アラキ ラボ
日本人の思想とこころ
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  38  39  40  41  42  43  >> 
  前ページ次ページ
  (2)推古天皇 ―日本で最初の女帝

 推古天皇(554-628)は、トヨミケ カシキヤヒメノ スメラミコトという。敏達天皇の皇后・額田部皇女である。
 推古天皇の前代の崇峻天皇は、当時の最有力氏族である蘇我氏系の天皇であったが、大臣・蘇我馬子との間が、うまくいっていなかった。
 そのため592年、蘇我馬子の配下の東漢直駒が、崇峻天皇を殺害するという大事件が起こった。
 この崇峻天皇薨去の後を受けて、蘇我馬子により擁立されたのが、日本で最初の女性天皇である推古天皇である。

●推古天皇の擁立まで
 推古天皇の父君である欽明天皇の7(538)年に、百済の聖明王がわが国に仏像と経論を送ってきた。これが日本への正式な仏教の伝来といわれている。
 「仏教の伝来」とは、単なる仏像や経論にとどまらず、建築、工芸、美術、思想を含む新しい技術や文化の、日本への渡来を意味するものであった。
 そのため大きな社会経済的変革を伴うものであり、渡来系の氏族である蘇我氏の権力基盤もこの仏教伝来と深く関わっていた

 仏教伝来によって齎された新しい技術や文化は、日本古来の思想、技術、文化によってたっていた政治勢力との間に、深刻な軋轢を引き起こした。
 この新技術や文化の導入派は、もともと百済からの渡来系氏族である蘇我氏であり、それと対抗する古来の日本の思想や軍事を代表する守旧派が、大伴、物部氏などであった。
 これらの古い抵抗勢力である氏族は、過去には数多く存在していたが、敏達天皇の頃には蘇我氏に対抗できるほどの勢力は、もはや物部氏を残すだけになっていた。

 欽明天皇と蘇我稲目の娘の間に生まれた推古天皇(554−628)は、このような段階で敏達天皇の皇后となった。
 その頃の天皇家を支える有力氏族は、蘇我氏と物部氏の2つに絞られていた。
 そのことは図表-2において、家臣の最高位である大臣が蘇我馬子、それに続く大連の地位が物部守屋にしぼられている事からも分る。

図表-2 敏達天皇から推古天皇にいたる大臣
  敏達天皇 用明天皇 崇峻天皇 推古天皇
大臣 蘇我馬子 蘇我馬子 蘇我馬子 蘇我馬子、蘇我蝦夷
大連 物部守屋 物部守屋    
                                     (出典)「公卿補任」

 用明天皇の2(587)年に、天皇は仏教への帰依についての可否を群臣にはかり、是に対して蘇我氏が賛成、物部氏が反対を表明した。
 その結果、両者は激しい戦争によって、この賛否の決着を図るという事態に突入した。

 同年秋7月、大臣・蘇我馬子は、泊瀬部、竹田、厩戸、難波、春日などの王子を味方につけ、朝廷の最有力氏族の殆どを組織して、仏教の導入に反対する大連・物部守屋の勢力に対して戦いを挑んだ。
 物部氏は皇祖以来、武力をもって天皇に仕えてきた勇猛な一族である。書紀の記述によれば、大連・物部守屋自身が軍を率いて、4ヶ月にわたる激戦が展開された。

 蘇我馬子の軍も、物部守屋の軍の猛攻を恐れて、3度退却した。このとき、14歳で戦いに参加した聖徳太子が、ヌリデの木で四天王像を作り、髪にさして戦い、勝利をおさめた。それが後の四天王寺の建立に到る話は有名である。
 この戦争の勝利により、蘇我氏の仏教導入がきまり、蘇我馬子は法興寺を建立した。

 この蘇我・物部戦争は、蘇我馬子の勝利で終わり、翌588年、欽明天皇の子で、この戦争にも参加した泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位し、蘇我馬子は大臣になった。
 物部氏の大連の地位は空位となり、ここで蘇我氏の天下が実現したことになる。

 ところが崇峻天皇が蘇我馬子の殺害をほのめかしたことから、逆に蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやの あたひこま)を刺客にして、崇峻天皇を暗殺し、その日の内に倉梯岡陵に葬ってしまうという大事件を起こした。

 崇峻天皇崩御の後の後継者としては、用明天皇の子の厩戸豊聡耳皇子(うまやとの とよとみみのみこ)、つまり聖徳太子、敏達天皇の子の竹田皇子、同じく敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子があったが、蘇我馬子は敏達天皇の皇后であった推古天皇を擁立して、ここに日本における最初の女帝が誕生した

 蘇我馬子は、このように日本最初の女性天皇を誕生させて、天皇と蘇我氏の政治権力と聖徳太子の統治能力を、三位一体としてバランスをとることに成功した。
 推古天皇は、聖徳太子を皇太子、蘇我馬子を大臣とした体制により、36年に及ぶ治世を全うし、飛鳥時代という一時代を築くことに成功した。

●しかし女帝の表明は、外交的には憚られたのか?
 しかし女帝の誕生は、対外的には表明することは憚られたようである。
 隋書、東夷編によると、開皇20(600)年に、倭国の遣隋使が入朝した。
 これは第1回の遣隋使の派遣である。このことは随書には載っているが、日本書紀には全く記載がない。

 そのときの隋の係官による聞き書きによると、倭国王の姓は、阿毎(アメ)、字は(アメキミト)いい、倭国の風俗について尋ねると、使者は次のようにいった。

 倭王は、天を以って兄となし、日を以って弟となす。天未だ明けざるとき、出て政を聴き、跏趺して座す。日出でて、すなわち理務を停む。謂うに我が弟に任すと。
 高祖曰く、此れ、大いに義理なし。ここにおいて訓令、此れをあらたむ。王の妻はキミと号す。後宮に女6、7百人あり。太子と名付け、リカヤタフリとなす。城郭はなく、内に官12等あり。(以下略)

 倭国の使節の説明では、倭王は天(アメ)皇(キミ)と呼ばれ、兄弟で勤めている。兄は祭祀(=天)を担当し、夜明け前に政を聞き、王座に座る。日が上がると、弟が政治の実務(=日)を担当し、仕事は弟に任される、といった内容である。

 この時の倭国の天皇は推古天皇、聖徳太子が摂政である。しかし中国に対しては、推古天皇を兄、聖徳太子を弟とし、共に男性の兄弟として仕事を分担していると説明している。つまり中国に対して、日本は女帝であると説明する事が憚られたようである。

 まだ実施してもいない官位12階が既に行なわれているように話したり、推古帝と聖徳太子を男性の兄弟といったり、倭国の使節が、自国の政治制度を苦労しながら、勿体を付けて説明をしている姿が浮かんでくる




 
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  38  39  40  41  42  43  >> 
  前ページ次ページ