5.孔孟思想は21世紀に生きられるのか?
かつて、本居宣長は中国の儒学を批判して、「道あるところに道なく、道なきところに道あり」といった。それは、中国のように「道」という言葉が横行するところには、実は「道」がないからそのような言葉が出てくるというわけである。
これに対して、日本に古来「道」という言葉がなかったのは、実際には、自然に社会秩序が守られてきたため、「道」ということをいう必要がなかった、という意味である。
わが国では、ヤクザ=渡世人の世界ですら「仁義」を大切に守ってきた。それは日本では最低レベルでも社会的に守るべき道であったことを示しており、そのことはヤクザ映画を通して日本人の誰もが知っている。
ところが、現代の日本には高速道路など立派な道路はできたものの、精神の道は言葉も実体もすべて失われてしまった。特に、最近では政治家、官僚、財界人から教育者や市民にいたるまで、「利」の世界に眼を奪われ、古来の日本の精神世界はすっかり失われた。つまり宣長が言う「道」は、ニホンにもなくなってしまったわけである。そのような観点から、もう一度、儒学思想を眺めると一体、何が見えてくるだろうか?
現在の日本は、かつて経験した事のないほど精神的に荒廃した時代を迎えている。考えてみると、日本の思想の根底をなしたものは、長い歴史の時代、特に江戸時代を通じては儒学であった。明治になって西欧文明が一挙に流入してきたものの、戦前を通じて日本思想の底流をなしたのは、「儒学」のそれであった。
それは教育勅語や修身教育における「忠孝」思想に、典型的に現われている。戦後の教育は、その儒学思想を中途半端に解体したものの、それに代わる思想を提起できなかった。その結果としては、小学校に残る二宮金次郎像に象徴されるように、破壊された「忠孝」思想の空白を、新しい思想で埋めないまま現在にいたっている。
この日本人の体の中に埋め込まれている日本的儒学は、それが戦後に空洞化したとはいえ、2千年近い歴史の中で、日本人の体質化しているものである。それは一体、何であったのかを、いま一度、原点である中国の孔孟思想に立ち返り、21世紀の視点から見直してみようと考えたわけである。
(1)孔孟思想とは何か? ―仁と仁義について
孔孟思想とは、儒学の原点をなす孔子と孟子の思想のことである。その思想が形成されたのは、今から2500年も前の事である。ところが驚くべきことに、近代日本の出発点となった明治維新の、思想的指導者の1人である吉田松陰を支えた思想は「孟子」であり、また日本の近代産業の創設者ともいえる渋沢栄一の生涯を支えた思想は、孔子の「論語」であった。
しかも彼らが取り上げた儒学思想は、江戸時代に官学として採用された朱子学ではなく、孟子・孔子の原典であり、その意味では儒学原理主義とでも言うべきものであった。そのことは「日本人の思想とこころ」の「27.歴史はミステリー(その22)
-日本の早期儒学を考える」に詳しく述べた。
そこで、何故、ここで再び孔孟思想を取り上げるか?をまず明確にする必要がある。
その第一は、それらが宗教思想ではなく、「人間」の思想であることにある。宗教には必ず背後に絶対者としての神が存在するが、孔孟思想に神はない。
通常の場合、個別宗教における神は、他宗教の神を否定する。たとえばキリスト教において典型的に現れてくるように、他宗教はすべて異教であり、その神は邪教として排除されるべきものである。そのため、そこでは自分の神を中心とした宗教的な「利」がまず思想の先頭にたつことになる。
たとえば、キリスト教における愛の対象は、異教徒には及ばない。そのことはアメリカによるベトナム戦争やイラク戦争を見るとよく分る。これに対し孔孟思想における「仁」は、基本的にキリスト教にも見られる「愛」に似ているものの、その愛は神とは無関係な人間に対する、やむにやまれぬ原点的な人類愛である。
第二に、「愛」の思想は、基本的に対立者である相手を対等に認めることである。これが「仁」においては、その思想の根本に存在している。
20世紀の世界では、資本主義と社会主義という基本的に相容れないイデオロギーが共存していた。しかし双方の大国が共に核兵器を保有していたために、直接的な全面対決を避けて平和共存を標榜しつつも、その実、世界中で通常兵器による代理戦争が繰り返されてきたことは記憶に新しい。
21世紀におけるアメリカのアフガン戦争やイラク戦争も、「テロとの戦い」に名を借りた利権をめぐる代理戦争である。それは基本的に20世紀型の旧式な戦争の名残りであり、そのためにイスラムの民衆やアメリカの兵士たちは、日夜、いわれのない殺戮の危険に脅かされている。そこには憎しみはあっても、愛などは片鱗だに存在しない。
21世紀は、宗教、政治、経済の対立を超えた、多民族・多宗教の共生の時代になると私は思う。またそのようにする必要がある。そのためには、宗教思想を越えた「愛」の精神を説く孔子・孟子の思想は、相反する思想をもった民族が共生する時代に、重要なヒントを与えると私は思うのである。
●孔子における「仁」
中国古代における儒学の創始者・孔子の根本思想を、非常に単純化して考えてみると、孔子が最も重要視したものは「仁」という思想であった。これに対して孟子の場合は、さらに「義」を加えた「仁義」となり、「孟子7編」の冒頭に取り上げられた。
孔子の根本思想である「仁」とは何か? については、孔子自身が論語のなかで、40箇所以上にわたりいろいろと解説している。
それは孔子思想の根幹にかかわる難しい概念ではあるが、大まかに言えば「仁」とは、自分と他人を同じ人格として認めた上で、自己を犠牲にしても他人のために尽くそうという愛の心とでもいうべき概念である。
論語のなかで、孔子が樊遅(はんち)というあまり物分りの良くない弟子から仁の意味を尋ねられたとき、孔子は「仁とは、人を愛することである」(第6巻、巻12)と単純に分かりやすく応えている。
私は、この物分かりの良くない樊遅に対して、孔子は「仁」の最も重要な一面を、あえて「愛」という簡単な言葉で説明したと考える。
王が政治を行うに当たって最も心すべき「仁」とは、民衆に対する「愛」である。
この仁の思想が、日本では天皇制の根幹にも取り入れられていた。そのことを明確に伝えるのが、天皇の名前に「仁」の一字が必ず取り入っていることである。
それは第56代清和天皇(858即位)から始まった。そして南北朝時代までは仁が入らない天皇もあったが、南北朝が統一された第100代後小松天皇以降は、女帝の場合を除き、必ず天皇の名前に「仁」が入るようになった。
●孟子における「仁」と「義」
孟子は、春秋時代における孔子の死後100年を経た戦国時代に登場した思想家である。宋代になり孟子の書が論語に並んで「四書」の一つに採用されてから、孟子は孔子に次ぐ聖人として、「亜聖」と呼ばれるようになった。
しかし戦国時代の中国思想界においては、孟子はまだ「諸子百家」の1人にすぎず、むしろ墨子の思想のほうが優勢であった。当時、墨子は、「仁人が事を成そうとする目的は、天下の利を興し、天下の害を除き去ることにある」(「墨子」兼愛中篇)と主張し、仁の本質を利の実行(=国の役に立つ事を行うこと)としたほど、利を重視していた。
BC4世紀の中ごろ、50歳を迎えた孟子は、北の強国・山西省の魏(梁)の恵王に招かれて、いろいろと王に語っている。その内容は、「孟子」の冒頭の梁恵王章句上、下に詳しく記されている。
その梁恵王章句の冒頭において、恵王は孟子に対して言う。「先生には、千里の道を遠しとせず当国においでいただきました。先生も他の先生と同様に、わが国に利益を与えてくださるお考えでしょうな!」。
この恵王の言葉は、まさに当時の中国の思想界を支配する墨子的発想であった。
さらに、この墨子の発想は、2千数百年を経た現代の発想に限りなく類似している。
現代に生きる社長や政治家が、期待される利益や効果から話を始めるのは極めて普通であり、おそらく誰もそれに違和感を覚えないであろう。
この利益や効果を優先させる墨子的発想に対して、孟子は真っ向から反対する。
「王、何ぞ必ずしも利といはん、亦仁義あるのみ」(王様は、なぜ利益ばかりを口にされるのですか? 国を治めるのに大切なことは、唯、仁義があるだけです)。
ここに孟子思想の本質がある。しかもそれこそが、孟子思想が21世紀に生きる重要なポイントであると私は思う。
孟子における「仁」の概念は、孔子の場合と若干ニュアンスが異なる。
たとえば、孟子独特の言葉に「惻隠(そくいん)の情」というのがある。この言葉は、最近、日本でベスト・セラーになった藤原正彦氏の「国家の品格」の中にも登場して有名になった。それは「弱者に対する同情」とでもいう意味である。
孟子における「惻隠の情」も、孔子の「仁」と同様にかなり難しい概念である。
孟子自身の比喩をかりれば、井戸に落ちかけた子供を見たら、誰でもこの子を助けようとして、いても立ってもおれない気持ちになるであろう。
それは利益、名声などとは全く違う、人間の本性に組み込まれているいたたまれない感情であり、これを孟子は「惻隠の情」と呼び、「仁」の始まりであると説いた。
孟子は、「仁」に次ぐ概念として、「義」を取り上げた。
「義」については、既に孔子も「義を見てせざるは、勇なきなり」とか、「君子は義に悟り、小人は利に喩る」などと、いろいろ語っているものである。
孔子の語る「義」は、人間が行うべき義務であり、現代のわれわれの言葉では「正義」を意味している。孟子の「義」も、孔子とあまり違わないが、「惻隠の情」から始まるやむにやまれぬ弱者への同情心が、正義の心と結び合って「仁義」が出来上がるところに、孟子の特徴がある。
つまり孟子における「仁義」とは、人間が生まれつき持っている良心の命令や道理上守らなければならない当為の道というべきものである。この仁義の道が前提となり、その結果として「利」が得られる。そのように考えると、孟子の思想は墨子のように「利」を目的にする思想の対局に立っていることがわかる。
その思想が、孟子の冒頭に置かれた「王、何ぞ必ずしも利といわん、亦、仁義あるのみ」という簡単な言葉に表れている。小林勝人氏の岩波文庫版の解説によると、この記述は司馬遷の史記が書かれた頃には、現在のように冒頭にはなかったようである(岩波文庫版「孟子」解説)。
しかし、その後の編纂でそれは現在のように冒頭の章に置かれるようになった。そのことは、仁義という孟子の最も重要な思想を、孟子7編の冒頭におくことにより、その重要性を明確にすることにあったと思われる。
そしてこの仁義の思想こそは、まさに孟子全編を貫くものになった。
吉田松陰は、講孟剳記(こうもうさつき)の中で、この箇所を詳しく解説している。松蔭によると「仁義は道理の上からなさねばならぬ当為の道であり、利は、それを実行した結果として期待すべき効果である。
されば、道理を目標として実行すれば、効果は期待せずとも自然にいたるものであり、効果ばかりを目標として行動すれば、道理を失うに至ることが少なくない」
(講孟剳記、巻の1、近藤啓吾訳、講談社学術文庫上、31頁)。
まさに現代人の思想に対する吉田松蔭の痛烈な批判である!
|