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(3)湾岸戦争

●サダム・フセイン
 イラクは、ハシム家のファイサル王が統治する王国であり、かつ、イギリスの委任統治領であったが、1932年にイギリスから独立した。
 1958年にカセム将軍の自由将校団がクーデターを起こして王政を廃して共和制にした後、エジプト革命の影響を受けた社会主義者ソ連傘下の共産主義者による権力闘争が続いてきた。

 1968年、アラブ民族主義のバ−ス党(アラブ復興社会党)が再びクーデターを起こし、権力を掌握したパクル政権が、ソ連の援助を受けてイラクの軍備を増強した。
 このバース党の指導者パクル将軍の親戚に当たる人物が、1937年生まれのサダム・フセインである。
 
 パクル将軍は若手で実力のあるサダムを政権のナンバー2の地位につけ、石油開発や外交などの実務を担当させ、軍の勢力を弱体化させるために利用した。更に、サダムは、公安、治安警察部門を担当することにより、パクル大統領の権力をも奪い、政権の影の実力者の地位にのし上がった

 フセインはイデオロギーより実務を重視する人物であり、イラクで最大級のルメイラ油田の開発を指揮してイラクの産油量を急増させた。
 1972年に「イラク石油会社」の国有化に踏み切ったことからイギリス、フランスとの関係が悪化し、輸入禁止措置を取られた。そのために、一時的に石油収入が落ちたものの、73年の第4次中東戦争における石油価格の高騰により、イラクの石油収入は急増してフセインの権力基盤はいっそう強化された

 1979年の「イラン革命」により隣国イランでは、それまで親米政策をとっていたパーレビ国王が政権の座を追われ、代わって、イスラム教シーア派の指導者ホメイニによる親ソ政権が成立した
 このイラン革命に対して、イラクのパクル大統領は、隣国シリアと連邦を結成してイスラエルやアメリカに対抗しようとした。

 この動きを知ったフセインは、パクルを自宅に軟禁し、自ら大統領となり、政策を反米から親米に一転させるとともに、自分の独裁体制を強化した。
 つまり、フセインはアメリカの立場から見たら、イラクを反米から親米政策に大転換させた功績者である。

 翌80年9月22日未明、フセインのイラク軍はイランに侵攻した。これがその後、8年の長きにわたる「イラン・イラク戦争」の始まりである。
 フセインによるイラン侵攻の意図の第一は、イラクの人口の6割を占めるシーア派が、フセインの支持基盤であるスンニ派に対して反フセインの動きを見せるのではないかという危惧であった。そのほかにイラン・イラクの国境紛争も原因になった。

 アメリカは、イラクがイランに侵攻して戦争が膠着状態になると、クウェート、サウジアラビアなど、親米の産油国を通じてイラクに対する軍事援助を強化していった。アメリカは1983年からイラクに対して、アメリカから農産物を買うための信用供与という名目で資金援助を行い、フセイン政権がその資金を武器購入に使うのを黙認していたことが、湾岸戦争後に、アメリカの新聞により暴露された。
        (田中宇「イラクとパレスチナ アメリカの戦略」、光文社新書)

 不思議なことに、アメリカはイラン・イラク戦争において、反米のイラン・ホメイニ政権に対しても支援している。勿論、表向きにはないが、1985年のレーガン政権の時に暴露された「イラン・コントラ事件」などを通じて、アメリカはイスラム革命直後からイランのホメイニ政権と交渉を持ち、イラク軍が保有するアメリカ製の武器のスペア・パーツを密かにイランに輸出していたことが分かっている。(田中宇「上掲書」)

 このアメリカの不思議な戦略は、中東で一つの国が突出して強力にならぬよう、互いに牽制し合うようにする「均衡戦略(バランス・オブ・パワー)」という外交政策といわれ、その政策が中東産油国に対して採用されていたといわれる。
 1988年にイラン・イラク戦争が終わると、アメリカは自分の援助により軍事大国化したイラクは、中東の戦略的均衡を崩すものとして叩く必要があった。
 これが湾岸戦争の隠された大義であった。

 
●湾岸戦争の大義
 1990年8月2日、イラク軍機甲師団・総勢12万がクウェート侵攻した。アメリカは即日、イラクの行動を非難、即時無条件撤退の緊急声明を発表し、国連安全保障理事会は、イラクに対して侵攻非難、即時無条件撤退を決議した。
 ブッシュ大統領は、フセインがサウジアラビアを占領することを恐れていた。
 ソ連もイラクへの武器供与の停止を決定し。EC諸国も対イラク制裁へ足並みを揃えた。

 イラクがクウェートを一方的に侵略したことは誰の目にも明らかであった。それに対してかなりのためらいを見せつつも、アメリカのブッシュ大統領は湾岸戦争の開戦に踏み切った。

 イラクが王政から共和制に変わって間もなくの1961年、当時のカセム大統領は、オスマン・トルコ時代にバスラ州(イラク南部)はクウェートまでを含んでいたことを根拠に、「クウェートは、イラクの一部である」と宣言して、イギリスなどから強い反発を招いたことがある。
 1990年7月15日、フセインは、かつてのカセムの宣言を繰り返して、クウェート国境に大軍を集結させていた。

 この緊迫した状況に対するアメリカの態度に、かなり腑に落ちない点が多い。
 7月25日、イラクの外相はアメリカの駐イラク大使・エイプリル・グラスピーと会い、イラクがクウェートに侵攻する可能性を伝えた時、大使は「アメリカはアラブ諸国の内紛には関知しない」と応えたという。
 これをイラク側は、イラクがクウェートに侵攻してもアメリカは傍観するととった。
                    (田中宇「前掲書」、36-37頁)

 ワシントンでは、7月28日、CIA長官ウィリアム・ウェブスターは、ブッシュ大統領に「イラク軍がクウェートに侵攻しそうだ」と報告した。
 ところがこれらの警告や忠告は、なぜか政権上層部から無視され「イラクがクウェートを侵攻しても、アメリカは関知しない」というメッセージだけをアメリカは、発信し続けた。              (田中宇「前掲書」37頁)

 これら田中宇氏の証言を読むと、アメリカの戦争の発端はいつも非常に類似していることに気付く。例えば、日本の真珠湾攻撃を事前にルーズベルト大統領は知っていたという証拠が、現在では数多く存在している。またハワイでは、日本による真珠湾攻撃の1週間前に日本による空襲の情報が流れたといわれるし、日本の攻撃があった日が日曜日(=休日)にも拘らず、空母3隻が演習に出ていたのも妙である。

 第一次大戦においてドイツのUボートがアメリカの船舶を攻撃したことからアメリカは参戦を決意したように、アメリカの戦争の大義は、他国によるアメリカの攻撃を第1義としているようである。
 その観点からすると、日本の真珠湾への奇襲攻撃が、アメリカ国民の気持ちを反日で一つにまとめさせた効果は非常に大きいといえる。
 そのように考えると、アメリカの戦争は他でも同じことが見られるのである。

 朝鮮戦争において、開戦の年(=50年)の初めに、金日成は、明確に南進攻撃のメッセージを発信していた。これに対して、大統領トルーマンと国務長官アチソンは、アメリカの防衛線はアリューシャン、日本、沖縄、フィリピンを結ぶ線であると演説して、南朝鮮と台湾を其の防衛線からはずし、金日成の南進を誘導した可能性がある。

 その観点からすると、トルーマン大統領が行った6月1日の「今後5年間は戦争の危険はないだろう。世界は、過去5年間のいかなる時よりも平和に近づいていると思う。」という記者会見も大統領の戦争を前にした演出であったことも考えられる。

 ベトナム戦争は、もともと南・北ベトナムの戦争に対して、アメリカの軍事顧問が南ベトナム軍の支援をするかたちで戦争がエスカレートしていった。
 そのため開戦に当たってのアメリカの大義はもともと明確ではない
 しかしこの戦争が一段と拡大したケネディ、ジョンソン政権の時に上記と類似した状況が出てくる

 それはアメリカがゴ政権を見放し、ドン・バン・ミン将軍、グエン・カーン少将など、南ベトナム政府内部の権力闘争が激化し、一方、ベトコンの攻勢は、クーデター直後から劇的に激しさを増していた時期である。
 アメリカは南の政権を支えるためにますます泥沼にはまっていった。このような南ベトナムの政情が暗澹たる状態にある段階で、アメリカではケネディ大統領が1963年11月22日に突然、ダラスで暗殺され、副大統領のジョンソンが大統領に就任した。

 ケネディが暗殺される直前、政府首脳がホノルルでベトナム戦略会議が開催されており、その会議において北ベトナムに対する「国籍不明の奇襲攻撃」計画を強化することが決定していた。この行き詰まったベトナム戦争の局面を打開するための作戦が「トンキン湾事件」というでっち上げ事件であった。

 北ベトナムによる架空のアメリカ軍攻撃をでっち上げた「トンキン湾事件」を利用して、ジョンソン大統領は、これに対する反撃と海上における侵略防止措置の承認を議会に求めた
 議会は圧倒的多数でこれを承認して、「第2次インドシナ戦争」が始まった。つまりジョンソン政権による南ベトナムへの全面的軍事介入と北ベトナムへの戦闘を拡大することを正当化のための操作がこのでっち上げ事件によって行われたわけである。

●アメリカ・イラク戦争
 このように見てくると、ブッシュ政権による2003年3月のアメリカ・イラク戦争の大義もかなり分かりやすくなってくる。

 このイラク戦争については、「世界の行方」の「6.アメリカ・イラク戦争−中東と世界の行方」に詳述しているので見ていただきたい。そこでも述べているように、今回のブッシュ政権によるアフガン戦争、イラク戦争はすべて2001.9.11のニューヨークの同時多発テロから始まった。

 そこで述べたが「テロ」の実行主体は、「国家」ではなく、団体や個人である。従って、「テロ事件」は国際的な背景を持つものであっても、それは法的にはあくまでも国内的な刑事事件として捜査され、処罰されるべき性質のものである
 この国内事件を理由にして、アフガンを攻め、イラクを攻撃すること自体が、国際法的にいえばテロを口実にした侵略戦争以外の何者でもない。

 イラクにいたっては、もともと「タリバン」とも「ビン・ラディン」とも関わりがなかった訳であり、ブッシュ大統領はその「戦争の大義」を、「自由主義とか民主主義のため」と言い出した。
 この言葉は、金日成が朝鮮戦争の大義に使用したものであることをブッシュ大統領は知らなかったのであろう。つまり侵略戦争に常用される枕言葉なのである。

 20世紀後半から始まったアメリカの「戦争の大義」もとうとうここまで落ちたか!と感じざるを得ない。




 
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