2. ヨーロッパ経済の行方
(1)なぜ「欧州連合」を取上げるか?
ヨーロッパ大陸は、色々な言語、歴史、文化を異にする多数の国々から構成されている。それらの国々は地面の上に勝手に「国境線」を設定し、その国境線を超えるたびに、商品や所有物に関税がかかり、通貨が変わる。これは日本のように島国で、その中に国境線がない国民には想像できない非能率、不合理なことである。
このヨーロッパを一つの合衆国として、少なくとも経済面の市場や通貨を統合しようという理想は古くからあった。20世紀になってからでも、クーデンホッフ・カレッルギーとかウィンストン・チャーチルなど、その理想を明確にした思想家や政治家も多い。しかしこの理想を現実にするのは、ほとんど不可能と思われるほど困難が予想された。
しかしヨーロッパには、この不可能と思われる難しい仕事に自分の政治生命をかけた政治家がいた。またその政治家を支えて、新しい方向へ向かって協力した国々の政治家、市民がいた。このことにより「欧州連合」は、20年の歳月をかけて、21世紀の始めにはその姿を現し、ヨーロッパは21世紀には、衰退するアメリカに代わって再生すると思われる。
残念ながら、日本には10年のオーダーで国家政策を考える思想家や政治家が、今では全く見当たらなくなってしまった。ヨーロッパが、21世紀に向かって血の汗を流して努力していた1980-2002年の間、日本はほとんど無為な状態で推移してきている。そしてこれから先の姿も、2003年1月の段階では全く見えない。
今の日本に必要なのは、10年のオーダーで国の将来を考えることであり、そのための資料として、まず「欧州連合」を取り上げることにした。
(2)欧州通貨制度(EMS)の創設
1980年代にはじめ、ヨーロッパ経済は非常に停滞した状態にあり、もはや勃興する日本やアメリカからの観光客のための博物館になろうとしていた。この段階から「総合欧州」への取り組みは本格化するが、その前段は、それより10年前から始まっていた。
★ウエルナー報告書の提言
1971年8月15日、アメリカ大統領ニクソンが、金・ドルの交換停止を発表して、全世界を震撼させた「ニクソン・ショック」を引起した。しかしヨーロッパには、それより1年も前に、アメリカの経済政策に非常な危惧を感じた優れた政治家がいた。それがルクセンブルグの首相ピエール・ウェルナーである。EU(欧州連合)とその経済を語るのは、ウェルナーから話すのが分かり易いであろう。
1970年1月、大統領になったニクソンは大幅な財政拡大政策をとった。この政策により、アメリカの国家予算は69年には30億ドルの黒字であったのに、2年後の71年には230億ドルの赤字にまで膨張した。そのため71年春には猛烈な通貨投機により、アメリカ本土を離れた「ユーロ・ダラー」が欧州の中央銀行にあふれ、アメリカの金は大量に海外へ流出をはじめた。
そのため、アメリカの金準備は110億ドルに落ち込む一方、公的債務は250億ドルに増大し、実質的な金準備はマイナスになっていた。その状態になって、あわてたニクソンは、金・ドルの交換停止を発表したわけである。
このことによって、アメリカの豊かな金準備を背景にして戦後に作られた国際通貨の固定相場制=「ブレトン・ウッズ体制」の時代はおわり、常に投機のリスクを抱えた変動相場制の時代に移行した。
国際的に投機資金が荒れ狂う「地獄の釜の蓋」をニクソンは開けたのである。この変動相場制のこわさを知る優れた政治家が、ヨーロッパには既にそのとき存在していた。それがウェルナーである。
ヨーロッパは、経済統合と加盟国の協力関係を維持するためには、為替レートを安定させる必要があった。この考え方に沿って、1969年12月、ECは詳細な計画を作り、71年3月に承認された。これがウェルナー報告書である。
報告書では、次の3段階で通貨統合を行う提案をしている。
(1) 協調政策の立案機関の創立する。
(2) 為替レートの変更は合意により行う。
(3) アメリカのFRB(連邦準備銀行)に似た共同体の中央銀行を設立する。
第一ステップとして、1972年3月に、IMF(国際通貨基金)より狭い変動幅を持つことから「スネーク」という名称をつけられた国際通貨協定がEC(欧州共同体)内に創設された。
この協定に参加した国は、当時9カ国であった。この協定は、72年から73年の好況、73年から74年にかけてのオイルショックによるスタグフレーションなどの過程で起こった激しいドル投機のため通貨統合への移行過程は中断されてしまった。
★欧州通貨制度(EMS)創設
この事態を打開したのが1979年の欧州通貨制度(EMS)の創設である。フランスのジスカールデスタン大統領とドイツのシュミット首相が、世界的スタグフレーションとドルの乱高下の中で、欧州だけでも通貨の安定を図る必要があるという認識で一致した。
そこで79年3月13日の欧州理事会(首脳会議)に「通貨協力を強化して欧州に通貨安定地帯を構築する」ことを目指す欧州通貨制度(EMS)の計画を提出して了承された。
欧州通貨制度は単なる通貨協力ではなく、「長期的な安定成長、完全雇用の段階的回復、生活水準の調和化、共同体内での地域的格差の縮小」などを目指す総合的な政治・経済戦略であった。ドイツ、フランスは、このとき、政治統合までを含めた「総合欧州」推進の方針を定めていた。そしてこれが80年代の後半のジャック・ドロール委員長の下での市場統合の実現とマーストリヒト条約の締結につながっていった。
欧州通貨制度の中核をなしたのは、従来の「スネーク(蛇)」に代わって加盟国通貨の変動幅を上下2.25%に抑える仕組みであり、その中心はドルに代わって欧州通貨単位(ECU)がすえられた。
★欧州通貨単位(ECU)
欧州通貨単位(ECU)は、加盟国中央銀行総裁が構成する欧州通貨協力基金(EMCF)が発行し、加盟国の中銀は金・ドル準備の20%を上記の基金に預託して、代りに通貨単位ECUを受け取る仕組みになっている。
為替介入や中銀間の決済に使われるECUの価値は、当初はドルと等価であったが、世界的なフロート制の中でドルが下落したため、その価値が上昇した。(1995年4月4日現在、1EUC=1.3387ドル)。EMS体制化のECUは、ドルや円と違い,法貨でも準備通貨でもない。しかし加盟国通貨のバスケットとして相場が安定しているので、81年以降は銀行貸出,起債、公債発行などに利用されるようになった。
このような20年にわたる試行をへて、1998年に単一通貨ユーロが設定され、2002年1月以降、EUでは統一通貨としてユーロ紙幣・貨幣が正式に利用できるようになった。
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