10.アメリカはどこへ行く?(その2) ―戦争パラノイアの大義とは?
●アメリカの戦争とその大義!
今、アメリカでは、イラク戦争をめぐってその「戦争の大義」が問題になっている。
では20世紀のアメリカの戦争には、一体、どのような大義があったのか?
その歴史を顧みて、アメリカの戦争パラノイアから世界が脱出する道を考えてみたい。
20世紀は、アメリカにとってまさに「戦争の世紀」であった。
その戦争を列記してみると、次のようになる。
第1次世界大戦(1917-)、第2次世界大戦(1941-)、朝鮮戦争(1950-)、キューバ侵攻(1961-)、ベトナム戦争(1954-)、グレナダ侵攻(1983-)、湾岸戦争(1991-)、ソマリア展開(1992-)、アフガン戦争(2001-)、イラク戦争(2003-)であり、その数の多さに驚かされる。
しかもそれらは20世紀後半に集中しており、50年間になんと8回もの戦争を戦っている。その数は戦前の軍国日本を遥かに上回り、その間にアメリカ国民には平和な年など殆どなかったほどである。
これらの戦争の発端を調べてみると、第1次世界大戦へのアメリカの参戦の理由はドイツのUボートがアメリカ艦船に攻撃を行ったことであり、第2次世界大戦も日本の真珠湾攻撃というアメリカへの直接攻撃が戦争の動機になっている。
第2次大戦以降は、ソ連、中国などを相手にした「国際共産主義」との戦いがアメリカの大義になったように見えるが、個々の戦争をみると、基本的にはアメリカ、ないしはその支援国に対し攻撃が行われたことが戦争の動機になっている。
そのことは、アメリカ人は自国への攻撃により戦時体制になると、全国民が結束する国民性があり、その愛国心が第1次世界大戦以来の伝統となっていることから来るように思われる。
アメリカの政権は、代々、この国民の愛国心の伝統を利用した。
そこで、アメリカを攻撃しそうな国に対しては、事前に相手国を誘導してアメリカを攻撃させるようにしむけ、その仕掛けにのって相手が攻撃してきたところで、政府が開戦に踏み切るという方法を戦略的に考え出した。
詳しくは本文で述べるが、簡単にその論拠を述べる。
日米戦争―真珠湾攻撃は日本の奇襲攻撃とされているが、最近になってルーズベルト
大統領は、日本が奇襲攻撃を行うように、事前に戦略的に誘導したとする
説が有力になってきた。真珠湾攻撃の前のハワイには、そのことを裏づける
挿話が数多く残されている。
朝鮮戦争―開戦の年、金日成は南進を明確に表明していた。それに対してアメリカは、
極東の防衛線から韓国をはずしたような情報を流し、トルーマン大統領は
朝鮮半島で戦争など起こりえないという談話まで発表した。そのことにより
北朝鮮の侵略を誘導した。
ベトナム戦争―初期のベトナム戦争は、アメリカが支援する南ベトナム政府と民族開放
戦線の戦争であった。それが南ベトナム政府の崩壊によりアメリカ対
北ベトナムの戦争に転化しようとした段階で、アメリカは「トンキン湾
事件」という架空の事件をデッチあげて、北爆というアメリカによる
「侵略戦争」を合法化した。
湾岸戦争―イラクによるクウェート侵攻の直前にアメリカの駐イラク大使は「アメリカは
アラブ諸国の内紛には関知しない」と伝えていた。これがフセインに
クウェート侵攻を決意させたとする有力な説がある。
またアメリカ国内でも、イラク軍のクウェート侵攻に関するCIA長官の警告
は、政権上層部から無視され、「イラクがクウェートを侵攻してもアメリカは
関知しない」というメッセージをアメリカは、フセインのクウェート侵攻前に
発信し続けた。
イラク戦争―2001年9月11日の同時多発テロに関する多数の情報をアメリカ政府
は持っていながら、何も手を打たなかった事実が、最近になって報道
されている。
テロリストに先手を打たせて、その対抗として、イラクを攻撃することが
ブッシュ政権の元々の方針であったことが考えられる。
今回のブッシュ政権には、湾岸戦争の主要閣僚がそのまま残存している。
彼らは、湾岸戦争においてフセイン政権を完全に解体しなかったことにより
イラクに軍事大国化を許し、中東の勢力均衡を崩したとする考え方に
捉われていた。
ブッシュ政権にとってはイラク戦争によりフセイン政権を崩壊させること
が本命であり、9.11事件やアフガン戦争はその一通過点に過ぎなかった
と考えられる。
このような20世紀後半期のアメリカの戦争を今一度見直してみて、世界が、アメリカが作る戦争の渦からどのようにして抜け出せるか、を考えてみたい。
(1)朝鮮戦争
●南北分断のはじまり
1945年8月15日、日本の敗戦によって朝鮮半島に対する日本の35年にわたる植民地時代は終わった。しかしその後に来たものは、ロシアとアメリカによる朝鮮半島の分割占領であった。
日本の敗戦が決定的になった太平洋戦争の末期、朝鮮総督府は在留日本人の生命、財産を守るために、朝鮮の政治指導者たちと戦後の政治体制に関する取引を始めていた。しかしこの朝鮮民族の自主的な運動は、日本の敗戦後、アメリカとロシアの両国によって完全に無視された。
8月24日、ソ連軍は関東軍の武装解除を理由にいち早く平壌に進出した。また8月19日にはアメリカ軍の先遣隊も仁川に上陸して、朝鮮半島の南北分割統治がここから始まった。
12月に米ソ英3カ国の外相会議がモスクワで開催され、最長5年後に朝鮮を完全独立させる方針が決まり、米ソ両占領軍による共同委員会が設置された。しかし、朝鮮独立政府樹立へ向かっての前進は全く見られなかった。
アメリカは、米ソの直接交渉を断念し、47年9月、国連に朝鮮問題の審議を要請した。そして国連は11月14日に「国連の監視下、全朝鮮で総選挙を実施し、統一政府を樹立する」旨の決議を行い、国連朝鮮委員会の設置と同委員会による選挙執行の監視、統一政府樹立の援助を決定した。
しかしこれに北朝鮮の協力が得られず、南朝鮮では48年8月15日に李承晩を大統領とする「大韓民国」、北朝鮮では9月8日に金日成を首相とする「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立されて、ここで朝鮮は2つの国家に分裂することになった。
1948年には、中国では内戦が激化し、ヨーロッパでは東西ドイツの対立が激化しており、米ソの東西冷戦は一触即発の危機を迎えていた。
この状況を踏まえて、9月の国連総会では「米ソの対立が南北朝鮮間の危険な関係」を作り出しており、そのため「38度線を巡る境界紛争は激化しつつあり、重大な内戦の危機が存在している」という報告が行われていた。
1948年8月に大韓民国が成立し、9月に朝鮮民主主義人民共和国が建国したことにより、米ソ軍は年末までに撤退したが、其の後を受けて南北朝鮮では武力衝突が頻発して、朝鮮半島はいつ火をふいてもおかしくない情勢になった。
●朝鮮戦争勃発!
1950年の初め、北朝鮮政府は金日成首相の名で「1950年こそ祖国統一の年」であるという声明を出していた。これに対して同じ年頭にあたり、アメリカ大統領トルーマンと国務長官アチソンは、アメリカの防衛線はアリューシャン、日本、沖縄、フィリピンを結ぶ線である旨の演説を行い、南朝鮮と台湾は其の防衛線からはずす声明を出した。
これは明らかに腰が引けた見解であり、失望と批判の声も高まっていた。その上、米下院では、1月19日に政府提出の対韓援助法案が否決される事態まで生じた。
これらの対応は、アメリカの韓国軽視ととられても仕方のない状況であった。
1950年5月10日、韓国の国防部長官・申性模は、北朝鮮軍が38度線に兵力を集中させている、という声明を出しており、更に、5月11日には、李大統領が「5,6月に何が起こるかわからない」と記者会見で述べていた。
50年代中葉の朝鮮半島には、既に言い知れぬ不気味な雰囲気が漂い始めていた。
ところが驚くべきことは、この切羽詰った時期に、アメリカのトルーマン大統領が、6月1日の記者会見において、「今後5年間は戦争の危険はないだろう。世界は、過去5年間のいかなる時よりも平和に近づいていると思う。」と天衣無縫の超楽観論を述べている。
このアメリカ大統領による信じがたいほどの楽観的見解は、一体、何であろうか?
1950年6月25日の日曜日、夜明けとともに北朝鮮の正規軍は、突然38度線を越えて全面的な南進を開始した。翌26日、金日成自身が平壌放送のマイクに向かってこの戦争が「祖国の独立と自由と民主主義のための正義の戦争である」と宣言した。
この金日成の言葉は、50年後のイラク戦争を「自由と民主主義のための正義の戦争」としたブッシュ大統領の戦争宣言に余りにも酷似していて驚かされる。
ロシアの近代兵器で武装した北朝鮮軍の侵攻は驚くほどすばやく、4日後の6月28日にはソウルは北朝鮮軍に占領された。朝鮮戦争は南北のどちらが最初に仕掛けたものか、長い間、不明であったが、1989年にフルシチョフの回顧録が発表されて、朝鮮戦争は金日成がスターリンにもちかけて了解を取った上で仕掛けたことが明らかになった。
それによると、1949年に金日成がモスクワに来た時、南進攻撃についてスターリンから了解をとったという。スターリンは、アメリカを非常に恐れていて、朝鮮戦争にあたりソ連が参加していると思われないように、北朝鮮にいるソ連の軍事顧問をすべて引き揚げさせたといわれる。
フルシチョフによると、朝鮮戦争においてアメリカの参戦により北朝鮮が危機的状況に追い込まれたとき、今度は中国の周恩来がスターリンに対して中国の軍事介入の了解をとったといわれる。
そこで周恩来は、50万の大軍を投入して北朝鮮を支援することを申し出てスターリンの了解をえたという。(ジェロルド・シェクター他「フルシチョフ 封印されていた証言」)
ソウル占領後の3日間、北朝鮮軍はなぜか行動をピタリと止めた。この3日間の中休みのおかげで韓国側は起死回生の時を稼ぎ、アメリカは、朝鮮戦争への軍事介入を決意して、国連安全保障理事会の緊急会議の開催を要請した。
国連の緊急会議の決議の内容は、(1)北鮮軍の行動は平和の破壊を構成すること、(2)敵対行為の即時停止と軍隊の38度線までへの撤退を要求すること、(3)国連朝鮮委員会に対して、北鮮軍の38度線への撤退の監視と安保理事会への常時報告の要請をすること、(4)国連の全加盟国に対して国連への援助と北鮮に対する援助の供与の中止を要請すること、などであった。
これに対して、北朝鮮側は、この軍事行動が韓国側による北鮮侵略への報復であること、安保理の決定には北朝鮮代表が参加せず、ソ連、中国も討議に参加していないことを理由に、この決議を認められないとして南進を継続した。
アメリカは6月27日の安保理において、北朝鮮の武力攻撃を撃退し、平和と安全を回復するために国連加盟国が必要な援助を韓国に提供するよう勧告する決議案を提出した。
●アメリカ軍の軍事介入と苦戦
その結果、アメリカ陸海空軍を主力としてイギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、オランダなどが参加する「国際連合軍」が編成されて、朝鮮戦争に軍事介入することが決定された。
トルーマン大統領は、この安保理決議に基づきマッカーサー元帥を国連軍総司令官に任命し、韓国に対する軍事支援の開始を命令した。そして7月1日、日本に駐留する米軍第24師団第1連隊第1大隊が釜山に上陸して、アメリカ地上軍による軍事介入が始まった。
一方、ソウルを陥とし漢江を渡った北鮮軍は、鉄道の沿線に沿ってほとんど無抵抗の韓国軍を追撃して、7月1日にはその機甲部隊が水原に迫っていた。
韓国に派遣されたアメリカの地上部隊の先遣隊は、6日にようやく水原付近に到着して、初めて北鮮軍と戦闘を交えたが、北鮮軍の兵力や戦車に圧倒されて後退した。天安,錦河,大田でも激戦が行われ北鮮軍の進撃を阻んだものの、圧倒的な兵力の差でアメリカ軍は苦戦を強いられ、7月20日には大田が北鮮軍に占領されて、8月に入ると北鮮軍による慶尚道の攻撃が始まった。
1950年8月15日の民族解放5周年記念式典において、金日成は韓国の総面積の90%と韓国の総人口の92%を開放したと誇らしげに宣言し、李承晩と其の閣僚たちを戦犯として裁判にかけることを発表した。
8月はじめ、朝鮮半島の最南端の釜山橋頭堡陣地は「東洋のダンケルク」と呼ばれるほどの激戦状態となり、9000平方キロの狭い地域に米韓軍10万と北鮮軍12万が対峙する状態となっていた。
●仁川上陸作戦と国連軍の反撃
この北鮮優位の軍事局面は、9月15日にマッカーサー元帥が直接指揮した国連軍の仁川上陸により一転することになった。この上陸作戦は、釜山橋頭堡付近に集結していた北鮮軍の背後をついて補給路を断ち、韓国内に侵攻している北鮮軍を南北から挟撃しようというものであり、その意味から「くるみ割り作戦」と呼ばれた。
仁川に上陸した国連軍の兵力は、地上兵力4万、米第7艦隊を主力とした英、仏、オーストラリア、カナダの各国海軍を交えた艦隊260隻、航空機500機という強力なものであった。これに対して仁川に配置されていた北鮮軍の兵力はわずか1個師団であり、国連軍の上陸は殆どなんの被害もなく遂行された。
9月17日には国連軍は金浦空港を占領、ソウルでは北鮮軍の頑強な抵抗にあったものの、26日には完全に奪回し、朝鮮半島の最南端の釜山に臨時首都を移していた韓国政府は、3ヶ月ぶりにソウルに戻った。
国連軍の仁川上陸に呼応して南部戦線の米韓軍は猛反撃に移った。はじめは頑強に抵抗した北鮮軍も、南北から挟撃される恐れが出てきたため、全戦線にわたって総退却を始めた。これを追った国連軍は、9月末に38度線に達した。
10月1日、マッカーサー元帥は、東京の放送を通じて北鮮軍に降伏を呼びかけたが北鮮側はそれを拒否したため、国連軍は韓国軍と共に一斉に38度線を突破して北朝鮮に侵攻した。このことにより朝鮮戦争は、第2の局面を迎えた。
●国連軍の北朝鮮侵攻と中国の軍事介入
国連軍が38度線を越えるかどうかにはかなりの議論があった。その上で、9月28日の国連政治委員会は38度線突破の決定をマッカーサー元帥に一任した。
このとき、インドのネール首相は、国連軍が38度線を越えれば、中国の軍事介入を招く危険があることをアチソン米国務長官、ベヴィン英外相に伝えていた。
結果的にその貴重な提言は無視され、ネール首相の予想通り中国の軍事介入をまねき朝鮮戦争は泥沼化して、その後2年以上も死闘を繰り返すことになった。
朝鮮戦争の開戦の丁度1年前の春、中国の人民開放軍は国府軍との内戦に勝利を収めて北京に入城をはたし、49年10月1日、中華人民共和国(以下、中国という)が成立していた。
50年6月27日、アメリカは朝鮮戦争へ介入すると同時に、台湾海峡へ第7艦隊を派遣して、中国による台湾の統合に対しては武力で阻止する姿勢を明確にしていた。その意味では、中国は、直接、アメリカによる軍事的脅威に曝されている当事国であった。中国は韓国軍が38度線を越えてもそれを黙視するが、韓国以外の軍隊が38度線を越えた場合は、北朝鮮に出兵することを明言していたといわれる。
38度線を越えた国連軍は、10月20日には平壌を占領、26日には韓国軍先頭部隊は中国との国境である鴨緑江の岸に到達した。このときまでに北鮮軍は30数万の犠牲を出していて、残存兵力は3万5千といわれるまでに減少していた。
6月28日、周恩来は声明を出して、アメリカの新しい朝鮮・台湾政策を激しく批判・攻撃していた。10月中旬になると、中国「義勇軍」が北鮮軍に加わり、前線からは中国正規軍が戦闘に加わったという情報が入り始めた。
国連軍は戦争の年内終結を目指して「クリスマス攻勢」という大規模な包囲作戦を展開していた。しかし11月26日以来、中国軍の大規模な軍事介入により国連軍は一挙に後退を余儀なくされた。
マッカーサー元帥は、11月28日、「全く新しい戦争に直面」したとする特別声明を発表し、11月30日にトルーマン大統領は記者会見において、「朝鮮戦争において原爆を使用することもありうる」と言明して世界中に衝撃を与えた。
中国・北鮮軍(=中朝軍)は、12月に入ると平壌への反撃を開始し、更に平壌から撤退する国連軍を追って南下を続けた。また東北戦線でも中朝軍は反撃を開始し、国連軍はいたるところで圧倒的に優勢な共産軍により包囲され、孤立化を余儀なくされた。そして東海岸沿いに清津まで進出していた韓国軍も後退を始めた。
中朝軍は50年の年末には38度線付近まで南下し、国連軍の被害も大きく、12月23日には、第8軍司令官ウォーカー中将が議政府付近で転倒したジープの下敷きになって殉職する事態までおこった。そして51年1月4日に、ソウルは再び共産軍の手に落ちた。
●米・中代理戦争の熾烈化
中国軍の参入により50年末から、朝鮮戦争は米国と中国の代理戦争の性格を強くし熾烈化した。もともと韓国側はアメリカを中心とする国連軍のウエイトが大きかったが、北朝鮮側においても中国軍が50年10月に参戦する際、中国人民義勇軍の総司令官・彭徳懐は、金日成との会談において「この戦争は私・彭徳懐とマッカーサーの戦争であり、貴下(金日成)が口出しする余地はない」と言明したといわれる。(金学俊「北朝鮮五十年史」)
51年1月4日、ソウルが中朝軍の手に落ち、国連軍は、水原、驪州、原州まで後退していたが、1月下旬になり新任の第8軍司令官リッジウェー将軍の指揮のもとで反撃に転じた。
西部戦線では水原飛行場を奪回、中部戦線では山岳地帯の突破を狙った中朝軍の作戦を失敗に終わらせ、東海岸では韓国軍が1月29日に江陵に突入した。この間の攻防戦は熾烈をきわめ、リッジウェーはマッカーサーに対して、「1月1日以来の前線における共産軍の被害は死者4万人、負傷者12万人」と報告している。(松本博一「激動する韓国」、岩波新書)
国連軍では、この頃、空軍による攻撃を激しくしていた。50-51年はじめにかけて国連軍が使用した空軍は1200−2000機程度と推定されるが、1月1日から5日までの5日間に延5000機が出動、その後も連日、爆撃が続行されて、50年11月22日から51年1月21日までの2ヶ月で極東空軍は中朝軍63,000人以上を殺傷した。更に、「エンサイクロペディア・ブリタニカ」によると、朝鮮戦争の3年間でアメリカ空軍は延べ8万回出動し、18万1千人を殺傷し、車両8万台を破壊したといわれる。(松本「上掲書」)
51年に入ると中国空軍はソ連製ミグ戦闘機で補強され、1月21日にはアメリカのF84とMIG15ジェット戦闘機による空中戦が行われ、ソ連とアメリカの軍事力が激突する戦争の性格を帯びてきた。
地上でも、優勢な火力と空軍力を利用した国連軍は、中朝軍の必死の攻防を乗り越えて3月14日に再びソウルを奪還、4月に入ると国連軍は全戦線で38度線を突破して北朝鮮に侵入した。
朝鮮戦争は51年3月の時点でアメリカと中国の戦争の範囲も越えて、第3次世界大戦に拡大する恐れを見せ始めていた。
国連軍の総司令官であるマッカーサー元帥は、鴨緑江を越えて満州の原爆攻撃を主張しており、更に台湾にいる蒋介石の国府軍を「反共第二戦線に起用」しようと自ら台湾へ飛び蒋介石に拒否される事件を起こしていた。
そのことにより、ソ連を巻き込んだ第3次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日、マッカーサー司令官の罷免に踏み切った。
国連軍は3月14日にソウルを再び奪還し、4月に入ると全戦線で38度線を突破して北朝鮮に侵攻していた。しかし一方の中朝軍も4月22日から第1次春季攻勢、5月17日から第2次春季攻勢を始めた。
この51年春の大規模な戦闘は、兵力の量をほこる中朝軍の「人海戦術」と、火力に優れた国連軍の「火力戦術」との消耗的戦争であり激烈をきわめた。このときの中朝軍の死傷は15万と推定され、国連軍も数万の死傷者を出した。
●休戦交渉
51年春以降、38度線の北にある鉄原、平康、金化を結ぶ中部戦線の「鉄の三角地帯」を中心に激しい局地的戦闘が続いた。しかし38度線北の国連軍陣地はほぼ固定化しており、戦局は一進一退しながら戦乱の一周年を迎えていた。
この段階で休戦交渉が始まったが、その休戦交渉も成立まで満2ヵ年を要するほどの難航を重ねることになった。その経過を簡単に述べる。
朝鮮戦争の開戦から1周年を迎えた51年6月23日、ソ連のマリク国連代表は国連放送を通じて朝鮮戦争の平和的解決を呼びかけ、38度線での停戦を提案した。
この提案に応えて、トルーマン大統領はリッジウェー国連軍司令官に対して休戦交渉の開始を指示し、同司令官は6月30日に放送を通じて交渉の開始を呼びかけた。
これに対して、金日成と彭徳懐・司令官は7月1日に其その提案の受諾を回答し、7月10日から開城において休戦会談が始まった。しかしその直後に国連軍が開城の中立地帯を攻撃したことにより、会談は2ヶ月中断することになった。
10月下旬に会談は再開され、11月23日に最初の難関であった軍事境界線の協定が成立し、休戦ラインは38度線ではなく、其の北側にある両軍の現実の接触線とすることで合意が成立した。
第2の難関は、休戦監視機関の構成と権限、そして休戦監視期間中の兵力の交代などの取り決めに関することであり、52年5月にそれもようやく解決した。
第3の難関は、捕虜の送還問題であり、これが最も難航して妥結まで1年近くを要した。争点は北朝鮮兵9万6千、中国兵2万、合わせて11万6千の捕虜を自国へ強制送還するか、任意送還するかであり、中朝側はあくまで強制送還を主張して紛糾した。
53年5月下旬に事実上の妥結をみた段階で、今度は休戦交渉そのものに反対していた韓国の李承晩・大統領が、6月18日、独断で「反共捕虜」2万6千人を解放したことから、交渉は土壇場で重大危機に陥ってしまった。
この大統領による暴挙は世界中で非難の的となり、結局、アメリカは韓国との間で相互防衛協定を結ぶことを条件に李大統領を宥めて休戦協定は53年7月27日に板門店で調印された。
しかしこの休戦協定において調印したのは国連軍と中朝軍代表であり、韓国代表は加わっていない。調印前の6月9日、韓国国会は「韓国提案を含まない休戦協定は認めない」という決議をした。この当事国を含まない不思議な休戦協定を守るための休戦会談がその後も延々と継続され、休戦状態のままで朝鮮半島の南北分断の歴史は現在まで続いている。
●朝鮮戦争とは何であったのか?
朝鮮戦争は、両軍の戦闘員の死者、行方不明、捕虜などの損害が230万人にのぼるという激しい戦争であった。国連の推計によれば人海戦術をとった中朝軍側の損害は中国軍109万5千名、北朝鮮軍80万2千名といわれる。(松本博一「前掲書」)
この戦争でアメリカは、13万6千名の損害を出し、2万4千名以上の戦死者を出した。このことはアメリカに拭い難い共産主義中国に対する憎悪を生み出した。そして韓国との間には、53年8月8日に米韓相互防衛条約が締結されて、アメリカは無期限に韓国を軍事基地として使用できる権限を確保した。
同様に、54年12月には、台湾の国民政府との間で米台相互防衛条約が締結され、それに先立つ54年9月に、マニラにおいて米、英、仏,豪、ニュージーランド、フィリピン、タイ、パキスタンの8カ国を構成メンバーとする東南アジア条約機構が結成された。
朝鮮戦争を契機にして、アメリカは、「中国封じ込め」政策、更に共産勢力全般への「巻き返し政策」を積極的に展開し始めた。この国際戦略を展開するに当たって、ソ連、中国に対する日本の戦略的位置づけの重要性がアメリカに分かってきた。
このアメリカによる日本の戦略的位置づけは、日本にとってはかなりの危険を伴うが、逆に魅力的なものでもあった。
朝鮮戦争の結果として、日本はアメリカによる占領と武装解除の時代を終わり、独立国としてアメリカの極東戦略の下で軍事協力を行う時代に入った。その再軍備の第1歩が朝鮮戦争開戦の年の警察予備隊7万5千名の創設であり、それは現在の自衛隊に発展した。
日本は51年9月にアメリカを中心とした48カ国と講和条約を締結した。またアメリカとは安全保障条約を始めとする軍事協定を締結して、独立の一歩を踏み出すと同時にアメリカの極東戦略の一環に組み込まれていった。
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