アラキ ラボ
彷徨える国と人々
Home > 彷徨える国と人々1  <<  14  15  16  >> 
  前ページ次ページ
  (3)あさま山荘事件

●アジトからの逃走
 伽葉山アジトにおいて、山本順一が総括により殺害された理由というのが、驚くべきものであった。引越しの際、妻の山本保子が子供の頼良ちゃんのおしめをリュックにつめていた。それを、山本が手伝ったのを永田が見て、嫉妬したことが総括の原因といわれる。(角間隆「赤い雪―総括・連合赤軍事件」24頁)
 子供を取り上げられた上に、夫を処刑された保子は、もはや自分も助からないと思い、伽葉山から命がけの脱走をした。

 そのとき森と永田は、尾道に「出張?」しており、伽葉山アジトのリーダーは永田の元の愛人であった坂口弘が務めていた。山本保子の脱走を知った坂口は、中村愛子に頼良ちゃんをつれて尾道の森と永田のところまで、その旨を連絡に行く事を命じた。中村は看護学院にいた実績から、頼良ちゃんの面倒を見るよう命令されていたのである。

 2月7日の未明、中村愛子は生後2ヶ月の頼良ちゃんを背負い、腰まである雪の中を町まで下りて、信越線の渋川の駅前からタクシーで榛名湖畔に向った。
 タクシーの運転手は、この異様な風体の親子を見て自殺志願者と間違え、湖畔で警察に届けた。そこで彼女は警察に保護され、東京で保母をしている友人に引き渡された。

 この頃、榛名湖畔で県立公園の管理人をしている丸岡和平という人が、湖畔の森の中にフシギな足跡や、ライトバンが乗り捨てられているのを発見して、さらに焼失しているアジトの跡を見つけた。
 その通報により、群馬県警の捜査員が榛名湖アジトの焼け跡に乗り込んだのは、中村が保護された翌日の2月8日のことであった。

 ようやく事の重大さに気がついた警察は、付近の山一帯を捜索して、2月15に榛名山ベースから20キロ離れた「伽葉山ベース」を発見した。伽葉山ベースはよほどあわてて引き払ったためか、殆どそのまま残されていた。
 その遺留品を調べた警察は、手配中の赤軍派や京浜安保のゲリラ戦士たちが付近の山に潜伏していると結論し、16日朝から関東、甲信越の山々に、厳重な捜査態勢をしいた。

 このことを全く知らない森と永田は、中村愛子から坂口たちが妙義山にアジトを移したという報告を受け、2月16日にようやく妙義山にたどりついた。しかし夜の暗闇の中、妙義山アジトの位置も分からず、雪の中で一夜を過ごして、翌朝、妙義山の洞窟アジトを求めて出発したが、既にその周辺は警察に厳重に押さえられており、2人は逮捕された。

 妙義山アジトにおける11人のメンバーのうち、奥澤修一(22歳、慶応大学)と杉崎ミサ子(24歳、横浜国大)は、妙義山から出発したレンタカーの中で逮捕された。19日朝、残りの9名の半分は雪の中に洞窟を掘って待機し、そのうち4人は佐久方面に出て衣服や食糧を調達して、再度合流することが決まった。その4人は次の人々である。
   青砥幹夫  23歳 弘前大学 赤軍派
   植垣康博  23歳 弘前大学 赤軍派
   寺林真喜江 23歳 横浜国大 京浜安保共闘
   伊藤和子  22歳 日大高等看護学院 京浜安保共闘
 4人は軽井沢駅の売店で新聞やタバコを買っているうち、その異様な風体を怪しまれ、7時50分発の長野行き普通列車に乗り込んだところを逮捕された。

 この頃になると、警察は群馬県警の機動隊員470名をはじめ、長野、新潟、栃木、茨城、埼玉、神奈川など6県警の警察官合計1300名以上に動員がかけられ、各県境の山など93箇所を虱潰しに捜索が始まった。

 残る5人は、軽井沢のレイクタウンにおける雪穴の中で、軽井沢駅での4人の逮捕を聞いた。2月19日午後3時過ぎ、彼らは軽井沢町地蔵が原の新興別荘地「レイクタウン」にいるところを、15人の警官隊に襲撃された。
 20分の銃撃戦の後、5人は別荘を捨て、山の奥へ逃走した。午後4時頃、いったん神津牧場方面に逃げた5人は、其処からさらに1キロ余り離れた山腹の険しい崖のところに建つ、「河合楽器」の保養寮「あさま山荘」に飛び込んだ。

●あさま山荘・銃撃戦
 敷地630平米、木造モルタル3階建てのこの山荘は、3Fが唯一の出入り口になっており、裏は険しい崖に建っている。将に攻めるに難、守るに有利な要塞のような建物であった。
 当日は6人の宿泊客があったが、犯人たちが侵入したとき、丁度、管理人の牟田郁男は皆を連れて外出しており、留守番は妻の泰子ただ1人であった。
 彼らは泰子を3階のベッド・ルーム「銀杏の間」にビニール紐で縛って閉じ込めた。午後5時40分、犯人の1人がベランダに現れ、空き箱や畳でバリケードを作り、警官隊が呼びかけるたびに、無言で銃を乱射してきた。
 この日、昭和47(1972)年2月19日から28日までの10日間、延べ218時間45分にわたり、わが国の犯罪史上に類を見ない長い「銃撃戦」の幕が切って落とされた。

 4日目の2月22日の午前11時40分頃、突然、黒いコートの男が警察の制止を聞かず、警戒線を突破して3階の玄関口にたどり着いて中の犯人と話を始めた。
 どのように話がついたか分からないが、男は内側のバリケードの上に、前日から玄関前に放置されていた手紙の束と果物籠を置き、外に向かい「大丈夫」と言うように手をふり始めた。
 これを見て、機動隊が行動を開始し、4人の特攻隊員がドアに近づいた途端、射撃音と共に男は倒れた。男の名は田中保彦といい30歳。事件には無関係の新潟のスナック経営者であったが、8日後に病院で死亡した。

 篭城5日目の2月23日になっても、警察は犯人たちの正確な人数さえつかめないでいた。午後3時57分、警察側は一斉にガス弾を撃ち込み、犯人側も的確な射撃で打ち返してきた。
 6日目の24日になっても犯人の人数はおろか、人質になっている牟田泰子の安否さえつかめなかった。既に山荘に対する送電は第1回の総攻撃以来とめられており、その上、放水車から大量な水が注ぎ込まれていて、人質の生命も危険な状態にあった。

 そこで2月28日が総攻撃のXデーに定められた。午前10時、山荘を壊して突入するため、クレーン車と直径60センチの巨大な鉄の玉が用意された。これにより、山荘東側の洗面所の壁を破壊し始めると同時に、放水車による放水が始まった。
 鉄玉は水平打ちから垂直打ちに変わり、屋根が破壊され催涙弾が打ち込まれた。
 家の中からは、クレーンめがけてライフルによる猛烈な射撃が行なわれ、クレーンを操縦していた警官は、間一髪で難を逃れるという死闘が続いた。

 午前11時31分、鉄玉の威力で玄関の屋根が崩れ落ちた。機動隊が突入しようと立ち上がったとき、猛烈な射撃を浴びて、警視庁特科車輌隊・高見重光警部と警視庁第2機動隊長・内田尚孝警視が倒れ、その後に病院で亡くなった。
 犯人たちは3階奥の「銀杏の間」に立てこもったようであった。既に、冬の日は山の端に落ち、夕闇が迫る中を満月が昇り始めており、凄惨な現場は投光器により照らし出されていた。

 17時50分、猛烈な放水が開始され、「銀杏の間」の窓枠は吹き飛び、奔流は滝のように室内に流れ込んでいた。その中へ機動隊が突入した。午後6時21分、連合赤軍の最後の5人が逮捕されて、人質は無事に救助された。犯人は以下の5人であった。
       坂口弘  25歳
       坂東国男 25歳
       吉野雅邦 23歳
       加藤次郎 19歳
       加藤三郎 16歳
 この日のあさま山荘攻防戦はテレビで実況放映され、視聴率は98.2%という驚異的な水準に達した。
 それはまさに、映画「明日に向って撃て」の日本版であった。TVに映しだされる犯人たちに、国民の多くはポール・ニューマンやロバート・レッドフォードを重ね合わせて見ていた。そこには分からないけれど、「明日」に向っての何かがあるのではないか? でもそこには「明日の世界」など、なにもなかった!

 その後になって、山岳アジトにおける信じられない惨劇が明らかになってきた。そして赤軍派に対する国民のなにがしかの同情や共感は、完全に吹き飛んでしまった。日本国内にける新左翼運動には、その時点からシンパがまったくいなくなった。
 連合赤軍事件は、日本国民にそれほど大きな衝撃を与える事件となった。






 
Home > 彷徨える国と人々1  <<  14  15  16  >> 
  前ページ次ページ