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どこへ行く、世界
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1. アメリカ経済の行方―ドル本位制の終焉

11. 戦争ゲームを考える −フォン・ノイマン仮説の破綻
12. 21世紀の世界はどこへ行く?(その2)

13. ロシアの政治・経済の行方(2) −ロシアにおける市場経済化の軌跡
(1)ソ連の社会主義と市場経済の系譜
(2)羅針盤のない航海―社会主義計画経済から資本主義市場経済への移行
(3)ロシア金融危機の発生

14. 中国の政治・経済の行方(3) −ケ小平・21世紀の夢!
15. 大国インドの登場 −変貌する21世紀世界の勢力地図
16. 世界経済の興亡(1)(18-20世紀)−ポンドとドルの時代
17. 世界経済の興亡(2)(20-21世紀)−ドルの次の時代?
 
  13. ロシアの政治・経済の行方(2) −ロシアにおける市場経済化の軌跡

(1)ソ連の社会主義と市場経済の系譜
 91年8月、ソ連旧体制派によるクーデターの失敗により、大国ロシアでは74年にわたるソ連共産党の1党独裁に終りを告げた。その結果、旧ソビエト連邦と各共和国との関係も大きく変わって「独立国家共同体」〔CIS〕の創設という当初には予想もしなかった展開を見せて21世紀を迎えた。

 そのためロシアは、ソ連国家の創設以来、長い間続いてきた社会主義・計画経済体制から資本主義・市場経済へ逆行する道を辿ることになった。しかしそれは容易な道ではなかった。20世紀の初頭に、ロシア革命によって人類で初めて社会主義への道を歩み始めた国が、百年後の21世紀の始めに、今度は人類で初めて社会主義から資本主義への道を歩み始めた。この先、ロシアには、どのような未来が展開するのであろうか?

●レーニンによる資本主義・市場経済の導入―ネップ
 ソ連と資本主義市場経済の関係を考えてみると、レーニンのネップ(新経済政策)の段階で市場経済が導入されたことがある。ゴルバチョフは「ペレストロイカ」において市場経済を導入するに当たり、ネップ時代のレーニンの思想や方法の研究を行ったといわれる。
 そこでまずネップから話を始めてみよう。

 1917年11月7日(=旧暦10月25日)、ロシア10月革命における第2回全ロシア・ソビエト大会において、臨時政府の廃止、全戦線の即時停戦などに加えて、次の措置が提案された。
 (1)地主、帝領、寺領の土地を土地委員会へ無償で移譲すること(土地の公有化)
 (2)兵士の権利擁護と軍隊の民主化の実行(軍の民主化)
 (3)生産に対する労働者による管理の確立(労働者による生産管理)
 (4)適当な時期に憲法制定会議を招集すること(憲法制定会議)
 (5)都市にパン、農村に第一の必需品を供給すること(国民へ必要物資の供給)
 (6)ロシア在住の全民族に真の議決権を確保すること(全民族の議決権)
   (ジョン・リード「世界を揺るがした10日間」)

 ここで明確に規定されている諸事項は、ロシアがこの時点において激しい内戦と諸外国の干渉戦争の時代に突入したため、殆どそのまま実行に移せる状態にはなかった。
 さらに、当時のロシアにおける資本主義的企業においては、一方で労働者が直接企業統制を行って資本家支配を打破する、下からの民主化が始まった半面で、荒廃した経済復興の要請による上からの社会主義建設の要請も高まっており、生産現場は大混乱を起こしていた。

 そのため初期のソ連経済においては、生産と供給が共に極度に衰えており、社会主義・計画経済は物不足とインフレにより、適正配分,均衡価格という、理想とは程遠い状況に陥入った。そこでレーニンはこの段階において、「国家資本主義」という概念を導入し、それを社会主義への過渡期とすることを考えた。

 革命後のロシア経済は、激しいインフレと物資の不足の中で破綻に瀕していた。そしてロシア貨幣のルーブルは、流通手段としての機能を失った。その結果、1919年3月のロシア共産党第8回大会においては、貨幣の廃止が提案されるまでになった
 このように極端な共産主義化の進行により国民の不安は高まり、ボルシェビキ革命に対する農民反乱や軍の蜂起まで起こり始めた。このような軋轢が引き起こされた1918-1921年は、「戦時共産主義」の時代と呼ばれている。
 この国民的不満の高まりの中で、レーニンは社会主義化の方針に対して根本的な変更を迫られることになった。これが1921年の「新経済政策」(ネップ)である。

 ネップの期間は、1921年から20年代末の第1次5ヵ年計画と集団化の強行まで、もしくは1936年のスターリンによる社会主義建設が始まるまでとされている。
 このような政策採用の原因となった革命によるロシア経済の凋落はすさまじかった。1913-1921年の産業指標の低下状況を比較してみると、農業生産が60%で最高であるが、全産業の総産出指数は31%、大規模鉱工業指数は21%、輸出入は1913年ルーブリで、輸入が15.1%、輸出は1.3%まで低落するという悲惨な状況になっていた。
(出典)A・ノーウ「ソ連経済史」、(小池善示「重革主義」、日本国書刊行会、229頁より再引)

 「ネップ」とは、10月革命以降の戦時共産主義期における経済の行き詰まりを打破するため採用された自由な市場メカニズムを認める「新経済政策」のことであるが、広義には文化を含めたこの時期の社会・経済全般をさす言葉として使われている。
 この当時のロシア経済における農業の比重はまだ大きかった。レーニンは、農業の将来に大規模な機械化した集団農場を想定はしていたが、この時点では農業の個人経営を認めて、余剰生産物に税金をかけるものの、残余について自由処分を認める政策をとった
 レーニンは小経営主に向かって言った。「経営主よ、穀物を生産したまえ。国家は最小限の税しかとらないから!」
 しかし1920年に内戦が一時的に終結すると、国民経済運営の主体は労働者であるため、労働者が組織する労働組合が全国民経済の中央機関になるべきであるとする批判的勢力の力が強まっていた。
 それから60年後、ゴルバチョフがペレストロイカによりソ連の再生に取組んだとき、非常な関心を持て調べたのは、このネップ時代のレーニンの思想や政策であった。

 しかしこの時、レーニンには既に人生に残された時間がなかった。22年5月26日、最初の脳卒中の発作が彼を見舞った。10月にはモスクワへ戻り国務に復帰するが、12月16日に2度目の発作、さらに翌23年3月に3度目の発作を起こし、政治活動は不能になった。
 そして1924年1月21日、レーニンは死去した。享年54歳であった。

●ネップの総括とスターリンの登場
 ネップはソ連経済の復興に対して非常に大きな成果を齎した。図表-1を見ると、1922-1926年の4年間で商業の取引高は4倍に増大し、なかでも協同組合は20倍に増加している。部門別構成比でみると、1922年度においては私的取引が75.4%を占めていたのに対して、1926年度には36.9%に半減しており、ネップの過程においても、社会主義化も大幅に進行していたことを示している。

図表-1 ネップによる取引高の増加(単位:1万ルーブリ)

 (出典:A・ノーヴ「ソ連経済史」、小池善示「重革主義」253頁より作図)

 1921-22年の凶作によりロシアでは500万人の餓死者が出て、21年には「救援委員会」まで作られた。この飢餓に対してゴーリキーがアッピールして、世界中から救援の手が差し伸べられた。更に飢饉に続いて発疹チフスが流行。この中をロシアの民衆は耐えぬいた。

 ようやく内戦に勝利して政権基盤ができたソビエト政権を更に悩ませたのが、農業価格に対する工業価格の比である「鋏状価格差」による危機であった。
 工業製品は値上がりし、農業製品は値下がりした。そのため、22年10月を基準値100にとると、工業製品は1年後には184になった。例えば、自動車1台が小麦100俵で買えたものが、1年後には小麦184俵必要になった。つまり農民の収入は工業に比べて大幅な減収になり、農民の不満が増加し、工業製品を中心にした大幅な引下げ政策が必要になった

●スターリンによる強権政治― 一国社会主義と5ヵ年計画の開始
 レーニンの後継者にはトロツキーがなると思われていた。しかし実際の主導権はスターリンに奪われた。1927年12月から始まったソ連共産党の第15回大会は、ロシア語で「鋼鉄の男」を意味する「スターリン」の一人舞台となった。

 スターリンは「一国社会主義」を掲げてトロツキーの「国際共産主義」路線をつぶし、国内政策としては急速な工業化を目指す「5ヵ年計画」を発足させた。
 5ヵ年計画の目標値は驚くべきものであった。5年後には、全生産額は250%増加し、近代的テクノロジーを導入することにより、重工業330%、銑鉄300%、石炭200%、電力400%増加する計画であった。

 農業においては耕地の20%が集団農場化されることにより、個人農業から集団農場に変わり、農産物は150%増加する予定になった。この計画が遂行されると、ロシアは農業国から一挙に工業国に変わる筈であった。このスターリンの大躍進政策は、その後に中国において毛沢東の「大躍進」に継承された。

 5カ年計画の実施時期は1928年10月に遅れたものの、農業の集団化は予定以上に強行された。ここから「階級としての富農の絶滅」運動が始まった。無理を承知の5カ年計画を強引に達成するため、国家権力は総動員され、ソ連共産党は中央の書記局から末端の支部書記にいたるまで、スターリンの腹心で固められた。ソ連における「収容所列島」の政策がここから始まった。

 さらに国家権力を陰湿に維持するために、秘密警察が強化された。国家保安機関としては、既に1917年に反共主義者を絶滅するためのテロ組織としてチェーカChekaが作られていた。その後、スターリンにより、GPU(ゲー・ベー・ウー:国家政治局)、NKVD(内務人民委員会)などという大きな組織に統合され、スターリンの計画経済に反対するすべての人や組織を粛清する体制が作りだされた
 この組織を使ったスターリンによる大粛清は、1934年に彼の政策に反対したキーロフの暗殺事件から始まり、1940年のトロツキー暗殺に至るまでロシア全土で猛威を振るった。

 1920年代、社会主義の計画経済が成立するかどうかが、ミーゼス、ハイエックにより問題提起されていた。これに対してランゲ、バローネなどという数学的方法に強い経済学者が反論して、計画経済においても均衡価格の設定が可能であるとする主張がなされた。
 しかし実際のスターリンによるソ連の社会主義計画経済は、理論的妥当性などとは無関係に、政治権力を総動員して力まかせに突き進んだ。
 その結果は、数十年をへてソ連、中国ともに社会主義的「計画経済」が行き詰まり、1980年代から資本主義的「市場経済」を採用する道を選択することになった。




 
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