(4)持統天皇 ―アマテラス大神のモデルとなった女帝
持統天皇(645-702)は、天武天皇の皇后である。
前代の天智天皇が、671年12月に崩御されると、その皇位の継承をめぐって、翌年6月から天智天皇の子の大友皇子と、弟の大海人皇子の間で、1か月に及ぶ壬申の乱が展開された。
その結果は、大海人皇子(=天武天皇)派が勝利した。そして大海人皇子は、673年1月、飛鳥浄御原宮において天武天皇として即位し、ウ野皇女(=後の持統天皇)が皇后となった。
天武天皇は、政策的には大化改新における律令国家として確立する路線を強力に推し進められ、686年9月に崩御された。
天武天皇の崩御後は、その皇后であったウ野皇女が称制してその後を引継ぎ、天武天皇の治世で残された国家政策を仕上げる役割を演じられた。
天武天皇の皇子は多かったが、皇后との間には草壁皇太子が1人であった。そのほかの有力な後継候補としては、天智天皇の皇女を母とする大津皇子があった。
大津皇子は、幼時より学を好み文武に優れた有力な次の天皇候補であったが、686年10月、謀反の疑いで捉えられ、自害してなくなった。さらに、残った天武天皇とウ野皇后の子である草壁皇太子も、称制3(689)年に28歳でなくなり、天武天皇の後継者がいなくなったため、ウ野皇后が690年1月、持統天皇として即位された。
持統天皇(645-702)の正式名は、タカマガハラ ヒロノヒメノ スメラミコトという。父君は天智天皇、母君は蘇我遠智姫である。
持統天皇の夫君の天武天皇は、初めて神と呼ばれるようになった天皇であり、古事記、日本書紀の編纂や伊勢神宮や天皇祭祀の整備により、この時代に日本における古代天皇制が確立したと思われている。
持統天皇は、その過程を天皇と一体化して進めてきた皇后であり、天武天皇の遺された部分が持統天皇により仕上げられたといえる。
万葉の歌人・柿本人麻呂は、万葉集の中で、「やすみしし わご大王 神ながら 神さびせすと 芳野川・・」(38)とうたっている。それは「神にましますわが大君が、神わざを遊ばすとて吉野川の瀬の河内に高殿をさだめられ、・・」(澤潟久孝訳)という歌であり、天武天皇に続いて、持統天皇は、「神にましますわが大君」になり、8世紀はじめに完成した日本神話におけるアマテラス神のモデルといわれるまでになった。
持統天皇を支えた役職者は、図表-4のようになる。
図表-4 持統天皇の大臣
太政大臣 |
高市皇子 |
右大臣 |
多治比嶋眞人 |
中納言 |
大神高市麿朝臣 |
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布勢御主人朝臣 |
持統天皇は、先に草壁皇太子を失い、さらに、696年7月には、太政大臣で重望のあった高市皇子も薨去されるという不幸に見舞われた。そこで持統天皇は、翌697年2月、草壁皇太子の皇子カルを立てて、皇太子とし、8月に譲位された。
持統天皇の後継は文武天皇となったが、天皇の年はまだ15歳であるため、持統天皇が譲位後も太上天皇として6年の間、後見役をつとめられ、大宝2(702)年に崩御された。
(5)元明、元正天皇 ―聖武天皇へのピンチ・ヒッター
707年6月、文武天皇(663−707)が僅か25歳という若さで崩御されたとき、皇子豊桜彦尊(=後の聖武天皇)は、まだ7歳であった。
そのため亡くなった文武天皇の母后の阿閇(アベ)皇女(=草壁皇子の妃)が、皇位につくことになった。これが元明天皇(661−721)である。
元明天皇の時代の大きな仕事は、平城京への遷都と大宝律令の発布であり、これにより古代国家の組織形態ができあがった。
元明天皇は、政務を8年の間、務められた後、715年9月、文武天皇の姉の氷高内親王に皇位を譲られた。これが元正天皇(680−748)である。
続く元正天皇の時代には、地方の国家組織の形態が出来上がった。
奈良時代は、聖武天皇のときに最盛期を迎えるが、元明、元正の両女帝は、共に、皇位を予定されていた文武天皇の皇子豊桜彦尊(=聖武天皇)がまだあまりにも若かったため、その前段として基礎的な組織をつくる役割を演じられたと思われる。
この過程で、有能な官僚の藤原不比等などが台頭し、文武、元明天皇の時代の基礎を固めている事が図表-5からも分る。
図表-5 元明、元正、聖武天皇の時代を支えた大臣たち
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文武天皇 |
元明天皇 |
元正天皇 |
聖武天皇 |
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慶雲3年 |
慶雲4年 |
和銅8年 |
養老8年 |
知太政官事 |
穂積親王 |
穂積親王 |
穂積親王 |
舎人親王 |
左大臣 |
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石上朝臣麿 |
長屋王 |
右大臣 |
石上朝臣麿 |
石上朝臣麿 |
藤原不比等 |
長屋王 |
大納言 |
藤原不比等、大伴安麿 |
藤原不比等、大伴安麿 |
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多治比真人池守 |
以下略 |
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(出典)「公卿補任」
図表-5において、知太政官事をつとめる親王は、共に、天武天皇の皇子である。そして藤原不比等が、大納言から右大臣に上がり、朝廷に対して勢力を増してきている事が分る。
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