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(3)ロシア金融危機の発生

 市場経済への移行後、長らくマイナス成長を続けていたロシア経済は、97年に入り、生産の下げとまりの兆候が見られ、インフレも急速に収束し、7月にはG7,IMFによる対ロ追加金融支援が合意されて、マクロ経済にようやく明るさが見られるようになった。
   
 民営化は1997年4月から「個別民営化」とよぶ第3段階に入り、投資銀行連合など大銀行による支配が更に進行し、民営化への外資の参入は規制されていたが、97年頃からはそれも緩和された。

 そのため国内外の資金は有利な国債市場に集中し、資金が産業部門にまわらなかったが、ルーブル相場が高めに維持されたため、安価な外国製品が流入しロシア企業に更に打撃を与えた。97年のロシア経済は、体制崩壊後初めてGDPのプラス成長0.9%を記録。表面上は良好に見え、物価も安定。高利の短期国債により財政赤字をファイナンスさせる、脆弱な構造の上での虚構の成長が行われた。
 
 1997年夏頃から、それまで高度成長を続けてきたアジアの経済市場にむけて流入を続けていた外貨、特に短期の民間資金が、突然アジアから撤退し始めた。それは5月のある日、タイから逃げ始め、タイ通貨のバーツが急落した
 そしてその資金の逃亡は、瞬く間にアジア全域に広がり、翌年にかけてアメリカ、日本、ヨーロッパを巻き込み、世界恐慌寸前までいった。いわゆる「アジア通貨危機」である。

 10月23日には、香港の株式市場が史上最大の下げ幅を記録し、ロシアのユーロ、ポンド相場が急落した。GKO/OFZ市場の利回りは上昇し、ロシアの証券投資が逃避を始めた。
 11月に入ると、通貨危機は韓国に飛び火した。韓国の流動性危機は既に春頃から始まっていたが、韓国企業が大量に保有していたGKOといわれるロシアの短期国債の売却がきっかけになり、続いてロシアからの資本流出が始まった。

 ロシアは、98年1月に従来の1000ルーブルを1ルーブルにするデノミを実施したが、短期国債の利払いが大幅に膨らみ、国家財政はこの段階で完全に破綻した。既に97年のアジア通貨危機以来、外国投資家のロシアからの撤退が進み、ロシア国債の買手がつかず、発行額が激減。98年第2四半期には発行額が償還額を下回る状態になり、ルーブルは更に下落した

 ロシアでは、98年に入り企業破産の件数が増大し、3月に新破産法が施行された。そして8月17日にロシア通貨・金融危機は表面化した。
 ルーブル・レートは急落し、短期国債の事実上のデフォルトが生じた。そのためロシア政府・中央銀行は、次のような緊急金融対策を発表し、ロシアの国家破産が明らかになった
 (1) ルーブルの対ドル目標相場圏(コリドール:1ドル=6-9.5ルーブルへ拡大)の切り下げ、
 (2) 民間対外債務支払いの90日間凍結、
 (3) 非居住者による投機目的によるルーブル建て債券投資の一時制限、
 (4) 99年末までに償還期限を迎える短期国債の新規国債への切り替え、

 この金融緊急措置がロシア政府の国際的信用を失墜させ、沈静化していたインフレを再燃させた。
         
 8月26日に、ロシア・ルーブルは取引停止となり、ロシアの金融危機は頂点を迎えた。
 このロシア危機の影響を受けて、ロシア・ビジネスに積極的であった米国銀行株も急落した。8月31日には、このロシアの金融混乱を嫌気して、ニューヨーク・ダウは512ドル下落し、それが更に世界の株式市場に連鎖し、世界同時株安のスパイラル現象が出てきた。

 この段階で、ロシア中央銀行は目標相場圏の放棄を正式に宣言し、変動相場制に移行したが、98年中にルーブルの価値は3分の1に下落。国家のモラトリアムと銀行のデフォルトは、国際金融市場に大きなショックを与えた。
 ロシア金融危機は、世界のマネーフローの中心である米国市場に大きな影響を与えた。

 このロシア金融危機の影響を受けて、8月にノーベル賞学者が参加した「夢のヘッジファンド」といわれたアメリカのヘッジファンドのLTCMが、48億ドルといわれる運用資産額の40%を失い破綻するという、衝撃的な事件を起こした。
 しかしLTCMの破綻が齎す影響を重く見たアメリカ政府が、これを救済するというFRBの機動的な金融政策により、世界的な金融危機が回避された

●ロシア8月危機からの脱出とプーチン政権の誕生
 8月危機によるルーブル為替レートの下落により、ロシア経済の交易条件が改善され、中・長期的には国内産業にプラスに働いた。
 99年12月31日、エリツィン大統領は辞任し、プーチンが大統領代行に指名された。99年から00年にかけてロシア経済は好転し、プーチン政権下のロシア経済のGDP成長率は8.3%を達成し、インフレも年20%とひとまず安定した。住民の所得も10%の伸びを示し。失業率も9.8%と改善した。

 2010年まではGDP成長率5%(政府基本プログラム)を維持することが計画されており、この高成長を支えるのはロシアが保有する石油・エネルギー産業である。
 経済改革の成果が今になって現れており、国家財政、貿易収支など、共に黒字になり、巨額の赤字に悩む先進諸国とは対照的に健全化している。

 2000年5月、プーチン大統領による政権が始まった。プーチンは早くから経済改革の必要性を認識し推進しており、その成果は、これまでに作成された経済計画に現れている。
 プーチン大統領は、首相時代の99年12月、グレフ国有資産第一次官(当時、現経済発展貿易相)を理事長として、国内の主要なシンクタンクのメンバーを結集した「戦略策定センター」を設立。国家の長期的発展のための「2010年までの長期発展戦略」を策定し、2000年6月、閣議で基本承認された。

 この思想を一言で言えば、市場経済ルールの徹底により国内投資を活発にしようというものである。そのための一連の経済構造改革(競争条件の平等化、所有権保護、規制緩和、税制改革、金融システム改革、自然独占条件改革等)の推進が必要であるとしている。

 プーチン大統領は、エリツィン大統領下での「オリガルヒ」との関係や政治・経済の腐敗を目にしてきた。そのため彼らとは一定の距離を保って現在に至っている。
 ウラジーミル・ウラジーミロビッチ・プーチン(1952−)は、レニングラード大学法学部を卒業して、16年間KGB勤務の経験を経てきた人物である。
 2000年の大統領選挙においては、汚職にまみれたエリツィンとその家族を刑事訴追しないとする終身保障を誓約して、エリツィンの後継者として大統領に就任したといわれる。

 エリツィン政権下で不正蓄財してきた「オリガルヒ(=政商)」に対しては、当初から距離を置いてきている。政治的野心を持つ反抗的オリガルヒは明確に排除したため、国民はそれに喝采した。しかし経済の範囲で仕事をしているオリガルヒについては、そのまま許容して現在に至っている。

 2004年3月14日のロシア大統領選挙において、プーチンは71.38%という圧倒的な得票率で再選された。プーチン政権を支えるのは、彼の出身地であるサンクト・ペテルブルグを中心にした「シロビキ」と呼ばれる人々であるといわれる。
 ロシア語で"シーラ"とは、「力、武力、権力」を意味する言葉であるが、シロビキとは、この「権力を持つ人」というような意味である。

 つまりプーチン大統領と同じペテルブルグを出身地とし、プーチン政権下の特に治安機関、旧KGBなどで枢要な地位を占める要人たちが「シロビキ」である。シロビキは現在、22の連邦省庁に属しており、その中核は連邦保安局(FSB:その中心は旧KGB出身者)、警察(内務省)、軍がそれに従う。そのことから「FSBが現在のロシアをコントロールしている」といわれるほどになっている。(中沢孝之「現代ロシア政治を動かす50人」東洋書店、3頁)。

 現行のロシア憲法では、大統領の3選は禁じられている。そしてロシアの下院は04年2月18日に、大統領の任期を7年に延長する動議を否決した。したがって、現状のままでは憲法を改正しない限り、プーチン大統領の任期は08年春までである。

 一方、プーチン大統領は、05年秋に来日が予定されており、この来日により北方領土、樺太やシベリア開発に対して日本企業の積極的投資の門戸が開かれる可能性が高い。
 もしそれが現実化すれば、日露通商の経済効果は2007−8年頃までには日露両国民の前に大きな影響を齎すであろう。つまりプーチン大統領にしてみると、現在の政権の間に、好況に向いつつあるロシア経済に加えて、日本の資本の大規模導入によりロシア極東地域の経済を一挙に活性化させることは、非常に大きな魅力である。

 一方、日本にとってもエネルギー・コストの高騰が世界的に懸念されている現在、ロシアの石油・天然ガスなどの自然資源は、のどから手が出るほど魅力的な存在である。つまりこれからのロシアは、日本にとって中国以上に目の離せない国になってくる可能性が高いと思われるのである。




 
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