(2)ベトナム戦争
●吹き荒れた魔女狩り
ソ連と中国は、朝鮮戦争開戦の年である1950年に中ソ友好同盟援助条約を締結しており、50年代の中ソの同盟関係は非常に強固なものに見えた。このことは、朝鮮戦争において中国軍と戦ったアメリカにとってはかなりの脅威であった。
この共産主義への恐怖を背景にして、50年代のアメリカ国内では、共和党上院議員J.R.マッカーシーによる「魔女狩り」ともいえる「マッカーシー旋風」が吹き荒れていた。
そこではソ連、中国に関わるコミュニストとその同調者と思われた人物を名指しで攻撃する政治キャンペーンが展開され、その恐怖の旋風は上院が彼の譴責を決議した54年末まで続いていた。
このマッカーシー議員による政治旋風が、「反共」を旗印にした心理的統制とイデオロギー的硬直性をアメリカ社会に持ち込んだ。
そのため1950−60年代のアメリカでは、共産主義者が指導する民族独立運動への譲歩は、ソ連・中国の侵略を容認するものとする風潮がひろまり、その雰囲気の中でベトナム戦争へのアメリカの関与はエスカレートしていった。
その状況は、「テロとの戦い」の名のもとに、予防的武力行使から捕虜虐待まで容認するに到った現代のアメリカの政治的風潮に極めて類似している。
●ベトナム戦争は元々、フランスの戦争であった!
第2次世界大戦末期の1945年3月、日本軍はインドシナのフランス軍の武装を解除してグエン朝のバオ・ダイ帝による政府を樹立し、更にカンボジア、ラオスにも独立を宣言させた。
しかしこの段階で日本の敗戦は目前に迫っており、日本の敗戦と共にベトミンは総蜂起して、ハノイ、サイゴンなど各地に革命政府を樹立した。そして9月に、ハノイにおいてベトナム民主共和国の独立が宣言された。
一方、戦後フランスのドゴール政権は、戦前における仏領インドシナの植民地の復活を当然のことと考えていた。そこでイギリス軍の協力を得て、武力でベトナム南部、カンボジア、ラオスを支配し、反フランス勢力に対する弾圧を始めた。
北部を支配するホー・チンミンによるベトナム民主共和国では、1946年1月、最初の総選挙が行われ、ベトミンが圧倒的な支持を得た。
しかしその北ベトナムでは、政治的配慮から中国国民党政府が支援するベトナム革命同盟会やベトナム国民党と協力して、連立政権が樹立されていた。
46年3月にベトナム民主共和国政府とフランス政府との間で停戦の仮協定が成立した。そして北部、中部、南部の統一は将来の国民投票に委ねること、1952年までに軍事基地を除いてフランス軍は撤退することが約束されたが、それはフランスによる北ベトナムの軍事制圧に対する時間稼ぎでしかなかった。
1946年10月、フランス軍は北ベトナムのハイフォンに上陸し、11月にはハイフォンのほか、中国国境近くのランソンで両軍が衝突、フランス艦隊はハイフォンを砲撃、多数の市民を殺害した。フランス軍が10万の軍隊を投入して、「第一次インドシナ戦争」が開始された。
フランス軍は軍事的には優位にあるように見えたが、民衆の支持は共和国側にあり、54年5月、ラオス国境の要衝デイエンビエンフーの攻防戦において激戦の末、フランスの軍事的敗北が明白になった。
1954年6月、首相に就任したマンデス・フランスは、「1ヶ月以内の停戦」を約束し、共和国側には中国が圧力をかけて、54年7月にベトナム、ラオス、カンボジアの停戦協定が署名された。
これによって北緯17度線を軍事境界線として、ベトナム人民軍は北部を、バオ・ダイ帝の下でアメリカが支援するゴ・ジン・ジェム政権のバオ・ダイ軍は南部を軍事支配することになった。そこではまさに朝鮮半島と同じ状況が作りだされた。
更に、カンボジアでは55年9月に、ラオスでは12月に総選挙が実施されて統一政府が実現された。ジュネーブ協定により、フランスはインドシナの植民地を放棄し、どの後、アメリカのアイゼンハワー政権がフランスに代わってこの地域への直接介入を強めて、それがアメリカの軍事介入の始まりになった。
つまり「アメリカはヨーロッパの「冷戦」や朝鮮戦争の経験にひきずられてインドシナに不用意に介入し、状況に押し流されて、北ベトナムと南ベトナムの解放勢力にたいする軍事的対決の姿勢を強めることになった。」(正村公宏「現代史」)
まさにアメリカの指導者によるこの戦略的判断の誤りが、アメリカによるベトナム戦争への発端になった。
1967年6月、アメリカ国内において、ベトナム戦争に対する国民のフラストレーションの高まりを憂慮した国防長官マクナマラは、アメリカがなぜこれほど深刻にベトナム戦争に関与するようになったかの報告書の作成を指示し、その結果は1年かけて47巻に上るベトナム戦争に関する膨大な秘密報告書としてまとめられた。
その秘密報告書をニューヨーク・タイムスが゙スッパぬき、1971年6月から資料を添付して公表をはじめた。驚いた政府は、最高裁にその掲載の禁止を提訴したが、最高裁はその請求を却下したために、その全貌が明らかにされた。
その秘密報告書の関係箇所についてはそのつど述べるが、ベトナム戦争へのアメリカの歴代政権のかかわりにつては、トルーマン政権まで遡り、その後のアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンの「4政権がインドシナに対して(かかわりを)深めていった」。そこでの「アメリカの政治的、軍事的および心理的な利害関係は、当時の政権担当者が自覚していた以上に、根深いものであった」としている。
ニューヨーク・タイムスのシーハン記者は、全般的包括の結語の中で、「最初は共産主義の封じ込めにあったが、それがやがては、アメリカの力、影響力、および威信の防衛に変わり、しかも、いずれの段階においても、ベトナムの現地の事情は無視された」と述べている。
この戦争における”アメリカの目的の変遷”こそが、「歴史的判断以上の教訓」とされているが、その教訓がその後のアメリカの政権に生かされた形跡はない。
(ニューヨーク・タイムス特約「米国防総省・秘密報告書」(全訳)、朝日ジャーナル臨時増刊、1971、Vol.13、No.30)
●アメリカのベトナム戦争
1954年7月のジュネーブ協定により、ベトナムは南北に分断されたが、インドシナ諸国のフランスからの独立は承認された。アメリカのアイゼンハワー政権はこの段階からフランスに代わって直接インドシナへの介入を開始した。
これがアメリカにとっての最後のフロンティアであるアジア開拓の第1歩であったとすれば、それは恐るべき愚行の始まりであったといえる。
日本を含むアジア諸国は,この頃、アメリカによるアジア政策に組込まれていた。1954年9月、アメリカ、イギリス、フランス、パキスタン、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドの8カ国により東南アジア条約機構(SEATO,
South-East Asia Treaty Organization)が結成された。
つづいて1955年にはイラク、イラン、パキスタン、トルコ、イギリスによるバクダッド条約機構(中東条約機構)が発足して、それにアメリカはオブザーバーとして参加した。
この機構から、1959年に王政を打倒したイラクのカセム新政権が脱退して、中央条約機構(CENTO)と改称され、本部はイラクのバクダッドからトルコのアンカラに移った。
1951年、日本とアメリカの安全保障条約が締結されたのと同時に、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカの同盟条約(ANZUS条約)が締結された。
これらのアジア、中東、大洋州とアメリカとの条約機構が成立したことにより、既に1949年に創設されていた北太平洋条約機構(NATO;North
Atlantic Treaty Organization)と共に、アメリカを中心とした地球規模の反共産主義体制が作られたことになる。
その中で、1955年10月、南ベトナムのゴ・ジン・ジェム首相は、南ベトナムだけで国民投票を実施し、バオ・ダイの帝政を廃止して自ら大統領に就任した。
このゴ・ジン・ジェム政権に、アメリカは軍事的、経済的援助を強化し、北ベトナムへ破壊工作員を送り込んだりして支援した。
アメリカの支援を受けたゴ政権は、反政府勢力を容赦なく弾圧し、58年12月にはフーロイ収容所で政治犯の大量殺害事件が起こった。ゴ一族は南ベトナムの政治・経済のいたるところに深く関与して、その権力と腐敗は目に余るものになり、国民の非難はゴ政権と共にそれを支援するアメリカに向けられた。
その中で、59年にアメリカの軍事顧問団員が殺害される事件が起こった。
60年12月、ゴ・ジン・ジェムの独裁と弾圧に対抗するため、南ベトナムのベトミン勢力を中心として南ベトナム民族解放戦線が結成された。この民族独立・開放の運動をアメリカは共産主義の進出と完全に同一視した。
1961年1月に発足したケネディ政権は、アイゼンハワー政権時代のベトナムに対する「危険の限られたカケ」という政策から、南ベトナムの共産支配を阻止するための「広範なる介入」という政策に転換した。
このことによってベトナムに対するアメリカの軍事的,政治的介入は著しく拡大することになった。
ケネディ政権は、ゴ政権の援助政策を継承しただけでなく、段階的に関与の度合いを強めていった。ゴ政権による南ベトナム国民の弾圧は強くなり、更に、カトリックを国教にしたことから、仏教徒の抗議行動が激化し、それに学生や軍人の中の仏教徒の反対運動を誘発した。
アメリカはゴ政権を見放し、63年11月1日にドン・バン・ミン将軍やグエン・カーン少将のクーデターが発生し、南ベトナム政府内部の権力闘争の口火が切られた。ベトコンの攻勢は、クーデター直後から劇的に激しさを増しており、それに対して南ベトナム政府側は次々に交代し、アメリカはそれらの政権を支えるためにますます泥沼にはまっていった。
●死せるケネディ,生けるジョンソンを走らす!
南ベトナムの政情が暗澹たる状態にある段階で、アメリカではケネディ大統領が1963年11月22日に突然、ダラスで暗殺され、副大統領のジョンソンが大統領に就任した。
ケネディ暗殺の直前、政府首脳はホノルルでベトナム戦略会議を開催しており、その会議において北ベトナムに対する「国籍不明の奇襲攻撃」計画を強化することを決定していた。そして新大統領ジョンソンは、そのケネディのベトナム政策を継承する事を発表した。
その1ヵ月後、南ベトナムを視察したマクナマラ国防長官は、ベトコンの活動がクーデター以降、非常に活発化しているにも拘らず、南ベトナム新政府は極めて弱体化していることから、新しく北ベトナムへの隠密作戦の強化と南ベトナムの支援強化を打ち出した。この政策を正当化するために仕組まれたのが「トンキン湾事件」であった。
1864年8月2日、アメリカ政府は、北ベトナム沿岸で、アメリカの駆逐艦が北ベトナム魚雷艇の攻撃を受け、反撃して2隻を撃沈。その報復としてアメリカ海軍の航空機が北ベトナムを攻撃、哨戒艇25隻を破壊、4つの基地を爆撃して石油貯蔵所などを破壊した、と発表した。(トンキン湾事件)
ジョンソン大統領は、これに反撃し、海上の公然たる侵略防止の措置の承認を議会に求めて、議会は圧倒的多数でこれを承認した。これによって「第2次インドシナ戦争」が始まった。
ところがこの「トンキン湾事件」の当時、アメリカの駆逐艦は北ベトナムで情報収集活動を続けていて、東側諸国の領海である12海里以内に進入した疑いが濃厚であった。更に、同じ時に南ベトナム海軍は南への補給を阻止するという名目で北ベトナム沿岸の島を攻撃していた。
つまり南ベトナム軍とアメリカ軍は共に北への挑発行為を行っていたわけであり、「トンキン湾事件」は、ジョンソン政権が南ベトナムへのアメリカ軍の全面的軍事介入と北ベトナムへの戦闘の拡大を正当化する操作であったわけである。
ジョンソン政権は、1965年2月7日、北ベトナムに対する「ローリング・サンダー作戦」と呼ばれる本格的、かつ継続的な空爆に踏み切った。
更に、4月にジョンソン大統領はダナンの海兵隊の任務を防衛から攻撃に密かに変更し、アメリカをベトナムの地上戦に本格的に介入させる事を決めた。
このことにより、アメリカのベトナム戦争は全く新しい局面に入った。
65年3月、アメリカ海兵隊は南ベトナム解放戦線と初めての戦闘を経験し、6月以降、アメリカ軍は解放戦線と本格的戦闘を開始し、北ベトナムも更に多くの正規軍を南部に浸透させた。
ベトナムの米軍は、1965年2月には23,500人であったものが、ニクソン政権が地上軍削減の方針に転換する直前の1969年6月には543,000人にまで増加した。
朝鮮戦争では50年6月に中国代表権問題でソ連が欠席していたために、アメリカは国連安保理事会において「国連軍」の旗印を得る事が出来た。しかしベトナム戦争ではそのような大義名分を獲得する事が出来なかったし、ベトナム戦争に対するイギリスを始めとするヨーロッパ諸国の反応は冷淡であった。
アメリカ軍は、ベトナム戦争において殺傷力の高いナパーム弾やボール爆弾,枯葉剤など多様な残虐兵器を使用し、兵士のみでなく非戦闘員や子供に深刻な被害を与えた。更に村を焼き払い、女・子供などの村民を虐殺する事件を起こした。
それでも南ベトナムを制圧できず、戦争は更に泥沼化した。大義のない戦争でアメリカの兵士たちの士気は低下し、脱走が頻発した。68年には米軍の脱走者の総数が53,000人に及んだといわれる。
そしてアメリカ国内でもベトナム戦争反対運動は、人種差別の撤廃運動と結んで、アメリカがかつて経験したことのないほどに高まりを見せるようになった。
ジョンソン大統領は、国内の反対運動の高まりと国際的な孤立化の中で、1968年3月末、北爆の停止と11月の大統領選挙への不出馬を宣言した。
この年の5月、パリでアメリカと北ベトナムの和平会談が開始された。
双方の主張は平行線をたどり、交渉は難航してアメリカ軍は逆に増強された。
68年10月、ジョンソン大統領は「北爆」の完全停止、南ベトナム政府および解放戦線の代表のパリ会談への参加の容認を発表した。これにより69年1月から「拡大パリ会議」が開かれるようになった。
拡大パリ会議では、北ベトナムと南ベトナム解放戦線は、グエン・バン・チュウ政権に代わる「民族民主連合政権」の樹立とアメリカ軍など外国の軍隊の撤退を要求し、アメリカと南ベトナム政府は北ベトナム軍の撤退を要求した。
1968年のアメリカの大統領選挙では、共和党のニクソンが大統領に選任されたが、彼はベトナム戦争の解決策を明確にしていなかった。しかし、この段階で、ベトナム戦争への介入の継続はもはや不可能であり、ニクソン政権の役割はベトナム戦争からの「名誉ある撤退」でしかなかった。
しかし1969年6月、ニクソンはミッドウェーでグエン・バン・チュウと会談して、南ベトナム軍の増強に対する支援を約束した。それでも南ベトナム政府軍の戦闘能力は容易に強化されず、支配地域の拡大はもはや不可能であった。
そこでニクソン政権は、北ベトナム軍の拠点や補給路を攻撃するという理由で、カンボジアやラオスに対するアメリカ軍による爆撃や南ベトナム軍の侵攻を指示して、政治的干渉を強めるという新しい政策をとった。
アメリカは、カンボジアのシアヌーク王の政権に対してSEATOへの加盟を要求した。シアヌークがこれを拒否して中国に接近すると、70年3月にロン・ノル将軍にクーデターを起こさせ、シアヌークを追放してロン・ノル政権を作りだした。
このアメリカの政治干渉により、それまで非常に政情が安定してきたカンボジアの政治は一挙に不安定になり、共産党の影響力は逆に増大する結果になった。
そしてこれが更に70年代後半におけるクメール・ルージュのポル・ポトによる大虐殺の原因を作り出した。
このカンボジアへの戦火の拡大は、アメリカ国内の反戦運動を更に刺激した。
追い詰められたニクソン大統領は、ベトナムからの「名誉ある撤退」のために、それまで封じ込め政策を取ってきた中国へ突然、接近を試みて世界中を驚かせた。
しかしこの時期の毛沢東は、アメリカよりもソ連への警戒を強めていたために、このニクソンのこのたくらみは成功して、1972年2月、ニクソンはアメリカ大統領として初めて中国を訪問し、毛沢東、周恩来と会談することに成功した。
その結果、ニクソンは中国の仲介により、1973年1月、パリにおいてベトナム和平協定を締結することに成功した。
このパリの交渉において「グエン・バン・チュウ政権に代わる民族民主連合政権の樹立」という北ベトナムの主張をアメリカと南ベトナム政府が拒否したため、南北ベトナムを併存させるかたちでの政治解決の可能性は消滅していた。つまりアメリカは、南ベトナム政府を完全に見捨てて、ベトナムから手を引いた。
アメリカ軍の撤退後、南ベトナム軍は北ベトナム軍に対抗する力を持っていなかった。北ベトナム軍は、パリ協定から2年後の1975年4月、サイゴン(その後、ホ−チミン市と改称)を占領し、南ベトナムは北に完全に併合された。
翌76年4月に南北統一選挙を実施、7月に完全に南北統一が実施され、ベトナム社会主義共和国となった。
1976年12月、ベトナム労働党は共産党と名称を変更し、急進的な社会主義路線を採用した。そのため経済的混乱と政治的抑圧を避けて、中国系の住民を中心に90年頃にかけて多数の人々が難民として流出し、その総数は150万人といわれた。
ベトナム軍は79年1月、カンボジアのプノンペンを攻略して親ベトナムのヘン・サムリン政権を樹立し、2月には中国軍がベトナム側へ越境して中越戦争が勃発するなど、社会主義国間の侵略戦争の勃発という信じられない事態が起こった。
しかしベトナム社会主義共和国は、その後、91年8月に中国と国交を正常化、91年10月にカンボジアと和平協定を締結、95年7月にはアメリカとも国交を正常化した。
ベトナム戦争後のベトナムは、まるでアメリカの戦争パラノイアに感染したと思われるような奇妙な行動をとっている。
●ベトナム戦争とは何であったのか?
特に、73年のパリ協定以降のベトナムの推移を見ると、ベトナムにとっても、アメリカにとっても、一体、ベトナム戦争とは何であったのか?と考えさせられる。
まずアメリカにとってのベトナム戦争は、アメリカ史の中でも、18世紀後半の独立戦争の7年8ヶ月を遥かに超えて、アメリカがサイゴンに軍事援助司令部を設置してから数えても、11年1ヶ月に及ぶという最も長い戦争になった。
アメリカ軍の戦死・行方不明者は5万9千人とされ、朝鮮戦争の戦死者3万4千人を遥かに超える。ベトナム国民の戦争犠牲者の数は分からないが、南北ベトナム軍と解放戦線の兵士の死者は120万人,一般国民の死者も100万人を遥かに越えると思われる。(正村「前掲書」54頁)
これだけ大きな犠牲を払ったベトナム戦争とは、一体、何であったのか?それをアメリカの側から取り上げたのがアメリカ国防総省の「秘密報告書」であった。
その報告書からニューヨーク・タイムスのマックス・フランケル記者が総括として明らかにしている最も重要な事は、戦争のあらゆる段階に登場する同じ思考とパターンである、としている。
その第一はこの戦争は文官指導者が主導した戦争であり、軍部指導者は常に腰が引けていたことである。つまりプロの軍人は戦争に対して慎重であるのに、戦争に対して素人の文官が軽く考えて行動し、結果的にはすべて失敗していることである。
これは今回のアメリカのイラク戦争においても、全く同じことが見られる。
そのくせ、どの段階においても軍事的な考慮が、政治的配慮に優先した。そして一度手をつけた政策を止める事が出来ず、敵側にはアメリカの軍事力を遥かに上回る人員補給能力があることを知っていながら、地上戦闘で勝利を得ようとした。
その典型が、ウエストモーランド大将であった。
アメリカが共産主義と戦うために味方に取り込んだ南ベトナムの指導者、将軍、スパイなどを、アメリカは自分の道具のように考えて扱ったが、結局は彼らの運命とアメリカの運命がごちやまぜになり、区別できなくなり、結果的に道具と考えた人々と運命を共にすることになった。
アメリカの指導者の反共ドミノ理論とその世界観が、中ソ対立、文化大革命、インドネシア共産党の壊滅といった重大な情勢変化があったにも関わらず、共産主義の思想として、20年間変わらず信奉され続けてきた。
そしてソ連、中国との大戦争を前提としての大幅な軍事増強は常にためらいつつも、その一方では、撤退はどのような場合にも一切考慮せず、公式発言のみを繰り返してきた、と報告書は指摘している。
つまりベトナム戦争を最初に批判した議員の一人であるアイダホ州選出のフランク・チャーチ上院議員がワシントンで述べたように、歴代大統領はすべて、アメリカの国益を定めるのに必要な洞察力と知識を兼ね備えている人々は、大統領と政府の専門家だけであり、それ以外、つまり国民は敵意に満ちた世界であるという、信念を抱いていたという。
これらの考え方は、すべて典型的な官僚制国家のそれである。アメリカの連邦政府は、特に第2次世界大戦以後、壮大な官僚制機構として確立した。
その官僚機構が、民間の産業組織と陸・海・空3軍の軍事機構が結びついて出来上がっているのが現在のアメリカの「産軍複合体」である。
その結びつきの問題点が明確に浮かびあがってきたのがベトナム戦争であった。この膨大な秘密報告書を通じて、アメリカ政府はどのような反省をしたのであろうか? またその後の湾岸戦争や今回のイラク戦争にその反省は生かされたのであろうか?
朝鮮戦争、ベトナム戦争を通じて、地上軍による戦闘を出来る限り避け、機動力を利用した空軍・海軍による戦闘により短期に勝敗を決める。そのためには空・海の軍事力と破壊力をベトナム戦争当時より比較にならないほど性能を向上させる必要がある、という教訓をアメリカは得たように思われる。
この教訓が、湾岸戦争以降のアメリカの戦略になった。そのため軍事的な戦闘は短期間で終わるようになったが、戦争の大義は、ベトナム戦争のころより怪しくなり、更に、戦争終了後の占領行政は手のつけられないほど混迷を極めるようになった。今回のイラク戦争はその典型といえる。
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