(3)皇極天皇 ―重祚により斎明天皇
次に女帝となった皇極天皇(=重祚して斎明天皇)(594−661)の正式名は、アメトヨタカライカシイ タカラヒメノ スメラミコトという長い名前である。
皇極天皇は、宝皇女といい、舒明天皇の皇后であった。宝皇女と舒明天皇の間には、3人の子があり、それが葛城皇子(=中大兄皇子、後の天智天皇)、間人皇女(=孝徳帝の皇后)、大海人皇子(=天武天皇)である。
舒明天皇は在位12年にわたったが、舒明13(641)年に飛鳥の百済川畔の百済宮において崩御された。
その皇位継承にあたっては、舒明天皇の子の開別皇子は未だ若く、山背大兄皇子は有力候補者であったが、蘇我氏が擁立を望まず、推古天皇にならって皇后が後を継ぎ、642年1月に皇極天皇の即位となった。
つまり蘇我氏は、女帝を擁立することにより、自分の権力保持をねらったと考えられる。
皇極天皇から斎明天皇(重祚)にいたるまでの大臣の推移を図表-3にあげる。
図表-3 皇極天皇から斎明天皇にいたる大臣
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皇極天皇 |
孝徳天皇 |
斎明天皇 |
大臣 |
蘇我蝦夷 |
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左大臣 |
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阿倍倉橋麿、巨勢徳大臣 |
巨勢徳大臣 |
右大臣 |
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蘇我山田石河麿、大伴長徳連 |
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内臣 |
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中臣鎌子連 |
中臣鎌子連 |
(出典) 「公卿補任」
皇極天皇の即位の頃から、絶大な政治権力をもつ蘇我蝦夷の行動が目に余るものになってきた。
皇極元(642)年には、蘇我氏は祖廟を葛城高宮に建て、天皇にしか許されない八いつの舞をしたり、挙国の民を徴発して蝦夷と入鹿の墓を今木に造って、「大陵」、「小陵」と呼ばせるなど、自分を天皇に見立てた行為により、周囲の反感を買うという状況が見られるようになった。
このような中で、643年10月に山背大兄王を廃し、古人大兄を次の天皇に擁立しようとする蘇我入鹿の陰謀が実行に移され、11月1日、入鹿は山背大兄王を襲撃する事件を起こした。
山背大兄王は、一度は襲撃を逃れたものの、643年11月、斑鳩宮において上宮太子の一族がすべて自決するという悲劇的結末を遂げた。
●乙巳の変と孝徳天皇の新政権
このような状況の中、645年6月12日、中臣鎌足、中大兄皇子たちは、朝鮮の高句麗、百済、新羅の三国から貢物が奉られる日に、大極殿において蘇我大臣入鹿を謀殺するクーデターを起こした。
このクーデターは、その日の干支をとって乙巳の変と呼ばれる。このクーデターにより蘇我本宗家は滅亡し、中大兄皇子、藤原鎌足による「大化の改新」が始まることになる。
このクーデターの成功を受けて、蘇我氏系の皇極天皇は、すぐ中大兄皇子に譲位しようとした。しかし中大兄皇子は、藤原鎌足と相談して、皇極天皇の弟君である軽皇子を次の天皇に推薦する。
この軽皇子は、最初は辞退するが、結局は2日後の6月14日に孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子となり、大化の改新の新政権を助けることになる。
孝徳天皇の新政権は、律令制に基づく新役職が任命されて発足し、その内訳は図表-3に示される。
ところが孝徳天皇は9年後の654年10月、難波宮で薨去され、その翌年1月、皇極天皇は再び、斎明天皇として重祚されることになった。
●斎明天皇重祚
大化改新後の新政権の天皇としては、中大兄皇子が最もふさわしいはずであった。ところが中大兄皇子は、どうしても固辞して受けず、やむなく弟君の軽皇子が孝徳天皇として即位された。
そして孝徳天皇の崩御後も、中大兄皇子はなおも即位を固辞して受けず、やむなく皇極天皇が重祚し、斎明天皇として即位されることとなった。
この斎明天皇の政権を、中大兄皇子は皇太子として補佐し、左大臣を巨勢徳太古、内大臣を藤原鎌足が補佐する体制がとられた。
巨勢氏は、蘇我氏の傍系であり、巨勢徳太古は、巨勢雄柄宿弥の7世の子孫といわれる。巨勢氏の大臣の経歴は、継体天皇のときに、巨勢男人という人が、大臣の位についたことがある。そしてこの巨勢氏は、大化の改新の有力な勢力であったと思われる。
斎明天皇重祚は、蘇我本宗家は滅亡したとしても、多くの氏族が残っている段階であり、氏族国家の最後の政権をつとめた女帝が、今度は律令国家の2代目の天皇を勤めることは、それなりの現実性を持っていたと思われる。
つまり律令政府の政権は必ずしも安定したものではなく、中大兄皇子の天皇即位の固辞も、安定政権の見通しの立ちにくいことが理由であったと思われる。
その意味では、天皇には女帝を立て、実力者である中大兄皇子が皇太子として政権を支える体制は、それなりの現実的妥当性をもっていたと思われる。
現に、斎明天皇の即位から3年後の658年には有間皇子の乱がおこり、さらに、東北では蝦夷の勢力が律令政府を脅かしたし、飛鳥の宮もたびたび炎上して反対勢力の策謀であることが想像された。
さらに憂慮されたのは、朝鮮半島の国際情勢であった。この頃、朝鮮半島の北では高句麗が唐から何度も攻撃を受けており、南では百済が新羅の攻撃を受けて滅亡の危機に立つといった、大変な国際事態が起こっていた。
この朝鮮半島の危機的状況を受けて、斎明6(660)年、百済が日本に救援を求めてきた。そこで、661年1月、斎明天皇は、百済救援のための軍をおこした。難波から出帆して九州の朝倉宮に本営を設営して、朝鮮半島にいざ出兵しようとしていた矢先の7月、斎明天皇は崩御された。
斎明天皇の崩御を受けて、中大兄皇子は喪服を付けて百済を支援し、新羅との戦争をすすめた。
しかし663年、日本の水軍は唐の水軍に白水江において大敗北を喫して百済は滅亡し、日本本土も唐や新羅の直接攻撃にさらされる危険性が非常に強くなってきた。
日本にとって最大の国家的危機を迎えたといえる。そのために筑紫に防衛のための築城を行ない、667年には日本本土が攻撃をうけることを考えて、都を近江に移すことになり、そのために山城の大津京がつくられた。
この間、中大兄皇子は即位をせず、「称制」(まつりごとをきこしめす)と呼ばれる体制をとっており、厳密にいえば天皇不在の政治が進行していた。ようやく中大兄皇子が天智天皇として即位されたのは、天智7(668)年のことであり、乙巳の変から23年もあとのことであった。
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