、20年)を過ぎて賠償請求権は消滅した」として、西山氏の請求を棄却した。(毎日新聞、2007.3.28)
このところ日本では司法制度の腐敗・劣化が著しいが、それにしても司法が厄介な政治問題から逃げた典型的事例の一つといえる。
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