(6)孝謙天皇 ―重祚して称徳天皇
●孝謙天皇と淳仁天皇 ―藤原仲麻呂(=恵美押勝)
天平21(749)年正月、聖武天皇が全精力を投入された東大寺大仏の鋳造が終わりに近づいていた。天平15(743)年10月、聖武天皇が紫香楽宮において古今未曾有の金銅大盧舎那仏鋳造の発願をされてから、6年の歳月がたっていた。
しかし大仏はほぼ出来上がっているものの、像に塗る黄金が足らず困っていたところに、この2月、陸奥の国守が黄金を産出したとして献上してきた。
これによりようやく盧舎那大仏の完成の見通しが立った年の7月、聖武天皇は、阿倍・高野姫尊(=孝謙天皇)に天皇位を譲り、太上天皇として後見されることになった。
749年7月、皇女は即位され孝謙天皇となり、年号は天平勝宝元年と改められた。
孝謙天皇は聖武天皇の第2皇女、母は光明皇后である。聖武天皇は、上皇として孝謙天皇の後見をつとめられ、756年5月、崩御になった。
図表-6 孝謙、称徳天皇をささえた大臣たち
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孝謙天皇 |
称徳天皇 |
天平21年 |
天平宝字8年 |
大師 |
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藤原恵美押勝 |
大臣 |
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道鏡禅師 |
左大臣 |
橘諸兄 |
藤原武智麿次男 |
右大臣 |
藤原豊成 |
藤原豊成 |
御史大夫 |
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文室真人浄三 |
大納言 |
藤原豊成 |
藤原永手 |
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巨勢奈良麿 |
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孝謙天皇の治世の間、政治の実権は孝謙天皇にはなく、母・光明皇太后と藤原仲麻呂(=恵美押勝)が長官をつとめる紫微中台という役所がにぎるという、異常な事態になっていた。
この役所は、孝謙天皇の即位の年につくられたものであり、その職務は禁中にあって勅を奉じ、諸司に分ち行なうというものである。実際には国政中枢の太政官の機能を奪い、国家の大権を掌握するほどのものであった。仲麻呂は、光明皇太后の信任を背景にして、目覚しく政界に進出してきていた。
聖武天皇が崩御された翌天平宝字元(757)年、橘奈良麻呂らがクーデターを企て、仲麻呂政権の転覆をはかったが、未然に鎮圧され、仲麻呂の専制的地位はますます強化されていった。
その翌年、仲麻呂は舎人親王の子の大炊王をたてて淳仁天皇とし、自らは恵美押勝の姓名を名乗り、天平宝字4(760)年には大師(=太政大臣)となり、人臣最高の位についた。
この段階では、仲麻呂の行動は、光明皇太后の手にも余るものとなっていたようである。仲麻呂は、自己の政権の権威をつけるため、光明皇太后の治世を唐の則天武后のそれに偽することをはかった。
光明皇太后は、760年6月に崩御されるが、その後に、孝謙上皇と、淳仁天皇、恵美押勝との間に激しい政争が始まった。
764年には、恵美押勝は、都督四畿内、三関、近江、丹波、播磨国等兵事使となり、ついに武力をにぎって叛乱をおこすが、近江で敗れて死んだ。
●称徳天皇と道鏡
道鏡(709?−772)は、河内国若江郡弓削郷の弓削連の家に生まれた。いまも氏神の弓削神社が残り、氏寺の弓削跡が東弓削に推定されている。
弓削連は、弓を作る部民を管理した伴造(とものみやつこ)の家柄であり、物部氏とかかわりがあり、藤原仲麻呂が滅びたとき、道鏡は物部守屋の名を継ごうとした野心家として非難されたことがある。
道鏡の天平19(747)年までの経歴は定かではないが、伝記によると梵語が読めて、禅行により内道場に入り、禅師となったとされている。
梵語が読めるということから、入唐留学僧か帰化僧であり、法相宗の義淵か唐僧道栄から学んだと思われている。
さらに、道鏡は葛城山にこもり、如意輪法や孔雀王呪法などを修し、苦行したといわれており、難行苦行の禅行により呪験力を得て、疫病、災害を払う超自然的な能力をもつと思われていたという。
天平宝字5(761)年、孝謙上皇が保良宮に行幸され、翌年、病に伏したとき、道鏡が宿曜(すくよう)秘法(一説では、如意輪法)を修して、そこで関係が出来たといわれる。
淳仁天皇が上皇に諫言したことから不和になったといわれる。孝謙上皇は、5月に帰京し、法華寺に入り尼になり、6月には国家の大事と賞罰の権を天皇から奪うという、激怒の宣命を発表した。
道鏡に対する孝謙上皇の寵愛に嫉妬した仲麻呂は、天平宝字8(764)年9月に乱を起こして滅ぼされた。孝謙上皇は、10月に淳仁天皇を廃して淡路に流し、称徳天皇として重祚した。藤原仲麻呂討伐の将軍の凱旋日に、道鏡は大臣禅師に任じられた。
さらに、天平神護元(765)年、道鏡の生地である弓削(由紀)への行幸に際して、道鏡は太政大臣禅師に任じられた。
その翌年10月、道鏡の腹心である円興の弟子基真が、隅寺の毘沙門天像の前に珠を置き、仏舎利が出現したと称するデッチアゲの事件が起こった。この事件により、なんと道鏡には法王、円興には法臣、基真には法参議が授けられた。
神護景雲3(769)年5月、太宰府の主神(かんづかさ)の中臣習宣(すげ)阿曾麻呂が都にきて、道鏡を皇位につかせれば、天下は太平になる、という宇佐八幡宮の託宣があったと奏上した。そこで女帝は和氣清麻呂を召し、宇佐八幡の神に託宣を求められた。
和氣清麻呂に対する宇佐八幡の神の託宣は、「わが国家は開闢以来、君臣定まりぬ。臣をもって君とすること、いまだこれあらざるなり。天つ日嗣には必ず皇緒(皇族)をたてよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」というものであった。
この道鏡による皇位を伺う策謀を誰がしかけたかについて、古来、いろいろな説があるが、本当のところは分らない。
神護景雲4(770)年8月4日、称徳天皇が崩御された。この女帝には跡継ぎがなかった。天皇が崩御されたことにより、一挙に皇位継承の権力闘争が持ち上がった。
称徳天皇の支えを失った道鏡が体制を整える前に、藤原氏の藤原永手や藤原百川が、すばやく次の皇位を目指して行動を起こし、先帝の遺詔と称して天智天皇の孫である白壁王を擁立して、光仁天皇として即位した。
そして道鏡は、造下野国薬師寺別当に左遷された。
藤原氏の系譜は、藤原不比等のあと、南家、北家、式家、京家の4家に分かれたが、このうち藤原房前から始まる北家が、その後に藤原道長などに繋がる藤原氏の主流であり、藤原永手はこの北家の人である。
また藤原宇合から始まる式家は、有能ではあるが陰謀家が多く出ている。
その式家からは、九州で叛乱をおこした藤原広継、そしてこの藤原百川、さらに長岡京の造営長官として暗殺された藤原種継などが出ている。
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