(4)日本仏教の死後世界
日本人の死後世界は古来、神道、仏教、儒教、道教、景教などが、いろいろな時代を通じて渡来してきたため、それらが混在、習合した複雑なものである。すでにそのうちから、死後の世界観に最も大きな影響を及ぼした仏教における浄土をみてきた。そこで次に、極楽浄土の対局にある地獄とそこへの道程について眺めてみる。
822年につくられた「日本霊異記」には、死後、閻魔王の前で地獄の審判を受ける話が多数記載されている。しかし日本で死後世界の道筋や、閻魔王庁の詳細が民間信仰としてまとめられたのは、平安末期に日本でできた偽経といわれる「地蔵菩薩発心因縁十王経」のあたりからであろう。
そこには俗説の死後の旅が詳しく記されている。
◆死出の山路
まず、閻魔王の国境に、死天山の南門がある。非常に険しい山で、死後にまず遭遇する難所とされる。「千載和歌集」(1188)に、鳥羽院(1103-1156)の御製として「死出の山路」が歌われている。
常よりも睦まじきかなほととぎす
死出の山路の友と思えば
また、南北朝の動乱で、足利高氏が京都に攻め込んだ時、六波羅の北の探題であった北条仲時は、落ち延びて近江番場で自決した。元弘3年(1333)5月のことである。それは432人が切腹し自決する凄惨な戦いであった。仲時の父は、わが子の死をきき、
まてしばし死出の山路のたびの道
同じく越えて浮世語らむ
とよみ、あとを追って自決した。
ここで歌われている死天山の発所である「死出の山路」が、冥途の旅の第1歩となる。
「日本霊異記」に登場する閻魔庁では、閻魔王に8人の宮人(つかさびと)が奉仕している程度であった(上第30)。しかし「十王経」の段階になると、閻魔王が支配する冥府は、10人の王の役所が並び、死者はそこで裁断をうけて行き先が決まる組織的なものになっていた。
しかもこの冥府での手続きは、即、死者に対する葬送の儀式に対応するものとなっていた。
◆秦広王=不動尊
まず、死出の山を越えて死後の初7日に、第1王廳である秦広王の所につく。秦広王の本地は、不動尊である。すべての死者は、ここで一息切断、つまり一息ついて、来世への第一歩を踏み出す。地獄へ落ちる人は、ここで早くも行き先が決まる。
この第1王廳から第2王廳の初江王の所へ行く途中で、三途の川を渡ることになる。
◆三途の川
「三途の川」は、別名を渡り川、三つ瀬川、葬頭河など、いろいろの名で呼ばれる。
「蜻蛉日記」(972-976成立)には、「みつせ川、浅さのほども知られじと、・・」とあり、また「源平盛衰記」巻十に、「冥途の三途川こそ思ひやらるれとて、思ひやれ、くらき暗路のみつせ川、瀬ぜの白波・・・」。
「古今和歌集」(908-913)には、小野篁(802-852)が妹を亡くしたときの歌に、次のものがある。
なく涙、雨と降りなむ渡り川
水まさりなば返へり来るがに
日蓮(1222-1282)は、「十王讃嘆鈔」で「三途の川」について詳しく説明している。それによると、この川には3つの渡しがある事から、「三途」と呼ぶわけで、浅い所は罪の浅い人が渡り、善人は金銀七宝でできた橋を渡る。悪人は、強深瀬という流れが早く、波の高い所を渡る。
悪人は地獄へ入る前にこの川渡りで大苦をうけ、7日7夜をへてやっと向う岸につくことになる。
「十王経」も大体において同じであり、その後で、死者の衣服を剥ぐという懸衣翁と奪衣婆について記している。「十王経」は、平安末から鎌倉期にかけて成立したもので、「三途の川」の信仰も鎌倉期から普及してきたようである。
太平記にも、「さては誰がために暫しの命をも惜しみ候べき。死出の山、三途の大河とかやをも、共に渡らせばやと存じ候へば、ただ急ぎ首を召され候へ。」(下29)「師直以下誅せらる」)といったように、冥途の対句として使われている。
中国では、既に六朝時代に冥府に川があることが知られており、冥府遊行のいくつかの説話がある。しかし、日本では「蜻蛉日記」(10世紀後半)が初出といわれる。
また「日本霊異記」(822成立)には、「三途の川」という名前はないが、冥府の川は2か所で登場する。
慶雲2年(705)9月、一度死んで蘇った膳臣広国という人が、冥界へ行く途中の「路の中に大河あり、橋を度い、金を以て巌れり」という。
また、別の話で、神護景雲2年(768)2月、同じく死んで蘇った藤原朝臣広足が、冥府へ「往く前の道、中断して深き河有り、水の色黒黛くして流れ不、沖く寂びたり」と述べている。つまり日本でも、冥府に川があることは、かなり古くから知られていたようである。
◆初江の王=釈迦如来
さて三途の川を渡ると、閻魔の国の官庁が連なるのが見えて、まず、最初の初江の王のところへ行く。
「十王経」は、「葬頭河の曲、初江の辺において官庁相連なり、渡さるるを承く。」と記している。この王は、本地釈迦如来といわれ、死後27日(ふたなぬか)、つまり2×7=14日にここを通る。餓鬼道へ落ちる人が決まる。
● 宗帝王=文殊菩薩
本地は文殊菩薩であり、37日(みなぬか)、3×7=21日にここを通る。聡明智略で冥官に尊敬されている王であり、畜生道へおちる人が決まる。
● 五官王=普賢菩薩
本地は普賢菩薩であり、4×7日(28日)でここを通る。五官は五刑であり、刑罰を司る。修羅道へ落ちる人が決まる。
● 閻魔大王=地蔵菩薩
地獄の総主であり、本地は地蔵菩薩である。5×7日(35日)でここを通る。悪行の人を断じて仏果に至らしめる。人間に生まれ変わる人が決まる。
● 変成王=弥勒菩薩
本地は弥勒菩薩であり、6×7日(42日)で通る。煩悩を断盡し、心法を植え付ける。天道へ行く人がきまる
● 太山王または太山府君=薬師如来
本地は薬師如来であり7×7日(49日)で通る。この王は、閻魔大王の太子であり、常に大王の傍らにあって、人の善悪を記する役割を行う。最終、次に生まれる世界が決まらなかった人もここで決まり、中有が終わる。
● 平等王=観音菩薩
本地は観音菩薩であり、100ケ日を司る。この王は、よく世の音を観じて、平等に解脱させることから、この名がある。善人、悪人にかかわらず、我が子のように慈悲をたれ、平等に解脱させる。
● 都市王=勢至菩薩
本地は、勢至菩薩であり、1周忌を司る。遍く一切を照らして三途を離脱せしめ、涅槃の果を得せしめることを本誓とする。
● 五道転輪王=阿弥陀如来
本地は阿弥陀如来であり、3年忌を司る。五道の巷に住して妙法輪を転じて、衆生の悪業を催破することからこの名がある。
このように死者が、死後に10王の官庁をめぐる手順は、残された家族にとっての仏事とかかわっている。しかしその後に、10王に更に3王が加わり、7年忌を蓮生王=阿しゅく如来、13年忌を抜苦王=大日如来、33年忌を慈恩王=虚空蔵菩薩が司ることになった。
◆中陰=死後転生までの服喪期間(7~49日)
仏教には「中陰」という言葉がある。中陰は中有ともいい、次の生をうけない期間である。この期間は、早い死者は秦広王のところで初7日で決まる。遅い死者は太山王のところで49日で決まるとされる。そこで49日を「満中陰」といい、ここで喪が明ける。
江戸時代の中期に、伊勢貞丈が表した「貞丈雑記」には、「中陰というは、人死して七七、四十九日の間をいう。中有ともいう。四十九日の間は、死したる人、極楽へも行かず、地獄へも行かずして、迷いありくによりて、法事をして、極楽へ赴くようにすることなりとぞ。これは出家がたの説なり。」とある。
そこでこの中有の間は、7日ごとに仏事を行い、死者に回向して、その冥福を祈るわけである。49日を越える百日忌、一周忌、三年忌は、中国的な祭祀習俗が付加されたものと考えられる。
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