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日本人の思想とこころ
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1.死の予感
2.身近な他界 -日本庭園
3.日本人と死後世界
4.美人の死後伝説
5.孔孟思想は21世紀に生きられるのか?
6.秦帝国と呂氏春秋

7.四書五経の形成 ―新儒学への展開
(1)「四書五経」とは?
(2)「五経」から「四書」へ ―新儒学の成立と変貌
(3)変貌する孔孟思想 ―複雑化する「仁」の概念

8.朱子学と近思録
9.陽明学と伝習録
10.東洋医学と黄帝内経素問
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  7.四書五経の形成 ―新儒学への展開

(1)「四書五経」とは?
● 孔子学の「経」と「書」
 
我々の中国思想への基礎知識は、学校の試験問題の解答に大きく毒されている。たとえば、「四書」とは何か? と聞かれれば「大學、中庸、論語、孟子」のこととたちどころに答える。また「五経」とは?と聞かれると「詩・書・易・礼・春秋」と、これも迷わずに答える。
 ところが「四書五経」とは一体何なのか? とか、「書」と「経」はどう違うのか?などと少し本質に突っ込んで聞かれると、途端に頭の中は真っ白になり何も答えられなくなる。つまり我々の頭脳の中にある儒学の知識は、学校の試験の「模範解答」程度?の浅いものでしかないことが分かる。

 実は、この「経」と「書」の間には、孔子によってその基礎を作られた儒学の原理が、春秋、戦国時代における孔子学の創設から、漢代の儒学の国教化をへて、宋代以降に朱子学によって国家的規模での新儒学体系に纏め上げられていく、1000年を越える壮大な歴史のドラマが存在していた。

 簡単に「経・書」の違いを言えば、「経」とは、儒学の聖典のことであり、「書」とは聖典を読むための参考書のことである。しかしフシギなことには、孔子の教えを記録した「論語」は聖典ではなく参考書であり、もともとの儒学の聖典には論語も孟子も含まれていない。つまり経典とは、孔子のおしえではなく、書経のような先王の事跡と春秋のような歴史年表や詩経のような詩歌集などで構成されているのである。それは何故であろうか?

 中国でも日本でも、長い歴史年代を通して、普通の人にとって四書・五経は直接、接することさえ大変なものであった。周代の末期から漢、隋、唐を経て、宋代の朱子にいたる儒学の習得には、体系化された儒学書を読み、その思想を学ぶこと自体が真に大変なことであった。そのため、人々にはその構成に疑問をはさむ余裕などなかったのが正直なところであろう。

 漢代に至り中国には紙が登場し、さらに宋代には印刷技術が成立したものの、その恩恵を利用できるのは皇帝や貴族のごく一部にすぎず、普通の人々は儒学の教えを耳で聞き、それをひたすら記憶して思想を学んでいった。
 しかし現代人は、「四書五経」の内容を、書籍を通して容易に知る事が出来る。それどころか、現代中国ではそれらの古典の多くが電子化されており、書籍を購入しなくても、誰でも何時でも無料でインターネットを通じて簡単に読める状態にある。
 そのように恵まれた状況にある以上、少し余裕を持って、「四書五経」とは一体、何なのか?という話から始めることも許されるであろう

 儒学の基礎となる孔子学が成立したのは、今から2千数百年前のことであるが、それらの聖典と参考書が「四書五経」として纏められたのは、800年前の宋代以降に朱子学が登場してからの、ごく新しいことなのである。
 その流れを簡単に追ってみると、最初、孔子の時代に経典として扱われていたのは、わずかに「詩経」と「書経」の2つに過ぎず、孟子の時代になり、ようやくそれに「春秋」が加わった。(武内義雄「儒教の精神」 全集第4巻、49頁)この段階で、「書」といえば「書経」しかないことはいうまでもない。
 そして、その後、「経」に加えられる「礼・楽」については、長い間ただの規範(=芸)として行なわれており、「経」としては扱われていなかった。

 つまり、現在の「四書五経」の形成には、なんと千数百年という気が遠くなるような時間がかかっていたのである。この気が遠くなるような長い時間をかけて作られた儒学の壮大な体系を、簡単に纏めるのは心がとがめるが、ここではその全体像の形成過程の概括から話をしてみたいと思う。

●孔孟時代の三経とは? ―書経・詩経・春秋
 
書経 ―模範的な古代帝王の事跡
 書経は、古くは「書」もしくは「尚書」と呼ばれていた。そこには中国史における人王の最初である尭・舜・禹帝の事跡を中心に、夏王朝の中期から周王朝にいたる重要事項に関する記録が記載されている。 現在、中国政府によるインターネットの原文では、「尚書」として掲載されている。
 その内容は、中国の古代宮廷の史官が行ってきた、理想の王による言行の記録である。それが春秋戦国時代に入り、政治の規範としての聖典とされるようになった。

 伝説では、孔子が古代の記録3240篇の中から102篇を選んで編纂したとされているが、実際には春秋戦国時代を通じて、史官により作られていったものと思われる。
 その内容は、次のものからなる。
  虞書―尭帝の世の記録
  夏書―禹帝と夏王朝の記録
  商書―殷王朝の記録
  周書―周王朝の記録

 ▲詩経 ―儒家必須の教養書
 詩経とは、詩の聖典を意味する。それは中国の風土・社会を背景にして、そこに生きる人々の生活を歌った中国最古の詩歌集である。
 それはBC470年頃に成立したと思われ、そこには西周初期から春秋中期にいたる、数百年間の詩が収録されている。
 もともとは3千余篇あったものを、孔子が整理して現在の305篇に編集したといわれる。

 漢代になると、この詩篇を解釈する4人の学者が現れた。それが四家の詩であり、「魯詩」、「斉詩」、「韓詩」、「毛詩」がそれである。そのうち「毛詩」のみが現在に伝えられ、南宋の学者・朱熹(=朱子)により、現在の「詩経」と呼称されるようになった。

 「詩経」は早くから「書経」と並んで、儒家必須の教養書となり、引用して自分の意見を述べる格好の題材とされた。詩経の特徴は、その中に神々に関る神変不可思議な活動を歌った叙事詩がないことであり、上帝、天、祖先に対する感謝・祈願など、現実的な詩歌に限定されていることにある。

 詩経を読み習い暗記して、時に応じてその詩句を利用することは、国際的な会合とか外交折衝において頻繁に行われてきた。その実例は、「春秋」の左氏伝にいくつも登場しており、古代の貴族、官僚に必須の知識の源泉をなしていたものである。

 ▲春秋 ―乱世における生き方の規範
 「孟子」の滕文公章句下に、孔子が「春秋」を作るに到った過程を述べた有名な箇所がある。そこには次のように記されている。

 周代の末には、文王、武王の道もかすかになり、無茶な議論や暴力行為が横行し始めた。そこには臣下の身分で主君を殺すものが現れ、父を殺す子供まで現れた。それを孔子が深く憂慮して、「春秋」の歴史を表わした、とされている。
 歴史書「春秋」の著作は、本来、天子が行なうべき大権に属するものである。そのため、孔子は「我を知るものは、それただ『春秋』か、我を罰するものも、それただ『春秋』か」と述べて、天子の大権を犯して春秋を作ったことを、非常に気に病んでいたといわれる。

 上掲文は、孔子が天子が行うべき歴史の編纂を自分が行なった僭越さを恥じた言葉であるが、儒家は逆に、孔子の歴史編纂の業績を「素手の業」(=無冠の帝王の業績)と呼んで高く評価した。
 そのため、ただの年代記のような「春秋」が、聖典として扱われるようになったという。

 ただ「春秋の筆法」というその書き方に工夫がこらされていて、そのため「春秋三伝」と称して、「左伝」、「公羊伝」、「穀梁伝」という注釈書が作られた。これによりそれらの「伝」のわずかな表現の違いから、孔子の称する大義を読み取る方法が採用されている。

●五経の形成
 さらに、荀子の時代になり、詩・書・春秋の三経の上に、礼・楽の二経が加わり、五経になったといわれる。(武内「前掲書」49頁)
 これに対して、秦代の呂氏春秋に至り、「易経」が「詩書」と並んで経典視されるようになり、六経になった。

 易経はBC8世紀ごろに成立したといわれる、古来の自然哲学である。それが漢代に入り、儒教が国教になったころから、六経の首位に置かれるようになった。そしてさらに、易経は宋代に新儒学が形成されると、その形而上学の柱とも考えられるほど、重要な位置を占めることになった。

 ▲易経の登場 ―2進法の数体系と易占の自然哲学
 「五経」の最終の段階で、易経が儒教経典の中心に登場した。その背景には、儒学に対する老荘思想・道教の影響が考えられる。また老荘思想が盛んであった頃、インドから輸入された仏教の影響も強くなり、それが北宋時代の儒学者である周濂渓、程明道、程伊川などの、新しい儒学理論に強い影響を与えたことが関っている。
 つまり儒学が、仏教に対して理論武装するためには、詩、書、春秋の経では無理であり、易経のような高度な自然哲学や数理の理論が、新しく要請されたといえる。

 易学の発祥は殷代の亀甲や獣骨を焼いて占う亀卜に遡ると思われるが、周代に成立した周易の理論は、現代のコンピュータに利用されている2進法、8進法、16進法の高度な数学理論と、それに対する自然哲学の組み合わせで構成された、水準の高いものである。
 伝説では周易は孔子の作と言われているものの、それが儒学において、易経と呼ばれて五経の筆頭になったのは非常に遅く、宋代になってからのことである。

 ▲礼記 ―「四書五経」をつなぐ重要な役割り
 礼とか儀礼は、易と同様に古来、宮廷を中心に行われてきたものである。しかしそれらが体系だったテキストとして纏められたのは、漢代以降の新しいことである。
 基本文献には、中国古代の宗教的、政治的儀礼を集めた「儀礼」(ぎらい)、西周の周公旦が編纂したと伝えられる「周礼」(しゅらい)、前漢時代の「礼」のテキストの一つである「礼記」(らいき)の3つがある。

 ★「儀礼」(ぎらい)
 著者は周公旦とも孔子ともいわれるが、勿論、それは疑わしい。成立したのは、戦国時代の中期以降と思われている。その内容は、士冠礼、士昏礼、士相見礼、郷飲酒礼、など、17篇から構成されている。「曲礼三千」と称されるように、礼の記載は詳細、多岐にわたっている。
 儒教倫理に彩られており、土俗宗教の影響も大きい。漢代には、「礼」または「礼経」と呼ばれていた。「漢書芸文志」にいう高堂生の「士礼」17篇というのがそれである。
 ★「周礼」(しゅらい)
 古くは「周官」と呼ばれ、西周の周公旦が制定した行政組織を記録したものと伝えられるが、周王朝を理想化する後世の作と考えられている。
 その内容は、諸官職を天官(中央政府)、地官(地方行政)、春官(神職)、夏官(軍事)、秋官(司法)、冬官(器物製作)の6篇に分け、それぞれの官職名をあげて、職制、人数、職務内容を詳細に記し、儒家の理想に基づく国家組織と統治政策が記述されている。
 この書は前漢末期に古文学派の劉歆(りゅうきん)により世に出たことから、今文学派から偽書として斥けられた経緯がある。
 ★「礼記」(らいき)
 前漢末期に「礼」のテキストの編纂が行なわれ、戴徳(たいとく)の「大戴礼記」(だいさいらいき)と、戴聖(たいせい)の「小戴礼記」(しょうさいらいき)の2つの「礼記」が作られた。しかし、後に「礼記」といえば、「小戴礼記」を指すようになった。
 「礼」は、もともと慣習に基づく規範であり、「礼記」の内容も、日常の礼儀作法から冠婚葬祭の儀礼、官爵・身分制度、学問・修養やその精神に及んでいる。

 このように儒学の初期には「礼」は慣習として行なわれていたものの、それらを「聖典」とは考えなかった。それが宋代にいたり、「礼記」のうちからの2篇が独立して、「大学」,「中庸」として「論語」,「孟子」に並ぶ「四書」の中に取り上げられるようになったことは、非常に面白い。
 その意味で、「礼記」は、「経」と「書」をつなぐ重要な位置を占めることになる。






 
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