アラキ ラボ
どこへ行く、世界
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1. アメリカ経済の行方―ドル本位制の終焉

11. 戦争ゲームを考える −フォン・ノイマン仮説の破綻
12. 21世紀の世界はどこへ行く?(その2)
13. ロシアの政治・経済の行方(2) −ロシアにおける市場経済化の軌跡
14. 中国の政治・経済の行方(3) −ケ小平・21世紀の夢!
15. 大国インドの登場 −変貌する21世紀世界の勢力地図

16. 世界経済の興亡(1)(18-20世紀)−ポンドとドルの時代
(1)イギリスの勃興と衰退 (18-20世紀)
(2)アメリカの世紀の盛衰

17. 世界経済の興亡(2)(20-21世紀)−ドルの次の時代?
 
  16. 世界経済の興亡(1)(18-20世紀)−ポンドとドルの時代

(1)イギリスの勃興と衰退 (18-20世紀)
 世界経済の大きな波と大国の覇権の変遷については、「どこへ行く、世界」の「12. 21世紀の世界はどこへ行く?(その2)」において、コンドラチェフ周期とポール・ケネディの「大国の興亡」などの論説を中心に述べた。
 その内容を、少しかたちを変えて図表-1に再掲する。

図表-1 コンドラチェフの波と18-21世紀における大国の興亡
世界経済の成長と減衰 コンドラチェフの波 覇権国家 資本主義の性格 状況
成長期1789-1819 第1波 1789-1849 イギリス 産業資本主義 工場段階の産業革命
減衰期1819-1849
成長期1849-1873 第2波 1849-1896 鉄道、電気、重工業
減衰期1873-1896
成長期1896-1923 第3波 1896-1950 アメリカ 独占資本主義 革命、世界大戦、大恐慌
減衰期1923-1950
成長期1950-1972 第4波 1950-1993 アメリカ vs ソ連 国家独占資本主義 産業複合体と代理戦争
減衰期1972-1993
成長期1993-2021 第5波 1993-2050 アメリカ vs EU 国際金融資本主義 市場・宗教原理主義と対テロ戦争
減衰期2021-2050
成長期2050-2070 第6波 2050-2090 アメリカ vs EU vs BRICS 国際金融資本主義? 世界統一市場と民族間紛争
減衰期2070-2090

 上表において、コンドラチェフ自身が取り上げた波動は、第3波の前半期までである。第4-6波については、その後に出版されたブライアン・ペリ−「景気の長波と政治行動」 亞紀書房、市川泰治郎「世界景気の長期波動」 亞紀書房、などを参考にして、私見を交えて作成した。

●イギリスの世紀と金本位制
 図表-1に示すように、18世紀末から20世紀初頭における世界一の経済大国は、全世界に植民地と自治領を持ち、文字通り太陽の沈むことのない大帝国を形成したイギリスであった。
 そのイギリスは、18世紀に紡織機が発明されて、紡績工業を中心にした産業革命が行なわれて以来、18-19世紀にかけて、軽工業から重工業に及ぶ資本主義的経済発展において世界の先頭を走ってきた。そして19世紀には、都市交通、産業発展をベースにして金融産業が勃興し、首都ロンドンは商業、金融の資本取引における世界の中心地になった

 国際的な商取引において、イギリスでは既に1663年からギニー「金貨」が国際通貨として利用されており、さらに1717年のアイザック・ニュートンの貨幣改革により、ギニー金貨が1ポンドとして鋳造され、制度的に21シリングと定められた。そしてそれが「金本位制」の起源になったといわれる。
 1816年には1ポンドのソブリン金貨が発行され、19世紀初頭のイギリスにおいて金本位制は確立した。つまり19-20世紀にかけてイギリスが経済的に世界の中心になったその背景には、イギリスを中心とする金本位制の世界があった。

 「金本位制」とは、「金の価格が確定し、その確定価格の下に金より貨幣へ、貨幣より金への転換が自由に行なわれる制度」(田中金司「金本位制の回顧と展望」4頁)と定義されている。それは各国の中央銀行の発行する貨幣が、それと等価の金の裏付けを持つ制度である。そして「金本位制」は19世紀を通じて世界の各国で採用されるようになり、国際通貨制度として確立した

 19世紀における金本位制の国別の採用状況を見ると、1816年 イギリス、1854年 ポルトガル、1871年 ドイツ、1874年 オランダ、1878年 イタリア、1878年 フランス、1878年 ベルキー、1881年 アルゼンチン、1885年 エジプト、1892年 オーストリア、1892年 ハンガリー、1897年 ロシア、1899年 インド、1900年 アメリカという順序で導入されており、日本も日清戦争で得た賠償金を準備金にして1897年に金本位制に加わった。

 このようにして国際金本位制は、1870年に確立したといわれる。金本位制下の世界では、1815年のナポレオン戦争の終結から、100年にわたり大きな戦争のない比較的平和な時代が長く続いたとするカール・ポラニーなどの見解がある。事実、金本位制が成立した19世紀には大きな戦争はなく、平和な時代が続いていた

 戦争は、国際通貨を背景にした国際政治と経済における、主導権の争奪にかかわるものである。そのため実際には、国際金本位制が確立した翌1871年に金本位制を導入したドイツは、イギリスを中心にする国際経済体制に対立するドイツ中心の体制を形成し始めていた。つまり金本位制下の19世紀に生まれた国際対立が、第1次世界大戦を生み出す原因になったことを考えると、必ずしも金本位制それ自体が世界戦争の抑止力となるとはいえないであろう

●第1次世界大戦による金本位制の崩壊と再建
 20世紀の初頭には、世界一の大国イギリスに対抗する急進勢力として、新興のドイツ帝国が登場してきた。そしてイギリスとドイツは、20世紀の始めに人類史上はじめて世界的規模で激突した「第1次世界大戦」(1914.6-1918.11)を戦うことになる。

 ドイツは、19世紀の中葉までは小さな領邦の集まりに過ぎない小国であった。それが19世紀末から20世紀の初頭にかけて、政治、経済において爆発的な発展を遂げることにより、一挙に世界史上に登場してきた。それは1871年にプロイゼン王ウィルヘルム1世が初代ドイツ皇帝になり、宰相ビスマルクの下でドイツ資本主義が急速な発展を遂げたことに始まる。

 1880年、帝国主義段階を迎えたドイツは、オーストリア=ハンガリー、イタリアと「三国同盟」を締結(1882.5)し、これに対してイギリス、フランス、ロシアは「三国協商」(1904.4、1907.8)と呼ばれる経済ブロックを形成した。そしてその間に、植民地獲得をめぐって通商、軍事などにおける厳しい対立関係が作りだされた。

 1914年6月、オーストリア=ハンガリーの皇太子夫妻が、バルカン半島のサラエボでセルビアの青年に射殺される事件が起こった。この事件が、バルカン半島における汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の民族的対立、さらに三国同盟と三国協商の2大帝国主義陣営における覇権の獲得と重なり、日本やアメリカまで巻き込み、連合国28カ国と同盟国4カ国が2大陣営に分かれて戦う、史上最初の世界戦争に発展した。これが第1次世界大戦である。

 1918年に4年にわたる第1次世界大戦は終了した。この世界戦争により、直接戦場と化したヨーロッパは荒廃し、そのため世界経済の体制と国々の状況は一変した。
 まずイギリスとフランスは、大戦により非常に大きな被害を受けたものの、戦後も国際連盟を中心に活躍していたが、オーストリア=ハンガリーは消滅し、そこから多数の民族国家が成立した。また大国ロシアは1917年の革命により、資本主義国から離れて社会主義国に変貌した。
 
 戦争により甚大な被害を受けたヨーロッパ諸国は、ドイツからの賠償金がとれなければ、自力で経済再建も出来ない状況になっていた。その一方で、戦争の被害を全く受けず、世界大戦のメリットを最大限に享受したアメリカは、1914年には36億ドルの債務国であった状況から一転して債権国となり、同様に明治の末期には殆ど国家的破産状態にあった日本も、欧米列強に並ぶ大国の位置を回復した。

 第1次世界大戦によりヨーロッパの国々は荒廃して、世界の富はアメリカに集中した。そして多くの国々は、大戦中に金本位制を停止したまま、1920年代になっても金本位制に復帰することが出来ない状況になっていた。
 唯一、世界中の富が集中したアメリカは、はやばやと1919年6月に金本制に復帰し、敗戦国ドイツも1924年8月に金為替本位制に基づく新貨幣制度を樹立した。

 しかし戦勝国のイギリスはドイツより遅れ、アメリカの支援を得てようやく1925年5月になり金本位制に復帰できた。その時のポンド平価は、戦前と同じ、4.8665ドルと定められ、辛うじて体面を保った。多くの国々が金本位制に復帰したのは、ようやく1928年末になってからである。日本が復帰したのはさらに遅れて、1929年2月のことであった。

●1929年大恐慌と金本位制の崩壊
 第1次世界大戦に参加しながらなんらの戦禍を蒙らず、大戦中の物資を供給し続けたアメリカには、戦争を通じて世界中の富が集中した。そして世界中の貨幣用金の半分に当たる45億ドルを、アメリカが保有するという状況になっていた。(西川純子・松井和夫「アメリカ金融史」有斐閣、149頁)

 この状況を受けて、アメリカは、かつてない繁栄の1920年代を迎えていた。1918年11月11日の第1次世界大戦終結の日から、1929年11月13日の「大恐慌」にいたる10年のアメリカ繁栄の状況は、F.L.アレンの著書「オンリー・イエスタデイ −1920年代・アメリカ」 研究社刊 に活写されている。この時代、アメリカは世界で最も豊かに繁栄し、そこでは誰もが金持ちになったような気持ちになっていた。

 そこを1929年9月3日の株価の大暴落に始まる「大恐慌」が襲った。そしてこの大恐慌により、アメリカは一挙に奈落の底に転落することになった。
 そこでは1920年5月の戦後景気の絶頂期から12ヶ月後までに、アメリカの卸売物価は42%も下落した。また、ダウ・ジョーンズ工業株平均は、4月から12月までの間に32%も下がった。
 鉄鋼生産は1920年に4200万トンであったのが、21年には2000万トンに落ちた。企業の倒産は2倍になり、不良債務は記録的水準にまで増加し、輸出も記録的な不振になった。(ロバート・ベックマン「経済が崩壊する時」日本実業出版社、201頁)

 このアメリカで発生した「大恐慌」は、たちまち全世界へ波及し、金本位制による再建を図っていた国際通貨体制に深刻な影響を与えた。1928年12月-1931年5月の間の諸国の金保有高の変化を見ると、フランス、アメリカ、ベルギーにおいて16億4200万ドルの増加を見せたのに対して、アルゼンチン、ブラジル、オーストラリア、日本、ドイツの5カ国では、7億4300万ドル減少した。
 そして、このうち最大の金喪失国であるアルゼンチン、ブラジルは1929年末前に、またオーストラリアは1930年の初めに、金本位制を放棄せざるをえなくなった。

 このような中で1931年5月、突然、オーストリアの大銀行の1つであるクレディット・アンシュタルトが破綻した。そしてこれによる金融不安は、直ちにドイツに波及した。
 6月には、ドイツの賠償金の債務を1ヵ年猶予するというフーバー・モラトリアムが提案されたにも拘らず、7月にベルリンの金融市場は恐慌状態に陥った。
 これにより3大銀行の1つであるダルムステック・ウント・ナチオナル・バンクが支払いを停止し、ついでドイツの全銀行の一時的な支払い停止に発展した。
 これによる7月中のドイツの金喪失は、10億マルク(=2億3800万ドル)にのぼったといわれる。(田中「前掲書」175頁)

 ドイツの金融恐慌は、ベルリンからロンドンに移った。ドイツで焦げ付いたイギリスの債権は7千万ポンドに及び、巨額の外国短期資本を擁するロンドンには金取り付けの要求が殺到し、7月後半の3週間でイングランド銀行が失った金は、3千万ポンドに上った。
 イングランド銀行は5千万ポンドのクレジット設定を受けて、事態を緩和しようとしたが、市場の動揺はおさまらなかった。そこで英国大蔵省の名をもって、ニューヨーク、パリの市場で8千万ポンドの設定を受けてポンド貨の擁護に当たったが、金の流出は止まらず、イギリスは遂に1931年9月、金本位制を停止する声明を出した

 イギリスの金本位制停止は諸国に大きな衝撃を与え、カナダ、インドおよび殆どすべての英植民地、エジプト、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ポルトガル、日本など、多数の国が、1931年末までに金本位制からの離脱を断行した。
 この間、ドイツ、東欧の数ケ国が名目的に金本位制の維持を装っていたものの、1932年には残りの数カ国も金本位制から離脱し、残るアメリカも1933年3月の銀行恐慌の勃発により、4月に金本位制を停止した

 1934年にアメリカは平価切下げにより制限つきで金本位制に復帰したが、そのほかで金本位制とどまっている国は、フランスを盟主とする金ブロック諸国(フランス、ベルギー、オランダ、イタリア、ポーランド、スイス)のみとなった。(田中「前掲書」177頁)

●金本位制崩壊後の複本位制 ―大恐慌下における経済ブロックの形成
 イギリスが1931年に金本位制から離脱した後、英帝国内の多くの国が通貨の切下げを行ない、自己の通貨をポンドにリンクさせた。そして1932年夏のオタワ会議では、帝国特恵関税制度が作り出されて、イギリスを中心とする一大経済ブロックが形成された

 大戦以前の金本位制に基づく世界的な統一市場は、29年の大恐慌からの脱却を目指す足掻きの中で、利害関係を一にする複数の経済ブロックに分割された。そしてブロック内部では特恵関税制度が作られることにより、自分たちだけ大恐慌からの抜け出すことを目指す独善的な経済政策が現れ始めた。

 経済ブロック形成の特徴は、ブロックの中軸国家の通貨とリンクすることと、特恵関税制度による政治的金融的結合を加味した金融政策にあったことは、周知のことである。
 このブロック形成は、かなりの効果を発揮した。これによりイギリスの世界貿易における地位は、再び首位に上がり、イギリスと域内諸国の連携やブロック全体の世界貿易に占める比率は、かなり増大した。
 そのため多くの国々が、経済ブロック圏を形成し始めた。その主要な経済ブロックを次に挙げる。

 ▲ドル・ブロック(アメリカ)
 まずアメリカでは、大恐慌の過程で産業・金融部門が深刻な危機に陥った。その結果は、1933年3月以降の銀行恐慌に発展し、3月6日にルーズベルト大統領は全国の銀行休業令を出し、1933年4月にアメリカは金本位制を停止した。
 アメリカは、この1930年代経済危機の中で、自国の国内事情のみに目をむけ、国際金融や国際通商におけるリーダーシップをとろうとしなかった。
 
 アメリカの場合、この段階で国際的には「モンロー主義」的政策を採っており、ラテン・アメリカ諸国を対象にしたパン・アメリカニズムの政策は、ニューディール政策の一環として採られ、て1934年に互恵通商条約法が成立した。
 この法律により、ラテン・アメリカに限定したわけではないが、互恵条約の締結に加えて地理的関係、政治的結合、海外投資とドル通貨とのリンクによる金融的結合を利用した、緩いパン・アメリカ・ブロックが形成された

 このアメリカの経済ブロック化の成果は、イギリス、ドイツほどではなかったものの、ラテン・アメリカ向けのアメリカの輸出は急激に増加した。

 ▲スターリング・ブロック(イギリス)
 イギリスは、1931年9月20日に金本位制を停止した。それまで自由貿易主義を維持してきたイギリスでは、この金本位制からの離脱により、国内的には保護関税政策による国内市場の拡大と、投資の活発化を狙う政策がとられた。

 これらの保護関税政策が、1932年2月の輸入関税法により「恒久的体制」として確立した。これらの政策により自由貿易の国イギリスは、「驚くほどの論議や反対もなしに明確に保護主義国になった」(原田聖二「両大戦期におけるイギリス帝国の変貌」)。

 そして1932年夏のオタワ帝国会議において「英連邦内特恵関税制度」が作り出され、これにより世界で最初のイギリスを中心にした「スターリング・ブロック」という一大経済ブロックが形成された
 このブロック化は、英帝国内の国々の利益保護を目的にしたものであったが、同時に他の工業諸国との関係を絶って、イギリス産業の国内および域内市場の確保をねらった保護主義的なものであった。

 英帝国内の諸国をはじめとする多くの国が通貨切り下げを行い、自国の通貨をポンドにリンクさせた。このイギリスのブロック形成はかなりの効果を上げ、そのためイギリスの世界貿易の地位は、再び世界の首位に上がった

 ▲マルク・ブロック(ドイツ)
 ドイツは、帝国主義の復活が著しく強化された段階で世界大恐慌に襲われた。
 新生ドイツの国際的地位は、ヴェルサイユ体制の抑圧下ではまだ弱く、そのため国内ではこのヴェルサイユ体制やワイマール体制を打倒しようという動きが出てきており、いたるところでその権力の限界に突き当たっていた。その意味からドイツにおけるファシズムの登場は、ドイツの経済危機の中で、既成の支配層がぎりぎりの選択を迫られた結果として採用した、予防的な反革命であったといえる。

 1930年はじめ、恐慌の進展によるナチスと共産党の進出が、ドイツからアメリカ資本の引き上げを促進し、恐慌はさらに深刻化した。関税障壁によりドイツの輸出は縮小し、そのための生産制限により、失業者は一挙に増加した。そのような中で、31年5月、オーストリアのクレディット・アンシュタルトが破産し、7月にはダナート銀行が支払いを停止した。

 1932年7月のローザンヌ会議では、ドイツからの賠償の取立てが不可能であることを認め、賠償の実質的な帳消しを決めた。その一方で、1923年のミュンヘン一揆の失敗以来、勢力が激減していたナチスは、1929年から勢力を回復し、30年9月の選挙では、ナチ党の得票数は、1928年の81万票から一挙に640万票へと大躍進した

 30年秋には、大恐慌の影響により勤労大衆の生活は破壊され、失業者は激増していた。このような社会不安の中でドイツ共産党の支持も増えて、「反ファシズム行動」も広がりを見せていた。この中、32年に反ナチス労働者統一戦線の結成が失敗に終わったことから、翌1933年1月、ヒットラーが政権をとった

 ヴェルサイユ条約による再軍備の制限をはねのけて、強力な軍事国家を再建するという点において、ナチス、国防軍とその他反動勢力の目標は一致していた。
 ドイツは1933年10月23日、軍備平等権の主張が認められないという理由で国際連盟を脱退し、35年1月住民投票によりザールを併合、3月16日、徴兵制復活を宣言してヴェルサイユ条約の破棄に乗り出した。

 恐慌によって生じた600万人以上の失業者は、その後、恐慌からの回復と再軍備経済に吸収されて、1936年には完全雇用に近い状態になった。同年3月7日早朝、ドイツ軍は非武装地帯ラインラントに進駐し、それ以降、スペイン内乱等、次々に領土的紛争にのめりこんでいった。

 ナチス・ドイツは、1934年9月、清算協定方式によるブロック形成を積極化した。外貨不足に悩み、植民地を持たず貿易依存度の高いこの国は、かなり過激な方法を取らざるをえなかった。その政策は、主として東南ヨーロッパと南米にむけられていたが、自国の輸出能力以上に輸入しないとする、極端な双務主義的性格をもっていた。

 ▲その他の経済ブロック
 そのほかにはフランスを中核とした金ブロック、日本を中心とする「大東亜共栄圏」の円ブロック、オランダを中心にした経済ブロックが形成された。

 国際的金本位制のもとで世界的に作られた統一市場は、大恐慌以後に利害関係を異にする複数の経済ブロックに細分化された。そして、そのブロック化の1つの極に「持てる国」としてのイギリス、アメリカと、いま1つの極に「持たざる国」としてのドイツ、イタリア、日本という大きな国家間の対立に収束した。そしてこの対立が、次の第2次世界大戦を生み出すことになったといえる。






 
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