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(2)羅針盤のない航海―社会主義計画経済から資本主義市場経済への移行

 ソ連型計画経済は、スターリンによる強権を背景にした集権型経済システムとして作られたが、社会主義の初期段階においては、かなり大きな威力を発揮していた。
 そのため資本主義発展の遅れた農業国から出発したソ連は、20世紀の中葉にはアメリカに次ぐ世界第2位の社会主義工業国にまで発展した。

 ソ連経済が停滞期に入ったのは、社会主義における官僚制が出来上がり、「ノーメンクラツーラ」と呼ばれる特権的階級がフルシチョフによる大改革の芽をつぶし、1960年代中葉にはソ連の政治・経済機構を支配するようになり、「ブレーキ機構」が出来上がったブレジネフの時代以降のことである。

 1980年代中葉に始まったゴルバチョフによるペレストロイカは、結局、ブレジネフの「ブレーキ機構」からロシア経済を救い出すことができなかった。その失敗の原因は、旧態依然としたソ連の経済体制を温存したまま、政治改革を先行させたことにあるといわれる。
 そのため経済改革の急進化―「計画的市場経済」への移行が課題になり始めたのはようやく89年になってからのことであった

 しかしこのような計画的「市場経済」の導入は、共産党の国家権力とその利権に結びついた政治家や官僚たち(=ノーメンクラツーラ)に許容できるものではなく、結局、ゴルバチョフのペレストロイカは旧体制によるクーデターのため挫折せざるをえなかった

●エリツィン・ガイダールの急進的経済改革による混乱
 ゴルバチョフの計画的市場経済の導入に代わって登場したのは、エリツィン・ガイダール政権による急進的経済改革であった
 91年10月のIMF〔国際通貨基金〕と世界銀行の年次総会の際に開かれたG7(先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議)にヤブリンスキーを団長とするソ連代表団が招かれ、ソ連経済に対する本格的な西側による支援の話し合いがなされた。
 この時、G7側からの援助に当たって、次の4条件が出された。
 (1)ソ連がIMF等の協力を得て、包括的経済改革プログラムを策定・導入する。
 (2)対西側債務を連邦と共和国が期限どおりに返済する。
 (3)債務返済の実務的な枠組みを確定する。
 (4)経済・金融データを開示する。
 この条件に沿って、91年10月、エリツィン大統領はガイダール首相を政府の全経済活動の長に任命し、経済改革の策定に乗り出した。それによってつくられた経済改革の構想は、10月21日のエリツィン演説によると、経済改革の関連部分は、ロシア経済の安定化措置に関する提案、民営化の推進と私企業発展計画からなる。特に経済の安定化については、価格自由化、財政再建計画、税制改革、銀行制度改革などの基本方針が明らかにされた。

 90年代初頭のロシアにおいて、資本ストックの9割は国有企業である上に、ロシア市民は74年前の革命以来、ネップを除いて「市場経済」の経験は全くない。 このような状況の中へ、突然、資本主義国における経済改革の方法をそのまま持ち込めば、経済的混乱の方が大きくなることは明らかであった。しかしその試行は、そのまま強行された。

 まず価格の自由化については、12月3日の大統領令「価格自由化に関する方策」が、12月24日のロシア政府の決定により詳細が明らかにされた。これによると社会的に重要な基本的生産財と消費財を除き、すべての生産財、消費財、作業及びサービス、農産物の買い付け価格が、需給によって形成される自由〔市場〕価格・料金に移行することになった。
 
 そして、92年1月2日に、全面的な価格の自由化が行われた。その結果、生活費はたちまち3倍に高騰し、ある種の消費財、サービス料金は10倍に跳ね上がった。配給制は崩壊し、企業は原料を自由価格で購入しなければならないのに、国家に収める製品は統制価格で納入しなければならない。そのため生産高は破局的な減少を見せて、食料品、工業製品の供給が妨げられた。

 さらに、国営市場における統制価格と個人商店での自由価格の2本建ては、供給面を混乱させた。つまり資本主義経済の形式的適用による機械的な価格引き上げが、ここでの「自由化」の実態であったここからロシア経済の混乱は本格化していった。このIMFが対ソ支援の政策として行った経済改革のプログラムは、「ショック療法」と呼ばれるもので、資本主義における自由市場の原理を、相手方の経済的条件も考慮せず機械的に適用するものであった。

 そのため、この破滅的な自由化政策について、ロシアのマスコミでは、ペレストロイカをもじって「カタストロイカ」(=ペレストロイカが齎したカタスロフィーの意)という言葉まで登場した。そのため、92年1月14日に、これまでは忠実なエリツィン派として知られていたハズブラートフ最高会議議長まで、このエリツィン・ガイダールによる急進的自由化計画は、価格自由化ではなく、「無政府主義的に生じた物価騰貴」の横行であり、また国営農場(ソフホーズ)と集団農場(コルホーズ)を解体することは愚挙である、と批判したほどである。
 またルツコイ副大統領も、この「ショック療法」に反対の立場をとっており、「経済特別事態」宣言を出して、一時期「強力な国家権力」が必要であることを主張したほどである。そして国民大多数の間には、次第にエリツィンの改革路線に対して落胆と不満が広がり、旧共産党幹部、右翼民族主義の双方から反エリツィンの動きは活発化し始めた

 そのため92年6月には、IMFとロシア政府の間に亀裂が生じ、エリツィン・ガイダールの現実を無視した改革は修正を加えざるをえなくなった。エリツィン大統領も、IMFの路線通りに改革が進行しないことを明言した。さらに、ロシアの産業界、中道的な政治ブロックなども改革路線に修正を加えることを主張して、初期の「ショック療法」はわずか半年で崩壊した

 この間の財政再建計画をみると、旧ソ連の財政赤字は、90年の1089億ルーブルから91年には1500億ルーブル(GNP比約14%)に拡大しており、92年には旧ソ連諸国の赤字累積総額は1兆ルーブルを越えた。
 しかもこの歳入欠陥の90%以上をファイナンスしてきたゴスバンク(中央銀行)の信用創造は、91年に対前年比4.8倍という通貨発行高の激増を齎し、92年12月には年率300%という物価上昇の原因を作り出した。

企業民営化の第一段階―チュバイスの「バウチャー」による民営化
 90年代の初頭、ロシアの工業生産の9割は国有企業によって行なわれていた。
 したがって、ロシア経済における市場経済化は、価格の自由化だけではなく、私企業の創出、つまり広範囲でかつ大規模な企業の民営化を大きな柱とすることになった
 前述の価格自由化を担当したのはガイダールであったのに対して、この企業の民営化を担当したのはチュバイスであった。

 92年6月11日、92年度ロシア連邦における国有・公有企業の民営化プログラムが最高会議で承認されて、7月1日に国有企業の商業化に関する大統領令が公布された。
それによる民営化の対象は主として次の3つに区分された。
 (1)民営化禁止分野         ・・・資源やパイプライン、など。
 (2)政府や国家機関の決定を要する分野・・・電力、石油、通信、各種輸送機関。
     (石油や電力企業は、支配株を3年以内連邦の所有にとどめる。)
 (3)強制的に民営化すべき分野    ・・・市場の発展に必要な流通業、サービス業、農産物加工,軽工業、禁止分野ではない欠損企業、など。)

 91年末に、チュバイスは、ハーバード大学教授で企業財務と企業統治を専門にしていたアンドレイ・シュライファーを民営化の補佐役に選んだ。彼らが民営化の方法として選択したのは、「バウチャー」計画であり、ロシアは92年10月から全国民(=12歳以上)を対象にして「バウチャー法」を適用して、一挙に国有企業の民営化に乗り出した

 「バウチャー」とは、民営化のための小切手のことである。92年10月1日から、バウチャーは、地位,所得に関わりなく、12歳以上の全ロシア国民の一人一人に対して一定額(92年発行分は1人1万ルーブル)を民営化される企業の株を取得する権利書として無償で交付することが決まり、実施された。
 これはすべての国民に等しく株を購入する機会を与える「人民的(ポピュリスト)民営化」であり、レーニンの言葉をもじって、「資本主義とは、ソビエト政権プラス全国のバウチャー化である」といわれたほどである。

 つまり1992年春の段階で、ロシアの産業・商業の総額を計算し、それを経営幹部などのインサイダーの取り分を除いて、残りをロシア国民の全員で割って、一人当たりの分け前としてはじき出したのがバウチャーである。その計算は比較的単純で簡単であった。
 16,500の大企業、中小企業を株式組織に転換し、その会社における帳簿上の評価額の35%(その後、80%に拡大)をバウチャー所有者のために取り除けばよい。
 彼らは帳簿上の評価額をできるだけ低く設定した上で、バウチャーの設定価格を1枚1万ルーブルと決めた。(マーシャル・I・ゴールドマン「強奪されたロシア経済」NHK出版、157頁)

 バウチャーの価格をそれほど低く設定したのは間違いであった。ロシアは天然資源に恵まれた大国である。しかも70年の計画経済を続けてきた結果の評価が、1人あたり1万ルーブルは不当に低い価格であった。しかもそのバウチャーが、後述する扱い難さやインフレのために、さらに半額もしくは半額以下で取引されるという状況になった。

 このことは国民全部に大きな損失を与える反面で、国有財産を民営化に当たって取得できる立場の特権階級や、国民が手放すバウチャーを集めることのできる銀行や個人を一挙に大富豪にすることになった。
 つまり現実に行なわれたバウチャーによる民営化は、全国民の国有財産を全国民に均等に分配して、全国民が新しく作られる株式会社の株主になるという理想とは大きく隔たり、殆どの国民を貧乏にする半面で、エリツィン時代における国有財産の民営化を通じて、巨万の富を稼ぐ一握りの成金たちを作り出すことになった

 既に、ソ連時代に生み出されていた「ノーメンクラツーラ」という特権階級の一部が、この民営化路線のなかで「オリガルヒ」と呼ばれる更なる特権階級に転化した。
 彼らの多くはエリツィン政権とかかわりを持つ人々であり、エリツィン一家、ぺレゾフスキー、チュバイス、ポターニン、アーベンを始め現在のロシア企業の上層部を占める人々がその特権階級になった。

 バウチャーによる株の競売が始まったものの、当初は株を売り出す企業数が極度に少なく、その3割は発行後に直ちに個人間もしくは商業銀行に売却された。
 そのため1993年2月現在のバウチャーの実勢価格は、4000から5000ルーブルと額面の半分に下落した。その結果として、殆どの国民は自分たちの所有していた国有財産を安い価格で売り渡し、逆に商業銀行や一部の人々がこれらのバウチャーを集めて、国有財産を安い価格で手中に収めて一挙に「成金」になった。

 このようにバウチャーによる民営化が、期待されたような成果に結びつかない状況になる中で、ロシア政府は2月からバウチャー・オークションによる民営化計画を発表し、逆にバウチャーの利用範囲を拡大する方向に乗り出した。

●民営化の第2段階―貨幣(=株式担保)による民営化
 94年6月末をもってバウチャーの有効期限が終了した。これにともない、ロシアは「貨幣による民営化」という新しい段階へ移行した。94年の段階になると、ロシア国民には国有財産の民営化を推進する、チュバイスの経済政策の欺瞞性が明らかになってきた。
 国民は支給されたバウチャーだけでは企業の株式を購入できず、何千何万とそれをまとめなければ本格的な民営化株式の入札には参加できなかった。そのためモスクワの商品取引所には、バウチャーの取引相場が立って、国民に支給された額面1万ルーブルのバウチャーは、1500,2000ルーブルという安値で買い叩かれていった。
        
 ロシアの民営化の事業は、限られた企業、個人や新興財閥による国有財産の山分け事業となっていった。そのため国民全体が貧困化する中で、ロシアの「オリガルヒ」(=エリツィン時代の国有財産の民営化で富を築いた一部の成金たちの呼び名)のなかには、世界的財界誌の「フォーブス」において世界の長者として番付にのるほどの金持まで出現した。
 この状況の中で、国家が保有する株式等の資産は、原則的に競売や入札を通して貨幣により売却することが決まった。

 多額の財政赤字や財政・企業間に債務が存在するロシアの経済状況を考慮すると、民営化のスピードより、財政収入への貢献を重視する必要がでてきていた。しかしこの次の民営化は、オリガルヒの形成を更に組織化し、大規模化することに大きく貢献することになた。

民営化の第2段階における具体的な方法は、1.株式担保民営化、2.個別プロジェクト民営化の2つに分類される。

 1995年8月、大統領令により株式担保民営化が認められてから、大規模な民営化が進みはじめた。その方法は、金融機関が政府へ低利融資を行い、その担保として1-3年の企業株取得権を獲得し、満期後に株式を売却することである。
 売却の対象企業は大規模で戦略的な産業(石油,金属)が含まれ、民営化収入に期待が集まるようになった。

 96年8月、第2期エリツィン政権における最初の内閣改造で、外国貿易省の元官僚でロシア最強の銀行「オネクシム・バンク」の設立者となった「オリガルヒ」のウラジミール・ポターニンが第1副首相に任命され、人々を驚かせた。

 95年3月、ポターニンを代表者とする銀行コンソシアムは、政府に対して融資する条件として、旧国営企業の政府所有株式を担保にする方式を提案した。政府側でこの提案に賛成したのが副首相で国家資産委員会議長であったチュバイスであった。西側では「株式担保の融資(Loans for share)」、ロシア国内では「担保入札」と呼ばれるこの方式の表向きの理由は、政府の資金不足を補うものとされた。

 銀行側の提案には、既にこのとき、対象企業として64の企業リストが付けられていた。銀行側は、政府主導の民営化より更に容易に企業を取得できる方法を考えだしたのである。この年の8月、エリツィンは「政府所有の株式を1965年に担保に移行する措置について」という大統領令に署名した。
 これは入札形式をとることにその特徴があった。つまり政府が所有している企業の株式に対して、入札形式でより多額の融資を提案した銀行が落札し、その株式を担保にして企業への影響力を行使できるシステムであり、まさに新手の民営化であった。

 この担保入札方式はかなりの欺瞞性を持っていた。入札は95年11月から12月にかけて行なわれ、融資条件は、95年内は銀行間貸し出し金利プラス5%であり、それ以降は無利子という一見して貸し手に不利な内容になっていた。
 しかし担保に取った株式に対して、銀行は所有者と同じ権利を持つことができた。株主総会での発言権は勿論、実質的な企業支配権を持つことができた。また政府が融資の返済を実行しない場合には、貸し手は自由に担保を売却できたのである。

●1996年エリツィン大統領再選
 96年6月の大統領選挙に、エリツィンが再選されると思っていた人は少なかった。当時の大統領候補の人気調査では、支持率のトップは共産党の委員長ジュガノフであった。ジュガノフは2月5日の討議で、「ロシア共産党は社会民主的な党に変質した」とアッピールしていた。さらに、ロシアの民衆も94年初頭から急増する組織的犯罪や腐敗にうんざりしており、前の共産党支配の頃の方がまだ良かったと思いはじめていた
それに加えて、エリツィン大統領は、94年夏頃から健康状態が優れず、公式の場に出なくなり、エリツィンの大統領としての人気は既に第7位にまで落ちていた

 このエリツィンを、96年6月の選挙で大統領に当選させたのは、アナトーリー・チュバイスとIMFと金融財閥の連帯であった。そのためエリツィンは、7月にチュバイスを大統領府長官兼大統領首席補佐官の地位につけた。

 さらに、チュバイスを越えるエリツィンの後ろ盾が、アメリカとIMFであった。アメリカは、ロシアに対して第2次大戦後のマーシャル・プランのような援助は考えなかったものの、強い実行力を持つロシアの改革者を支援し、その人物を通してロシアに市場経済を導入し、民主化を進める道を推し進めていた

 またチュバイスと共に国有財産の払い下げによる民営化に深くかかわった金融財閥たち、彼らはサンクト・ペテルブルグにおいてチュバイスが、市長の経済担当顧問として働いていた関係から、「サンクト・ペテルブルグ一家」と呼ばれていた「オリガルヒ」であった。
 一方、民衆の8割は、チュバイスを国有財産を食い物にした張本人として非常に嫌っていたといわれる。(江頭寛「ロシア闇の大国」77頁) つまりエリツィンは、これらの利益集団に支えられて、大統領についたのである

 このチュバイスが、ロシア金融界の利益代表であることを示した事件がある。96年8月、個人の銀行預金などの利子所得に所得税をかける大統領令が出たとき、チュバイスと第1副首相になったばかりのポターニンが、相次いで異議を唱えるという事件が起こった。
 大統領府の長官が、大統領の政策に異議を唱えることは、前例がないことであった。

 この銀行利子課税は、その背景には企業や銀行が従業員に低利で融資し、従業員はその資金を銀行預金して利ざやを稼ぐ「財テック」であるというロシアの特殊事情があった。
 つまりチュバイスは、ロシアの銀行界の利益代表として大統領を支えている人物であることを、この事件は図らずも露呈した。(江頭寛「上掲書」79頁)




 
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