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1. アメリカ経済の行方―ドル本位制の終焉

11. 戦争ゲームを考える −フォン・ノイマン仮説の破綻
12. 21世紀の世界はどこへ行く?(その2)
13. ロシアの政治・経済の行方(2) −ロシアにおける市場経済化の軌跡
14. 中国の政治・経済の行方(3) −ケ小平・21世紀の夢!
15. 大国インドの登場 −変貌する21世紀世界の勢力地図
16. 世界経済の興亡(1)(18-20世紀)−ポンドとドルの時代

17. 世界経済の興亡(2)(20-21世紀)−ドルの次の時代?
(1)ドル本位制の世界とは ―変動相場制下でドル相場の安定は可能か?
(2)ドル本位制の崩壊 ―ドル不安に対するヨーロッパの試み
(3)ドル本位制はどう変わるか?
 
  17. 世界経済の興亡(2)(20-21世紀)−ドルの次の時代?

(1)ドル本位制の世界とは ―変動相場制下でドル相場の安定は可能か?
●プラザ合意 ―レーガノミックスにおけるドル高の是正
 レーガノミックスは、「強いアメリカ=強いドル」という、フシギなスローガンを掲げていた。既に、ニクソン時代にアメリカのドルは金本位の裏づけを失っている。その段階で「強いドル」、つまり「ドル高」政策をとれば、輸入が増えて輸出がへり、貿易赤字が増えることは経済のイロハともいえる自明の理である。

 さらに、ソ連に対して「強いアメリカ」を標榜して軍事力を強化すれば、軍事支出が増えて国家財政が膨張することは、当然の帰結である。しかも歳入のほうは、ラッファ教授による税率を下げると税収が上がるというこれまたフシギな経済理論に従って税率を下げたため、財政収入が減少して財政赤字も増えた。
 つまり1985年にレーガン政権はその第2期に向って、どうしても経済政策を修正せざるをえなくなっていた。その第1は「ドル高」の是正であり、それは「プラザ合意」により幕が開いた。

 1985年9月22日、ニューヨークのプラザ・ホテルにおいて、G5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)が極秘で開催された。80年代初頭のアメリカ経済は、大恐慌以来の最悪といわれる状態にあり、そのなかで81年に登場したレーガン政権は税率の引き下げを行い、消費を拡大して景気の回復を目指した。しかし、そのことによりさらに税収は落ち込み、アメリカの財政危機は深刻化していった。
 レーガン大統領は、レーガノミックスにおいて「強いドル」を標榜していたが、財政、貿易、経常赤字が深刻化したため、各国が「ドル高」是正のために、為替市場に協調介入する合意に追い込まれた。これが「プラザ合意」である。

 このプラザ合意を境にして、レーガン政権は第2段階を迎える。この段階で、第2次大戦後に世界一の債権国であったアメリカは、世界一の債務国に転落し、代わって日本が世界一の債権国になるという大逆転が起こり、この状況を追認したプラザ合意を受けて、猛烈な「円高」が進み始めた。

●ルーブル合意 ―ドル安に歯止めはかけられるのか?
 プラザ合意とその後の各国による協調介入の結果,日本を例にとると1ドル=240円台で始まったドル相場は、その後、ほぼ一本調子で下落した。そして87年2月には150円台に到達し、日本の輸出に深刻な影響を与える事が懸念された。

 このような過度のドル安に対する懸念は、世界各国がそれを共有していた。そこで、1987年2月22日、パリのルーブル宮殿でG7(G5+イタリア,カナダの7カ国蔵相会議)が開催され、プラザ合意以降の大幅なドル安に歯止めをかけ、為替相場を安定させることで合意した。これを「ルーブル合意」という。しかしこの合意にも関らず、その後もドルの下落は続き、遂に87年秋にはとうとう1929年の大恐慌にも匹敵する、戦後はじめて経験する大恐慌を引き起こすことになった

●1987年の大恐慌「ブラック・マンデー」=遂に経済破局がやってきた!
 1987年のアメリカ経済は、当初は一見、堅調な滑り出しを見せていた。1-3月、ニューヨーク株式市場では、ダウ工業株30種平均が、86年末から4月6日までに2,405ドル(27%)の上昇を見せていた。2月には上記のルーブル合意(=ドル安是正)が行なわれ、ドル安に歯止めをかける努力も始まった。このような状況が好感されて、「世界的な同時株高の現象」が現れていた。

 5月にはベネチア・サミットが開催され、ルーブル合意によるドル安の是正が再確認された。しかし4-6月期、アメリカの貿易収支の赤字は毎月100億ドルを越えており、財政赤字の深刻さも増していた。そのために「ドル暴落説」は多数説を占め始めていた

 7月にはいると原油価格の高騰が激しくなり、バーレル20ドルの大台にのせ、長期金利も9%に接近して、なお上昇を続けていた。ニューヨーク・ダウ工業株30種の株価収益率PERは8月には20倍を突破し、金利9%に対しての株価は、明らかに割高水準に入っていた。

 8月25日には、30種平均は2,722ドルの史上最高値をつけた。FRB議長はボルカーからグリーンスパンに代わり、インフレ抑制が基本政策となってきた。

 9月には、公定歩合が引き上げられ、インフレの再燃懸念、ドル相場の不安定、ベーカー財務長官のドル安容認の発言、ペルシャ湾岸の緊張、M&Aの制限法案の提出に加え、株価収益率は過去15年間の最高率である20倍に達するなど、不安要因が積み重なってきた。

 9月に2,600ドル台をつけた平均株価暴落の兆候は、まず10月6日に現れた。西独連銀がオペレーション・レートを引き上げ、アメリカの一部商業銀行がプライム・レートを0.5%引き上げて9.25%にした。さらに、アメリカの公定歩合の引き上げ懸念が表面化して、ニューヨーク・ダウは91.55ドルという史上最高の下落幅を記録し、一気に2,600ドル台を割り込んだ。

 その後、株価は戻りを見せず、10月14日には95.46ドル安という史上最高の下げ幅の記録を更新し、翌15日には終末特有の技術的要因とプログラム・トレーディングが絡み、10月に入って3度目の史上最高の下落幅を更新して108.35ドルも下げた。

 第2次世界大戦後は、当初に懸念されていた1929年に匹敵する大恐慌もなく、経済復興に成功したように見えた。その理由は、大戦の前から始まった大きな技術革新の波が、戦後の産業革命に繋がったことによると思われていた。しかし第2次世界大戦後における金本位制の崩壊の後、ドルをめぐる国際通貨の変動は慢性的に続き、ついに1987年10月19日(月曜日=ブラック・マンデー)の運命の日を迎えた。

 ▲1987年10月19日(月曜日)
 10月19日、朝から出はじめた株の売りは、時間とともに巨大化し、津波のように市場を押しつぶした。後に大統領に出されたブレディ報告書は、4つの波があったと書いている。まず9時半の寄付きから11時までに第1の波が来た。プログラム・トレーディングが全体に占める比率は15-20%で、最初は株価指数サヤ取りが先行した。

 次は12時から1時までに第2の波が来た。1時頃には全体の40%以上がプログラム・トレーディングで、とりわけポートフォリオ・インシュアランスが大半を占めるようになった。

 第3の波は、1時から2時にかけて押し寄せた。この時点で2,230ドルあたりから始まった平均株価は、1,900ドルまで下落した。

 第4の波は、2時半から大引けにかけて襲ってきた。この頃にはポートフォリオ・インシュアランスの原理も作用せず、プログラム・トレーディングの出来高比率も20%を切っていた。市場はなすがまま下げていき、大引けにかけて最もきつい下げになり、平均株価は1,700ドルを割り込んだ。

 ▲10月20-21日
 翌10月20日、グリーンスパンFRB議長は、信用パニックを防止するために、無制限の流動性を供給する用意があることを表明した。また上場会社の大半も暴落した自社株を購入したために、平均株価は102.27ドルという市場最大の上げ幅を記録した。

 10月21日には、金融当局の努力と一部商業銀行のプライム・レートの引き下げも加わり、株価は186.84ドル上昇した。しかし10月21日の2,027.85ドルが平均株価の戻りの限界となり、1987年末までそれを抜く事はなかった。

 10月の大暴落の後、証券会社、トレーダー、投資家共に打撃を受けて、自信を喪失し、平均株価は12月上旬には再び1,700ドル台に下落し、2番底となった。その後、米ソ間サミットで防衛費削減の期待が高まり、年末は1,938ドルで引けた。

 ▲株価大暴落の原因は?
 ブラック・マンデーの原因については、ブレイディ報告書をはじめとする数多くの報告書がつくられている。このうち大統領の命令で作られたブレイディ報告書は、暴落の直接原因としてプログラム・トレーディングとポートフォリオ・インシュアランスをあげている。

 たしかに暴落を引き起こし、かつ深刻化させた直接的な要因として、プログラム・トレーディングとポートフォリオ・インシュアランスがあげられるが、それはあまりにも技術的な見解であり、経済的にはレーガン政権の「双子の赤字」に根本的な原因があることは明白である。従って、この根本原因がどのようなプロセスをへて、株価の大暴落に到ったかの解明が、最も重要であろう。

 ブレイディ報告書のプログラム・トレーディング原因説は、一般的には殆ど受け入れられていないようである。ブレイディ報告書の説を明確に否定するのは、商品先物取引委員会CFTCの報告書であり、ブレイディ報告書のようなテクニカルな原因ではなく、投資家の経済に対する見方の変化に原因を求めている。

 保田圭司「アフター・ブラック・マンデー」日本経済新聞社には、各種の報告書の内容が紹介されている(43-62頁)。どの報告書もかなりの時間をかけて詳細な調査が行なわれているが、いまいち、その原因がピッタリこないのは、どうしたことであろうか?






 
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