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(2)アメリカの世紀の盛衰

●ブレトン・ウッズ体制 ―「金本位のドル」に対する調整可能な固定相場制
 1931年の金本位制の崩壊とそれに続く変動相場制への移行は、国際的な金融環境を一変させた。そこでは各国の為替切り下げ競争が激化し、1国の為替切下げが、他の国の報復的な為替切り下げを誘発した。その中で各国の為替管理は強化され、多角的な貿易は差別的な2国間貿易協定に取って代わるようになった。

 その結果、1936年に米、英、仏3国は、国際経済の混乱の原因となる変動相場に背を向けて、為替レートを固定する政策をとるようになった。それが1944年のブレトン・ウッズ協定となり、さらに第2次世界大戦後の国際金融体制を規定する国際協定となった
 ブレトン・ウッズ協定 (Bretton Woods Agreements)とは、 第2次大戦末期の1944年7月に、アメリカ ニューハンプシャー州北部の行楽地のブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)において締結され、1945年に発効した国際金融機構に関する協定である。

 そこでは国際通貨基金(International Monetary Fund: IMF),国際復興開発銀行(世界銀行:International Bank for Reconstruction and Development: IBRD)、国際貿易機構(International Organization for Trade: IOT)の3機構が設立され、ドル中心の固定相場制によるIMF協定が結ばれた

 IMF協定とは、為替相場についてIMF加盟国が自国通貨の価値を、金または1944年7月1日現在の米ドルにリンクして(第4条第1項(a))、直物為替相場を平価の上下1%以内に維持する(第4条第3項(i))。 そしてその加盟国は、国際収支の基礎的不均衡(fundamental disequilibria)を是正するとき以外は、平価の変更はできない。また平価の変更は、IMFの承認を得なければならない(第4条第5項(a),(b))とするものであった。

 IMF協定は、古典的な金本位制の安定性と、自由変動相場制の柔軟性を組み合わせたものであり、"adjustable peg system"(調整可能な固定相場制)として知られるものである。
 ちなみに日本は、1952年8月にIMFに加盟した。一方、円・ドルの為替レートは、いろいろな経過をへて、IMF加盟より早く1949年4月に、1ドル360円の固定レートが決まった。この360円/ドルの単一為替レートは、その後20年以上にわたって固定され、特に後期には為替レートの円安感が強くなったことから、日本の経済成長に大きく貢献したことは周知のことである。

 第2次世界大戦の直後から1950年代前半にかけて、世界経済におけるアメリカ経済の優位性は圧倒的であった。そのため各国の平価は軒並み下降圧力を受けて、平価の切り下げが不可避となり、1949年にはイギリスを始め13ケ国が、平価の切下げに踏み切っている。
 ところが1950年代後半期に入ると、西ヨーロッパ諸国の経済は順調な復興を遂げて、国際収支が黒字に転じて外貨準備の蓄積が進んだ。

 これに対して、アメリカは朝鮮戦争(1950-)、ベトナム戦争(1954-)、キューバ侵攻(1961-)をはじめとする戦争を継続し続けた。そのため1950年代以降は、これらの戦費の増大とともに、アメリカの国際経済における資本収支の赤字は増大し、急激にその経済状況が悪化して、ドル不安が台頭してきた

●60年代のドル不安と国際金融協力(IMF)体制
 1950年代に入り、アメリカの対外債務残高は急増し、アメリカの公的金保有高は1949年をピークに減少に転じ、1960年には前者が後者を上廻った。このような状況の中で、1960年10月、ゴールド・ラッシュが起こり、ロンドンの自由金市場における金価格は、1オンス当たり40ドルを記録した。
 アメリカ政府は、公的機関に対して1オンス当たり35ドルでの金兌換を保証しており、これが40ドルを記録したことは、ドルに対する国際的不信の証明にほかならなかった。

 アメリカ政府は、イングランド銀行を通じてロンドン市場で大量な金を売却した。それによりゴールド・ラッシュは沈静化したものの、この出来事はアメリカ政府に大きな衝撃を与え、国際収支の改善策が次々に打ち出されることになった。

 1961年にアメリカ大統領に就任したケネデイは、2月6日付けで議会へ送ったメッセージの中で、金1オンス・35ドルの価格維持を確認するとともに、後年「ドル防衛策」と呼ばれるようになる輸出促進、米国輸出入銀行の活用をはじめとする具体策を例示した。
 ドル防衛はアメリカ自身の問題であるが、戦後復興にあたり多額のドル資金をヨーロッパ諸国や日本が保有しており、これらの国々による国際協力なしにそれは達成できないものであった。その意味で、第2次世界大戦後の新しい国際経済の関係は、1960年代から始まったといえる

 1961年以後、新しい国際金融協力関係がいろいろ行なわれた。たとえば、(1)各国の中央銀行間の協力、(2)アメリカ政府発行の特別国債の購入、(3)市場介入資金の確保のためのスワップ協定、(4)アメリカとヨーロッパ8カ国による金プール協定、などがそれである。
 またIMFも相次ぐ通貨危機に対応し、(1)1961年2月以降、ドルに集中していた融資通貨をヨーロッパの主要通貨に分散してIMF協定の運営の弾力化を行う、(2)IMFが先進10カ国との間で60億ドルの「一般借入協定」を締結して、資金調達力を強化し、またドル不安を解消するためIMF特別引出権(Special Drawing Right: SDR)を考案するなど、いろいろな試みが行なわれた。(田中五郎「国際通貨制度の改革」日本評論社、15-20頁)

 それにも拘らず、60年代を通じてドル不安による国際通貨の変動が続いた。1968年3月には、金の2重価格制の導入によりひとまずゴールド・ラッシュは沈静化したものの、主要通貨の平価変更を予想した投機が続き、国際通貨情勢は依然として不安定であった。
 71年5月には、西ドイツ経済相の発言を契機にしてマルクとスイス・フランの買い投機が発生し、両国は外国為替市場を閉鎖した。そのため5月10日には、マルクとオランダ・ギルダーが変動相場制に移行し、スイス・フランとオーストラリア・シリングは平価を切り上げた。

 この年、世界中でドル売り投機が激化していた。そのような状況の中で、1971年8月15日、アメリカのニクソン大統領は、突然、金とドルの交換を停止する新経済政策を発表した。これによって世界経済における金本位制の時代は終わりを告げ、今に続く変動相場制の時代が始まった。このニクソンの新政策は世界中に衝撃を与えて、「ニクソン・ショック」と呼ばれた。

●ニクソン・ショックとスミソニアン協定 ―変動相場制への移行
 1971年8月15日、アメリカのニクソン大統領は、「平和のための挑戦」と題する講演を行った。そこで取り上げられた新経済政策の項目は次のようなものであった。
 (1) 外国公的当局保有の米ドルと金またはその他の準備資産との交換性の一時停止
 (2) 10%の輸入課徴金の賦課
 (3) 総額62億ドルの減税の実施
 (4) 物価・賃金の90日間の凍結
 (5) 72年度歳出の46億ドル削減

 ニクソン政権による大幅な財政拡大政策は、ドルの対外価値を根底からあやうくしていた。国家予算は69年の30億ドルの黒字から、70年に100億ドルの赤字、71年には230億ドルの赤字に転化していた。この間、政府はいかなる所得政策も導入しなかったことから、物価と賃金の悪循環は一層加速され、アメリカの国際競争力は低下を続けた。
  
 ニクソン政権は、ドルの弱体化を無視したため、海外の金融界のみならず、国内の新聞からも政府は国際金融上の責任を、「ビナイン・ネグレクト」していると非難されるようになった。そのため71年のはじめから、世界の市場はドル危機の到来に気がつき始めた
 そのためアメリカとヨーロッパの金利差は拡大し、ニューヨークからヨーロッパへの短期資金移動は加速し、ヨーロッパ通貨は殆ど変動幅の上限に張り付いた。
 71年春には投機の猛攻が集中したため、ニューヨーク連銀は政府にドル崩壊の危機が迫っている事を警告した。(チャールズ・A・クームズ「国際通貨外交の内幕」日本経済新聞社、233-246頁)

 上掲書ではキャンプ・デービットにおいてニクソン大統領とバーンズ連銀議長、コナリー財務長官の間で交わされた非常に興味ある会話を収録した、ウィリアム・サファイヤーの著書「崩壊の前」1975の一部を紹介している。
 この金本位制が崩壊したあとの新しい国際通貨秩序に関する話し合いは、1971年12月、ワシントンDCのスミソニアン博物館において、主要10カ国の蔵相と中央銀行総裁が集まって協議され、「スミソニアン合意」がなされた。その内容は、次のようなものである。

1. ドルと金の固定交換レートを金1オンス35ドルから38ドルに引き上げる。
2. ドルと各国通貨との交換レートを改定する。これにより日本円は、1ドル=360円から308円に切り上げる。
3. 為替変動幅を平価の上下1%から2.25%へ拡大する。
4. アメリカの輸入課徴金を即時撤廃する。

しかしこのスミソニアン合意も僅か2年しか持たなかった。すでにイギリスは72年6月に変動相場制に移行して協定から脱落していた。また73年1月にはイタリアが資本取引に変動相場制を導入、スイスにも投機資金が流入して変動相場制へ移行、2月にはドルが投機の対象となり売りが殺到したため、金・SDRに対してドルを10%切り下げ、これを見た日本とイタリアは直ちに変動相場制に移行し、3月には西ヨーロッパ6カ国が共同変動相場制へ移行した。
 さらに73年10月に勃発した第4次中東戦争とそれに続く石油危機により、44年に発足したIMFの固定相場制は事実上完全に崩壊して、スミソニアン協定も挫折した。

●レーガノミックスの登場と双子の赤字
 1981年1月、ロナルド・レーガンが、「大恐慌以来、最悪の経済的混乱の中」(2月8日のTV演説におけるレーガンの言葉)で、ジミー・カーターに代わってアメリカ大統領に就任した。

 その前の大統領カーターが大統領に就任した1977年当時、既にアメリカ経済は深刻な不況から急速に回復しつつあった。失業率は低下傾向にあり、インフレ率も既に1974年の2桁の水準から、大幅に低下していた。このような状況にもかかわらず、カーター政権はなお拡張的財政政策を推進した。カーター大統領は、失業問題を最優先に考え、公共事業による雇用の増大を図った。しかし失業対策としての公共事業は、それほどの効果を上げず、年率18%ものインフレが進行し始めた。

 つまりレーガン大統領が登場するまで経済政策には、ほとんど方向性やビジョンがなく、場当たり的であった。これに対して、レーガンは「レーガノミックス」と呼ばれる明確な経済政策を打ち出した。そのレーガノミックスは、1981-84年,1985-86年の2段階で行われた。

 レーガンの最初の政策は、次の4項目を柱としていた。
 (1) 連邦支出の伸び率を抑えるための予算改革と防衛費の増額
 (2) 個人所得税率の引き下げと税制改革
 (3) FRBの協力により新しい金融政策に取組み、安定した通貨と健全な金融市場を回復
 (4) 広範囲な政府規制緩和の実現

 ▲レーガノミックスの第1段階
 レーガノミックスは、「サプライ・サイドの経済学」というウォールストリート・ジャーナルの論説委員などによる、非主流派の理論を基礎に作られていた。その内容は、小さな政府を目指して支出を削減するとしながらも、その一方では軍備を拡張して強いアメリカを実現するとか、減税により税率を下げることにより、税収を上げて財政赤字を縮小するという、摩訶不思議な経済理論である。そのため南米の不思議な呪術の名をとり、「ブードゥー経済学」とも呼ばれていた。

 上記の4本柱のレーガノミックス自体が、本来、矛盾に満ちており、実際の政策の実施過程で議員、官僚などの抵抗により、後退を余儀なくされていった。その間の詳細なレポートは、レーガン政権の行政管理予算局(OMB)局長であったD.A.ストックマンによる「レーガノミックスの崩壊」、(サンケイ出版、昭62.)に詳しい。

 たとえば減税においては、税率を下げると税収が上がるというサプライ・サイドでは有名な「ラッファー理論」に従って、従来は累進課税により最高70%であった所得税率を28%に下げた。しかし減少する筈の連邦財政の赤字は逆に急激に増加し、対GNP比で1981年に3%をきっていた財政赤字額は、83年には6%を超えてしまった。

 最高税率が引き下げられて高額所得者の消費が増加したため、世紀末のアメリカに「金ぴか時代」(新藤栄一「アメリカ 黄昏の帝国」、岩波新書)といわれる好景気がやってきた。事実、レーガノミックス下のアメリカでは、民間消費支出の伸びは、1983-88年に4%に上がり、1970-1980年代初頭に1.11%であった伸び率の4倍になり、G7の国々の中での最高位となった。

 レーガノミックス初期段階の経済諸指標を、図表-2に挙げる。

図表-2 レーガノミックス時代の経済指標
実質経済成長率 消費者物価指数 失業率 資本形成増加率
1980年
-0.3%
13.5%
7.1%
-7.9%
81年
2.5%
10.2%
7.6%
 
82年
-2.1%
6.0%
9.7%
-9.6%
83年
3.7%
3.0%
9.6%
8.2%
84年
6.8%
4.3%
7.6%
16.8%
(出典)「アメリカ経済白書」など。

 上表を見ると、レーガノミックスによる減税や規制緩和は、ストックマンの言うようにうまく行かなかったが、減税や規制緩和による心理的ムードが民間消費の伸びに大きな影響をあたえ、それが成長率や資本形成に大きく寄与した状況が分かる。

 ▲レーガノミックスの第2段階
 第2段階のレーガノミックス(1985-86)は、第1段階の政策による政治経済の情勢変化を踏まえたものになった。その情勢変化とは、インフレ率の急落、財政赤字の急増、強いアメリカ=ドル高による巨額の貿易赤字などの「双子の赤字」の登場である。

 レーガノミックスの結果、税率の引き下げは税収の増加には結びつかず、財政支出の削減は議会や官僚の抵抗によりほとんど進まなかった。そのため好況の反面で、財政赤字は驚異的な増加を示した。アメリカの財政赤字の状況を図表-3に挙げる。

図表-3 アメリカの財政赤字
年次 政権 赤字額 累積赤字額(期末)
1977-80 カーター
2,269億ドル
9,085億ドル
1981-88 レーガン
13,387億ドル
26,008億ドル
1989-92 ブッシュ
10,079億ドル
40,788億ドル
(出典)"Economic Report of the President"から作成。

 上表を見ると、アメリカの財政赤字は、レーガンの時代に非常に拡大し、ブッシュの時代には湾岸戦争により、さらに大幅に拡大したことが分かる

 レーガンの大胆な減税による財政赤字政策は、民間貯蓄率を低下させるとともに、ドル高、高金利の金融政策ともあいまって、貿易・経常収支が急速に悪化した。アメリカの貿易収支が悪化する過程で、日本は大幅に貿易黒字を伸ばし、80年代の後半は日米の経済・金融摩擦が激化していった。

 レーガン政権によるドル高の経済政策は、アメリカの貿易・経常収支に巨額の赤字を作り出していった。もしドルが国際取引における機軸通貨でなかったら、レーガンによる強いアメリカの経済政策にもかかわらず、80年代の前半に大幅なドル安が起こったであろう。
 このレーガンのドル高政策のおかげで、日本の貿易黒字は着実に増え続け、1985年には、日本が世界一の債権国になり、アメリカは世界一の債務国になるという信じられない逆転現象が作り出された。






 
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