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日本人と死後世界
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  (2)神道の死の世界 -清浄な生者の世界と穢れた死者の世界

 仏教における人間は糞尿のかたまりであり、その人間達のつくる人間世界は、8世紀に最澄が「願文」に記すように、「三災(刀兵災・疾疫災・飢餓災、ないしは火災・水災・風災)の危(あやうき)に近づき五濁(劫・煩悩・衆生・見・命の汚辱)の深きに没(しづ)む」五濁悪生の末世の世、つまり「穢土」であるとしている。
 そのため、この穢れた人間世界から、念仏修行により極楽浄土に転生したいとする思想が「厭離穢土・欣求浄土」という考え方になって出てきた。
 これはインド、中国から朝鮮半島を経由して伝来した仏教の考え方であるが、それ以前からある日本的人間世界の考え方とは、逆のものであった。

 日本の古代思想は、むしろ死後の世界を穢れたものとし、生者の世界を清浄なものと考えた。
 日本神話において、国生みを行ったイザナギ・イザナミの2神は、次々に神生みを行った。岩石、土砂、家屋、風雨、海、山などの神を生み、最後に火の神カグツチを生んだ時、イザナミは局部のやけどにより死んでしまう。
 この病臥中のイザナミが苦しんで吐いた嘔吐物や糞尿からも、鉱山、粘土、漕漑用水、食物の神が生み出される。つまり、汚れた人間の排出物から、人間の食べる食物が出てくるわけで、この世は汚れたものという思想は全く感じられない。

 しかし、イザナギが死後のイザナミの所を訪れたとき、そこで見たイザナミの体には、気味の悪い姐虫がわき、腐れ爛れた頭、胸、腹、手足、陰部には、恐ろしい雷神がうずくまっていた。

 この恐ろしい死の世界から逃げ出したイザナギは、追い掛けるイザナミをふりきり、大きな岩で黄泉比良坂を塞いだために、生の国である高天が原と死の国である黄泉の国の2つに分れたとする。この黄泉の国は穢れた国であるために、そこから出たイザナギは、お清めのための「ミソギ」を行う。
 今でも、日本人が葬儀の後、自宅へ入る時に、清め塩によるミソギを行う。これは仏教儀式とは無縁のものである。

 日本神話における高天が原は、神々のふるさとであり浄土であるが、極楽浄土のように死者の世界ではなく、清らかな生者の国である。

◆高天が原 -天空にある神々の浄土

 「日本書紀」の注釈書である「釈日本紀」には、「高天原は、私記に言う。師説は、上天を請うなり。案ずるに虚空を言うべきなり。」と注記している。「日本書紀聞書」にも、「虚空をさす」とあり、「神代紀抄」には、「神道ニハ雲中ヲサス也」とある。
 つまり、上代には単に、「上天・虚空・雲中」にすぎなかった「高天が原」は、中世神道において、陰陽五行や仏教思想と習合して、心身論的な解釈が加えられていく。

 たとえば、八剣勝重の「中臣祓句投」には、「謹て按ずるに、高天原は上天の謂なり。人ありて一物なく、之胸中なり」とあり、忌部正通の「日本紀神代口訣」には「高天原は、空虚清浄の名なり。人ありて一念なく、胸中なり」という。
 つまり高天原は、天空にある神々の浄土ではあるが、極楽浄土などとは全く異なり、死者が死後に行く場所ではなく、生きている神々の浄土であった。(鎌田東二「異界のフォノロジー」)

◆黄泉の国と常世の世界 -死者の国々

 死者の行く世界は、黄泉の国である。そこは穢れた邪霊や悪神、死霊の国であり、根の国、底の国、また古事記では根の堅洲の国と呼ばれた。上代の日本人は、単純に人間の生活する現世は太陽の満ちあふれた光明の国であり、善神が主宰する楽土であると考えた。
 これに対して死者の居所は黄泉の国であり、そこは永遠に光のない暗黒世界であり、悪神が支配する汚辱の国であると考えた。疾病、罪悪、災厄のごとき、あらゆる厭うべき、忌むべき物は、すべてこの世界に属するものと考えた。

 「底」の国は、必ずしも地下に限定されず、現世を遠くへだてた国とも解釈されている。古事記には、太陽神アマテラスの弟のスサノオが、黄泉の国を慕って泣き叫び、そのためイザナギは怒って、スサノオを黄泉の国へ追放する話が出てくる。
 そこでスサノオが赴く先は、出雲の国であり、このことから古代の出雲の国が、「根の国」に対比されることになる。

 そしてスサノオの信と愛を受けて、出雲の国を支配したオオクニヌシは、黄泉の国=根の国の王となった。このオオクニヌシと一緒になって、この出雲の国をつくり固めたのがスクナヒコナの神である。この神は、オオクニヌシが出雲の美保の岬にいたとき、船に乗って海外から渡来した神である。このスクナヒコナの神は、出雲の国造りが成功した後に、「常世国」へ旅立った。
 スクナヒコナは、記紀にはわずかに登場するのみであるが、各地の風土記や万葉集に歌われていて、古代の日本人にとってかなり身近な神であった。しかもこの神の行く先が、今一つの死者の故郷の「常世国」である。

 この国は光明のない死者の地である黄泉の国ではなく、仏教の極楽世界のようなユートピアのようである。この常世の国は、アマテラスの有名な岩戸がくれの段にも登場する。

 アマテラスは、弟スサノオの乱暴に困り果てて、天の岩戸を閉ざして籠ってしまった。太陽神アマテラスが、岩戸を閉ざしたために、高天原も日本列島もすべてが真っ暗になり、一斉に災いが起こり始めた。
 そこで神々が天安の河原に集まり、一計を考えた。岩戸の前で鶏を鳴かせて暁を告げさせ、賑やかなお祭りを始める。自分がいないのに、なぜ朝がきてお祭りが始まるのかと、不審に思ってアマテラスが少し、岩戸を開けたところで、鏡を差し出す。それにアマテラスの光があたると、さらに不審に思って、いま少し岩戸を開けようとする。そこを、力自慢のタジカラオの神が、一挙に岩戸を開いてアマテラスをお迎えしようという計画である。
 このときに登場した鶏こそが、「常世国」から集めた長鳴鳥であった。

 さて「常世国」は、江戸末期の国学者鈴木重胤(1812-1863)の「日本書紀伝」では、3種の意味があるとする。(1)常世長鳴鳥の棲息する日の出の国の意味、(2)万葉集巻一に、「わが国は常夜にならむ」とあるごとく、永久不変の意味、(3)遥かに隔たって容易に交通できない海外の国の意味、である。
 重胤は、スクナヒコナの常世国は、この(3)の意味であるとしている。

 「常世国」は、朝鮮半島とする説がある。また、書紀一書の第六では、スクナヒコナは、「熊野の御碕にいたり、ついに常世郷にいでましぬ。」またの説では、「淡路島に至りて、粟茎により、弾かれ渡りて常世郷にいたる」とある。
 つまり根の国は、地下の国ではあるが、現世では、出雲とか熊野がそれに当てられてきた。それらは、邪霊の支配する暗黒の世界ではない。
 特に熊野は、神仏習合の思想ともあいまって、死者の霊が集まる聖地として位置づけられるようになった。






 
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