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  2.身近な他界−日本庭園

 芥川龍之介の作品に「蜘蛛の糸」というのがある。国語の教科書にも採用されているので読んでいる方も多いであろう。その出だしは、極楽の昼下がり、庭をあるいていたお釈迦さまが、池の中を覗くと地獄の底で亡者たちが暗闇の中でうごめいているのが見えるところから始まる。つまり芥川の作品では、地獄が極楽の池の底に存在していた。

 地獄は極楽にとっては、いわば対極にある他界である。それが庭の池の中に存在している、という考え方は非常に面白い。このような関係が、実は住居と庭との関係で存在している。つまり、住居は日常生活が営まれる「日常世界」の中心であるが、それに対して庭は「日常世界」に対する「非日常世界」として作られたと考えられるのである。
 また住宅を「陽」の世界とすると、庭は「陰」の世界なのである。そのために庭には木々が植えられ、水が流れ、石組みが作られて「陰」の世界が作り上げられる。

 特に権力者の庭では、日常的には到達できない他界が庭の中に作られた。たとえば中国においては、古代の庭園は不老不死の仙人などが住む神仙世界となり、日本では万葉集で「老いもせず、死にもせず、永き世にありける・・・」(1740)と歌われた「常世国」となる。仏教における浄土教が普及すると、極楽浄土を模した「浄土庭園」も造られた。

 庭園に神仙界などを造る思想は、勿論古代中国に源を発する。すでに1-2世紀に神仙に憧れた漢の武帝は、威陽の西北の甘泉台に巨大な建造物や仙人像を作り、更に建章宮の北方には太液池を作り、池に蓬莱、方丈、瀛州の3神島を作った。
 また4世紀には北魏の華林園に海のような大きな池が作られ、その中に蓬莱宮がもうけられたことが「洛陽伽藍記」に見える。庭に神仙島を作る思想は、朝鮮をへて日本に渡り、平安朝頃から作庭に影響を及ぼして、「三島一連の庭」として流行した。それは更に、枯山水の庭においては「東海一連の庭」という名で作られた。

 日本における庭園の古い記述は、蘇我の馬子が作った庭園が「嶋」と呼ばれたといわれる頃に遡る。また7世紀末には天武天皇の皇太子草壁皇子の「嶋の宮」が、勾玉のように迂曲した池を持ち、荒磯様の石組みが作られた記録がある。更に推古天皇の20年に百済国から来たシキマロという男が、宮廷の南庭に須弥山の形と呉橋を作った。須弥山は仏教で九山八海の中心に碕立する山であり、日本庭園では「九山八海」の庭として最も古い歴史を持つ。

 江戸時代の会津藩の人である澤田名垂の「家屋雑考」という本を見ると、庭は「假山を築き、池水を廻らし、橋をかけて往来す。是等をすべては南庭とも広庭ともいふ。」と書いており、庭園は、池、島、假山(築山)、橋、矼(いははし)、船、鑓水で構成される。
 さてこの島は中島と呼ばれ、平安時代の寝殿造りの場合には橋で渡ること出来るようになっている。また池に船を浮かべて、島に渡ることも出来る。この庭の築山が須弥山、島が蓬莱宮のある神仙島、釈迦如来のフダラク山、アミダ如来の極楽浄土など、いろいろな「他界」に見立てられるのである。
 
 平安時代には、阿弥陀信仰が盛んになり、島は極楽浄土に見立てられるようになった。島は「中島」以外にもいくつか作られ、浄土曼荼羅を構成し、橋はこの世とあの世を結び善男善女を済度する「弘世の橋」となった。そこで庭は居乍らにして浄土世界を実現するものとなった。つまり死んで初めて行くことのできる極楽が、生きているうちから体験できるものになったのである。そしてそのことが庭園の機能になった。代表的なものが藤原道長によって作られた法成寺である。法成寺は極楽もかくやと思われる殿堂であったと伝えられ、この中の阿弥陀堂で道長は阿弥陀仏と自分の手を5色の糸で結んで死んだ。

 つまり日本の庭は、自分の最も近い場所に作られた「他界」であった。そしてそれは室町時代に入り抽象化されて枯山水になり、更に簡略化されて庶民の庭の中にも作られるようになった。そして更に進んで、庭ではなく家の中の床の間や屏風の中で実現されるようになったと私は思う。それを代表するような恐ろしくも美しい話が近松にある。

 江戸時代の近松門左衛門に「傾城反魂香」という浄瑠璃がある。この中で土佐光信の娘である傾城遠山は、自分がすでに死んでいるのに、それを隠して夫で画家である狩野元信と同棲する。ただしその期間は7日と限られている。妻は夫に襖に熊野三山の画を描いてもらい、その絵の上をたどって、夫婦で熊野詣の旅に出る。
 絵の中で熊野詣の旅に出るというのもすさまじいが、そこで元信がふと見ると、先を行く妻が逆様で、後ろ向きに歩いているのを見る。
 古来、「熊野」の地は、それ自体が「他界」であり、「死者の熊野詣」といって、そこへ行くと会いたい死者に会えるといわれる場所である。しかしそこでは死者は、さかさまになり、後ろ向きで歩いているといわれる。

 近松の浄瑠璃は語る。「はっとおどろき是なう浅ましの姿やな。誠や人の物語、死したる人の熊野詣では、あるひはさかさま後向き生きたる人には変わると聞く。」として、はじめて夫は妻の死を知り、必死になって消え行く妻を探す。これは実際の熊野詣ではなく、自分が描いた熊野三山の絵の中での話しであり、英語で書いたら現代の西欧文学にも衝撃を与えるほどのすさまじい話であると私は思う。


 
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