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日本人の思想とこころ
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1.死の予感
2.身近な他界 -日本庭園
3.日本人と死後世界
4.美人の死後伝説
5.孔孟思想は21世紀に生きられるのか?
6.秦帝国と呂氏春秋
7.四書五経の形成 ―新儒学への展開
8.朱子学と近思録

9.陽明学と伝習録
(1)陽明学とは何か?
(2)伝習録のいくつかの新学説
(3)良知の極致 ―万物一体の仁

10.東洋医学と黄帝内経素問
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  9.陽明学と伝習録

(1)陽明学とは何か?
●陽明学の誕生 ―遅れていた朱子学の実践的理解
 朱子が亡くなったのは西暦1200年、南宋の末期で元による中国の全土制覇より前のことになる。この頃、朱子学はまだ儒学において、支配的な位置にはなかった。その上、朱子の晩年には、「偽学の禁」がおこって道学(=朱子学)は偽学と呼ばれ、道学の学徒は官界から一掃されそうになるという受難に遭遇していた。

 しかし元代(1234-)に入ると、南方では既に学会の主流になっていた朱子学は、許衡、劉因の2人により北部にまで広められた。そして1314年に元朝が久しく止めていた科挙を再開した時には、その科挙の学科として「四書」が立てられた。その際、四書の注釈には朱子の「四書集注」が用いられることになった。さらに、中国の政治体制は、1368年以降、元に代わって明代に入るが、その時には、儒学は朱子学一色に成っていたといわれる。

 しかしその頃の思想界はきわめて沈滞しており、朱子学は科挙の学科になったために、その精密さや難解さが仇となり、その内容の充実よりも形式化が進んだことが、学問としての朱子学の不幸であった。
 明代最初の思想家であった陳白沙は、実践主義の権化と言われる人物であり、朱子学の学者であった。彼は、日々、読書にふけり寝食を忘れて道を追求したが、ついに得るところがなく、「わが此の心とかの理」とがどうもぴたり一致しなかった。その結果、静座による思索を採用して、「随所に天理を体認する」学説を発見したといわれるほどである。
(島田虔次「朱子学と陽明学」岩波新書、120-122頁)

 つまり朱子学は、それが実践される中で、いろいろ矛盾がでてきた。その矛盾が表面化した代表ともいえるものが、王陽明によって作られた陽明学の登場である。
 その陽明学の発端となった朱子学を実践した際の挿話を、王陽明自身が「伝習録」のなかで、次のように語っている。

 「人々はみな『格物』(=事物の理をきわめること)は朱子の説によらなければならないというだけで、実際にその説を実行しようとはしないが、私はかつて本当にやってみたことがある。若いころのことだが、友人の銭君と、聖賢になるには天下の事物に格(いた)らなければならないが、どうすればそれだけの力量が得られるだろうかと話し合った。
 そして、まず庭の竹に格(いた)ることにした。まず銭君が朝から晩まで竹の道理を窮格しようと心思を尽くしたが、三日で神経衰弱にかかってしまった。

 はじめ私は彼の精力が足りないせいだと思って、今度は自分が朝から晩まで竹の理を得ようとしたが、7日目にはやっぱり神経衰弱になってしまった。そこで2人して聖賢というものにはとてもなれるものではない、われわれにはそんな力量がないのだと嘆息しあった。

 その後、貴州省の異民族の中で暮らすこと3年、いくらかその意味について悟るところがあり、天下の物は本来窮め格ることができないものであり、格物の修行はひたすらわが身と心について行なうべきであることに気づいたのである。
(伝習録、下巻118:「中国の古典名著・總解説」自由国民社、101頁)

 これは陽明学創設の発端となった重要な記述であり、読み下し文と原文を次に揚げる。

(参考)<読み下し文>
先生曰く「衆人只だ格物を説くに晦翁(=朱子)に依らんことを要(もと)むるも、何ぞ曾て他(かれ)の説を把りて用い去(ゆ)きしことあらん。我著実に曾て用い来る。初年銭友と同じく聖賢と倣ならんことを論じて、天下の物に格(いた)らんことを要(もと)め、「如今(いま)安ぞ此等の大なる力量を得ん」と。因って亭前の竹子を指して格看し去(ゆ)かしむ。銭子早夜竹子の道理を窮格し去き、その心思を竭(つく)し、三日に至りて、便(すなわ)ち神を労し疾を成すことを致せり。

当初説く、「他(かれ)は這是(これ)精力足らざるなり」と。某因って自ら窮格し去(ゆ)き、早夜其の理を得ず、七日に到りて、亦思を労するを以って疾を致せり。遂に相与に聖賢は是れ做り得ざる的(もの)、他(か)の大力量の物に格り去くべきものなきを嘆ず。夷中に在ること三年に及びて、頗る此の意思を見得し、乃ち天下の物は、本(もと)格る可き者なく、その格物の功は只だ身心上にありて做すを知り、決然として聖人を以って人々の到るべきものとなし、便ち自ら担当することありき、這裏の意思、卻て諸公に説き与えて知道せしめんことを要(もと)む。(岩波文庫版「伝習録」325-326頁)

<原文>
先生曰、衆人只説格物、要依晦翁、何曾把他的説去用、我著実曾用来、初年与銭友同論倣聖賢、要格天下之物、如今安得這等大的力量、因指亭前竹子、令去格看、銭子早夜去窮格竹子的道理、竭其心思、至於三日、便致労神成疾、当初説他這是精力不足、某因自去窮格、早夜不得其理、到七日、亦以労思致疾、遂相与嘆聖賢是做不得的、無他大力量去格物了、及在夷中三年、頗見得此意思、乃知天下之物、本無可格者、其格物之功、只在身心上做、決然以聖人為人人可到、便自有担当了、這裏意思、卻要説与諸公知道。(岩波文庫版「伝習録」325-326頁)

 この王陽明の話は、非常に面白い。格物窮理(=物事の理をきわめること)は、朱子学におる最も基本的で重要なテーマである。それが朱子の死から2百年後になっても、殆ど実践的には行なわれていなかったことを示す挿話でもある。
 格物窮理は、中国仏教にも大きな影響を与えており、禅宗ではかなり座禅と組み合わせた修行が行なわれてきていた。これに対して、肝心の儒学のほうではその実践が大きく遅れており、ようやく王陽明によりその実践的理解が始まったことが分かる記述である。

●王陽明 ―反骨の生涯
 
王陽明(1472-1528)は号であり、名は守仁、浙江省余姚の生まれである。主に同省の紹興に住んだ。10歳の時、父が進士の試験に首席で合格して官界に入り、北京に移り住んだ。
 彼自身も28歳で進士の試験に合格した。幼時から熱情的な性格であったといわれ、科挙の試験勉強に飽き足らず、任侠、騎射、文学、神仙、仏教に耽溺し、朱子学への疑問もかなり前からもっていたようである。

 35歳の時、当時権勢を振るって飛ぶ鳥を落とす勢いにあった宦官・劉瑾に対する反対運動に参加して投獄され、貴州省の西北で猺(よう)族など少数民族の住む未開の山地である竜場駅の駅丞に左遷された。上記。上記の伝習録の記述において「貴州の異民族の中で暮らすこと3年」といっているのは、そのことである。

 そこでつれてきた従者が病気になり、彼自身が薪を切り、水を汲み、かゆを作って従者を看病した。大官僚の御曹司として耐えられない生活を経験した王陽明は、若し聖人であったら、この場合、どうするであろうかと、石室を作ってその中で日夜、正座して瞑想し、必死になって思索した。そしてある夜ふけ、忽然として大悟したという。
 「聖人の道はわが性、みずから足る。先に理を事事物物に求めしは誤りなり」(聖人の道はわが性として十分に備わっているものである。先に理を事事物物に求めたのが間違いであった)という「心即理」の大発見をした。そのとき、陽明、37歳であった。上記の伝習録の文は、そのときのことを書いたものである。

 やがて宦官・劉瑾は、誅せられて、陽明は呼び戻されて、その後は正常な官僚のコースを歩み、最後には、南京兵部尚書(陸軍大臣控)まで昇進した。当時、中国各地には大規模な農民反乱が続発しており、それに加えて、皇族の寧王の叛乱という大事件まで起こった。王陽明は、これらの事件を次々に平定して、軍略家、政治家としての高い評価を得た。しかし広西省の叛乱討伐の帰路、持病の肺結核が高じて病没した。

 伝習録3巻は、1518-1556年にかけて編纂された王陽明の語録、書簡集である。はじめ弟子の薛侃(せつかん)が師の語録を編集し、さらに南大吉(なんだいきつ)が書簡集を加え、陽明の没後、銭徳洪(せんとくこう)が2度にわたり増幅して、完成したものである。

 伝習録の「伝習」とは、「論語」の「伝不習乎」(伝えて習わざるか)に基づく。師から伝えられた教えを繰り返し復習して身に着ける努力を怠らぬようにしようという意味である。この句をこのように読むのは、朱子以降のことであり、古注では「習わざるを伝えしか」と読む。

●格物致知(王陽明による「大學」の新解釈:「知」は良知!)
 
大學には、「格物致知」(事物の知=理を窮めること)について次のように書かれている。
 「物致りて后知至る、知至りて后意誠に、意誠にして后心正し、心正しくして后身修まる、身修まりて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平なり。天子より庶民にいたるまで、壱に是れ皆身を修むるをもって本となす。その本乱れて末治まるものは否ず。」(「題名のない頁」の「7.四書五経の形成 ―新儒学への展開」
 つまり聖人を目指した「大學」の修行の第1歩が、この「格物致知」であった。それについては「四書五経」と「朱子学」の項で既に述べている。

 この大學の「致知」が、朱子学においては「窮理」に置き換えられた。それは大學における「知をきわめる」を、程伊川の言葉を借りれば、「吾の知を致そう(=完成しよう)と思うならば、物(=事物)に即してその(物の)理を窮めなくてはならぬ」、という考え方からきており、更に其の過程が厳密に規定された。
 つまり理の窮め方に不十分な点があるために、その不完全さを窮めて極致まで持っていく努力をさせるのが、朱子における「格物窮理」であったといえる。

 ところがその厳密なはずの「格物窮理」が、王陽明の竜場体験により、現実的にはほとんど実践に耐えられないことが示されたわけである。その主原因を、王陽明は朱子学における「理気二元論」にあると考えた。そこで王陽明は大學の「格物」における「格」を、朱子が「至」(いたる)と解釈したものを「正」(正す)と解釈し、さらに、「物」は事であり意の在るところ、つまり「格物」とは「事を正す」=心の不正をただすこと、と解釈した。
 つまりこのことにより、朱子における「物」と「心」の2元論は、王陽明によって「心」を中心にした1元論に置き換えられた

 これを王陽明は、「良知」といった。「良知」は、もともと孟子の言葉であり、尽心章句上に次のように書かれている。
 「孟子曰、人之所不学而能者、其良能也、所不慮而知者、其良知也。」(孟子曰く、人の学ばずして能(よく)する所の者は、其の良能也。慮(おもんばか)らずして知る所の者は、其の良知也。;(訳文:孟先生の言では、「人が学問をしないで出来ること、それを良能といい、人が考えないで知ることを良知という」と。)
 つまり先天的に人間に組み込まれている能力が「良能」であり、考えなくても知っている事を「良知」という。この良知の概念が、王陽明により、「致知」の概念に取り入れられた。

 伝習録の中巻には、王陽明がいろいろな人からの質問に答えた書簡文が収録されている。そのなかで羅整庵小宰からの手紙に対する答えの最後の部分に王陽明は次のように書いている。
 「わたしのいう致知格物とは、わが心の良知を一つ一つの事物に顕現することである。わが心の良知は天理にほかならない。わが心の良知の天理を一つ一つの事物に顕現するならば、それらの事物はみなその理を得る。わが心の良知を顕現するのが致知(知を知らせる)であり、一つ一つの事物がその理を得るのが、格物(物を格(ただ)す)である。つまり心と理とを合して一つにすることである。」(中巻6)

(参考)<読み下し文>
鄙人の所謂致知格物のごときは、吾が心の良知を事事物物に致すなり。吾が心の良知は即ち所謂天理なり。吾が心の良知の天理を事事物物に致すときは、即ち事事物物皆其の理を得るなり。吾が心の良知を到すとは致知なり。事事物物皆其の理を得るとは、格物なり。是れ心と理とを合して一となすときは、即ち凡そ区区の前に云うところと朱子の晩年の論とは、皆以って謂わずして悟るべし。(伝習録、中巻、6)
<原文>
若鄙人所謂致知格物者、致吾心之良知於事事物物也、吾心之良知、即所謂天理也。致吾心良知之天理於事事物物、即事事物物皆得其理也。到吾心之良知者致知也。事事物物皆得其理者格物也。是合心与理而為一者也、合心与理而為一、即凡区区前之所云、与朱子晩年之論、皆可以不言而喩矣。






 
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