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(3)アメリカの太平洋の世紀(その2)
●アメリカの太平洋の世紀
 1860年から1900年までの40年間にアメリカの工業投資は10億ドルから120億ドルに増加し,年間の工業生産額は19億ドルから110億ドルになった。この発展によりアメリカは、20世紀の初頭には世界一の工業国に躍進した

 この間にアメリカ大陸の内陸部の征服は終了し、西は大西洋から東は太平洋に面する広大な国土が大陸横断鉄道と電信線によって結合されることにより完成した。
 この巨大な大陸の全国市場は歴代の共和党政権により保護関税で保護され、鉄道建設とそれに併行した都市の発展は、重工業製品のみか消費物資に対する膨大な市場を作り出した。(世界歴史体系「アメリカ史2」)

 19世紀のアメリカは、大陸内の膨張と国土開発に専念していたが、19世紀末から帝国主義的政策が採用されるようになり、20世紀には連邦政府の政策の殆ど大部分を帝国主義的な政策が占めるようになった。
 アメリカの太平洋の世紀はここから始まる。

★ハワイ併合
 ハワイでは、1795年にカメハメハ王が、カウアイ島を除いたハワイ全島の支配に成功してハワイ王朝を築き、首都をマウイ島のラハイナにおいた。
 このハワイ最初の統一王朝であるカメハメハ王朝の成立により、ハワイの近代化が進むと、アメリカの貿易商、捕鯨船などが、オアフ島のホノルルやマウイ島のラハイナの港町に定着を始めた。

 アメリカの植民地政策の最初がこのハワイであった。1850年代は、ハワイのカメハメハ4世の時代であったが、この頃のハワイはアメリカ捕鯨船の一大基地であった。マウイ島のラハイナは、捕鯨船の港として発展し、「白鯨」の作者メルビルも捕鯨船員としてこのラハイナに滞在していた。
 この頃のアメリカは、通商海洋大陸としての歴史的絶頂期を迎えていた。1830-60年にアメリカ船の船腹量は5倍となり、スエズ運河開通が開通してヨーロッパと中国の距離も縮められた。

 19世紀の初めにカメハメハ王朝の許可を得て、ハワイにおける最初のサトウキビ栽培に着手したのは中国人であったといわれる。(山中速人「ハワイ」)
 その後、ハワイ王朝がキリスト教を国教として受け入れると、宣教師が教会に寄進された土地において砂糖きびプランテーション農業を始めた。
 アメリカ人の宣教師たちは、更に進んで聖職を捨ててビジネスマンに転向し、営利事業に専念し始めて、これがハワイの「5大財閥」の起源になった。

 1874年にカラカウアが王位につくと、ハワイ諸島の農業の近代化を企画し、特に、サトウキビ栽培を中心とする農業に力をいれた。しかし現地人は働くことに殆ど関心を示さなかったといわれる。そこで現地人の代わりに中国人が中心となってサトウキビ産業に従事した。
 
 ハワイの中国人はよく働き、評判もよく、ハワイの労働力の主体をなしていた。
 ところが中国人は、更に海を渡ってアメリカ本土への移民を始めたことから、アメリカ本土において中国人移民の排斥運動が起こった
 この中国人労働者の後を受けて、1885年頃から日本人のハワイ移民が始まった。

 1893年に、カラカウア王はサンフランシスコ滞在中に病没し、後を継いだ妹の皇女カイウラニが,王権の強化をうたった新憲法を布告しようとした時、白人たちがクーデターを起こした。
 カイウラニ王は、イオラニ宮殿に幽閉されて、ついに王位を追われた。
 
 クーデターにはアメリカの全権公使ジョン・L・スティーブンは、海兵隊160人を支援に参加させており、日本の満州侵略と殆ど変わらないやり口であった。
 クーデター後にハワイ併合の要求が臨時政府からアメリカ政府に出されたとき、
アメリカ大統領クリーヴランドは、ハワイ王国に対する重大な主権侵害が行われたと考えて併合を拒否し、更にハワイ王朝の回復すら考えたといわれる。

 このアメリカによる露骨な侵略行為に対して、日本海軍は邦人保護の名目で東郷平八郎が率いる戦艦「浪速」をホノルルに派遣した。当時、ハワイ在住の日本人は女王に同情的であり、日本軍艦の派遣は先住民を感激させたといわれる。
 しかし1893年、このクーデターによりハワイは共和国を宣言した。初代大統領サンフォード・ドールの弟は有力なサトウキビ耕主であり、クーデターはアメリカへの併合により本土向け砂糖の関税を免れることをもくろむ白人耕主たちによって企てられたものであった。

 ここで成立したハワイ共和国は、後に米西戦争の際、フィリピンに進駐するに当って太平洋上の軍事戦略拠点として非常に重要な位置にあることが認識された途端にアメリカの属領=「植民地」にされた。1898年のことである

 ハワイがアメリカの「州」になったのは、1959年のことである。
 アメリカでは、住民が白人でない地域は基本的に「州」にしないという規則があり、これがハワイが「州」になれない理由であったといわれる。

★キューバ、フィリピンの保護国化
 1895年、カリブ海のキューバで独立運動が再発して、スペイン政府は大軍を投入して弾圧をはかった。アメリカ人たちは自分たちの独立戦争の頃を想起して、キューバに同情して干渉要求を激化させた。
 アメリカの財界は、スペインとの戦争が景気に悪影響を及ぼすこと恐れて消極的であった。しかし在留米人保護の名目でハバナに停泊していたアメリカの戦艦メイン号が98年2月に爆破されたことから、アメリカ議会はキューバ独立のための武力行使を決定した

 キューバ戦争においてアメリカ軍は簡単にスペインの陸・海軍をやぶり、スペインはわずか三週間でアメリカに講和を求めた。
 1898年8月の休戦協定において、スペインはキューバを放棄し、プエルトリコおよび太平洋上のグアム島をアメリカへ割譲することを約束した。更にウェーキ島もこのときアメリカは獲得した。

 
 そして更に重要な事件が、遠くはなれたフィリピンで起こった。5月1日、この戦争の最初の戦闘となったマニラ湾の海戦で、ホンコンから急行した米アジア艦隊はスペイン艦隊を撃破し、陸軍は8月にマニラを占領した
 このマニラ占領は、キューバ開放を目的として始まった米西戦争の性格を一変させた。アメリカは、マニラの占領のみかフィリピン群島全島の領有を宣言した。
 このアメリカによるフィリピンの領有は、フィリピン人に対して「わが共和制度のもとで最高に発達したキリスト教文明の恩恵を与える」ためのものであるとされた。

 フィリピン領有を決めたパリ講和条約は、1898年12月に調印された。講和条件の論議中に、フィリピン領有論への反対がアメリカ内部で起こった
 その反対理由は、独立宣言により誕生した共和国アメリカが異民族を支配する帝国になることは、アメリカ民主主義の堕落とする思想にあった。
 ところがこの反対論は、微妙に人種的偏見と矛盾を含んでいた。それは未開のフィリピン人は自治能力を欠くから、アメリカはフィリピンを州にはできない。それゆえ植民地にするしかなく、それは民主主義に反するとするものであった。

 一方の帝国主義の側は、フィリピン領有はその住民に民主主義を教えるためであり、アメリカは国内での膨張過程でも州になる以前の領土を保有してきたと反論した。この言葉の前段は、ブッシュ大統領がイラクを侵略したときの言葉と、あまりにも類似していることに驚く。

 上院は99年2月、パリ条約を批准した。このフィリピン領有により、キューバ独立のための戦争は、気がついた時には、アメリカ帝国主義の戦争に転化していた。
 この米西戦争によって、アメリカはハワイの戦略的重要性を認識した。フィリピンに進駐する際、アメリカ本土からフィリピンまで無寄港で航海できる軍艦はなかった。1898年7月、太平洋における中継基地としてのハワイの重要性が一夜にして見直され、ハワイ併合は議会で承認された。

 フィリピン領有の決定と共に、1896年以来、スペインからの独立を求めて戦ってきたフィリピン軍はパリ講和会議の直前からアメリカ占領軍との戦闘に突入した。
 この米比戦争の規模は米西戦争を大きく上回り、アメリカによりスペインがキューバで行ったのと同じ残虐な作戦が展開された。
3年にわたる戦争でアメリカは7万5千人の軍隊を投入し、4千2百人の死者を出した。一方、フィリピンでは2万人以上の人々が飢えと病気と残虐行為で死亡した。ここにアメリカにおけるベトナム戦争の原点がある。
 
 キューバ独立も実際にはアメリカの保護国化であった。1901年のキューバ憲法には、アメリカの要求に沿って、キューバは独立を損なう条約を他国とは締結しないこと、また過大な債務は負わず、独立と秩序を守るためのアメリカの干渉を認めること、軍事基地をアメリカに提供するなどといういわゆる「プラット修正」条項が書き込まれていた。その上で、1902年、アメリカはキューバから撤兵した。 

 19世紀の終わりまでに、アメリカはキューバとプエルトリコにカリブ海支配の基礎を築き、フィリピン、グアム、ハワイ、更に1899年に獲得したサモアの東半分を加えて、太平洋に一連の拠点を作り出した。
 これらの帝国主義的な植民地の拡大は、キューバの独立支援から始まったものの、その実態はヨーロッパの先進帝国主義諸国の政策となんら変らないものであった。

 
 しかしその一方で、国内的にはハワイの併合に対してクリーヴランド大統領が異議を唱えたり、フィリピンの領有に対しては、独立宣言により誕生したアメリカが異民族を支配する帝国になることに反対運動も盛り上がったことも確かである。

 アメリカの太平洋戦略の行く先は大国・中国であり、ハワイ、フィリピン、日本は、中国進出への第1歩に過ぎなかったと思われる。

★ アヘン戦争とアメリカ商人
 オランダ東インド会社が1798年に解散したのに続いて、1834年4月22日にイギリス政府は長く続いた東インド会社による中国貿易及び茶貿易の独占権を廃止した。このイギリスによる中国貿易の独占の終了とともに、イギリス商人とアメリカ商人の間で中国貿易に対するしのぎを削る競争が始まった

 彼ら商人たちの貿易競争の殆どは、儲けの大きいアヘン取引に集中した。その大きな理由は中国における東西貿易の大きな不均衡にあった。
 中国に対する輸出品として禁制品であるアヘンが登場した大きな理由は、東西貿易における大きな不均衡にあった。つまり中国からヨーロッパとアメリカへ輸出される商品には、絹、茶、陶磁器など高級品がいくつかあったが、逆に中国へ輸出する織物、その他の商品に対する中国人の需要は非常に少なかった。
 この片側貿易を解消するため、中国人向けの輸出商品として登場したのがアヘンであった。

 アヘンはインドから殆ど無限に供給可能であり、インドを植民地に持つイギリス商人はインド産アヘンを中国へ売る三角貿易のルートを作り上げた。
 これに対してアメリカ商人は、トルコでアヘンを栽培して、先細りしてきた北西太平洋産の毛皮の輸出に代えようとした。

 1830年代には、イギリスのジャーディン・マディソン社がインド産アヘンの中国輸出で大きな利益を上げていた。これにアメリカのピーボディ、ラッセル、フォーブス、ロウ、デラノなど、有名な一族が中国でのアヘン取引に参入した。
 これに対して中国側でアヘンの購入・販売に当ったのは、広東の中国人商人組合であった。

 アメリカにおけるアヘン商人の代表的な人物であるウォーレン・デラノは、敬虔なキリスト教徒であり、第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの祖父であった。
 彼はアメリカ商社ラッセル・アンド・カンパニーの中心人物であり、「アヘン取引の遂行を正当化するつもりはないが、・・それは公正で名誉ある正当な取引であり、・・最高の人々がことごとく手をそめていたのだ」と述べている。(フランク・ギブニー「太平洋の世紀」上)この言葉をきくと、麻薬取引はそれに従事する人々の人格とは全く無縁に行われていたことが分かる

 1839年、清朝の道光帝は、儒教の伝統につながる有能な官僚であった林則徐を貿易顧問で麻薬の取締りの最高責任者に任命した。そこで林は早速、麻薬撲滅のキャンペーンを開始し、違反者を逮捕、腐敗役人を首にし、大量のアヘンを没収した。
 林則徐は次にアヘンの害を国民に周知徹底するキャンペーンを始め、更に進めてアヘンを購入して販売する中国の商館と外国の供給業者の封じ込めを図った。
 
 更に強権を発動して、イギリス商人に対してアヘン2万箱の没収に同意させた。イギリスは、これを女王の権威に対する干渉であるとして、1840年、4000人の将兵と16隻の軍艦を中国に派遣し、船山列島を占領、天津港を封鎖し、中国に賠償金支払いと香港島の併合に合意させた。

 イギリス本国は、これだけに満足せず、1841年、イギリス軍の増援部隊を乗せた軍艦を派遣し、南京条約(1842)を締結し、香港の割譲と広東,福州,寧波,厦門の4港をイギリス商人の自由な居住と通商のために開港させ、更に追加賠償金を奪い取った。その上、この条約ではアヘンについて一言もふれず、林則徐は辺境に左遷され、国際麻薬カルテルの圧倒的勝利に終わった。これが史上「最も汚い戦争」といわれる「アヘン戦争」のあらすじである。

 イギリスが清国と南京条約を締結すると、フランスとアメリカは、1844年にイギリスとほぼ同じ内容のものに開港場での教会設立権を加えた最恵国待遇を清国に認めさせる条約を締結した。フランスとは「黄埔条約」、アメリカとは「望厦条約」という。清国は、1843年の南京条約において上海,寧波,福州,厦門,広州の5港を開港したのに続き、天津・漢口等が開港され、開港場の数は清朝時代に70余に上った。

 これらの開港場では、西洋人たちは不平等条約のおかげで、いろいろな特権を与えられ、特に土地借用権を基礎に、上海等の16の都市には中国官憲の力が及ばない租界という名の外国の領土が中国大陸の内部に設立された。
 アヘン戦争の敗戦により清朝の権威はゆらぎ、賠償金、戦費などの調達のために税金は上がり、庶民の生活は苦しさを増した。しかもこの庶民の生活の苦しさに、1830-40年代にかけて、全国的に水害,干害,蝗害が発生して追い討ちをかけた。
 
 このような状況の中で、1850年の夏、「太平天国の乱」が起こった。太平天国が首都とした天京は、イギリスが貿易の拠点とする上海に近いことから、欧米列強にも大きな衝撃を与え、清朝に対する圧力を更に強化する政策に利用された。
 そのような状況の中で、1856年10月、広州で清朝の官憲が、イギリス国旗を掲げた中国人所有の船アロー号に乗っていた海賊容疑者を逮捕する事件が起こった。(アロー号事件)。

 イギリスとフランスは、この事件を口実に清朝に戦争をしかけ、1857年末に英仏連合軍は広州を占領し、清朝に条約改正を迫った。翌58年5月には連合軍は太沽砲台を占領して天津に迫ったため、6月、清朝はやむなく英仏両国と条約改正に同調するアメリカ、ロシアとそれぞれ天津条約を締結した。その内容は、外交使節の北京常駐、内地旅行の自由化と長江の開放,漢口、九江、南京など開港場10港の追加、賠償金の支払いなど、のちのちまで中国経済の発展に重荷となるものであった。
 この天津条約については、清朝の宮廷内部に条約破棄論が出てきたことから、英仏両国は60年7月、2万の軍隊を出動させて天津を占領、更に9月には北京を占領して、強引に「天津条約」の批准書の交換を行ったのみか、更に天津の開港,九竜の割譲,賠償金の増額を盛り込んだ「北京条約」を取り決めさせた。
 これら欧州列強の中国侵略に対して、1890年代には日清戦争により日本も参加、遅れて登場したアメリカは、1899年、中国の主権尊重・領土保全・機会均等を内容とする「門戸開放宣言」を発表して、中国全域に対する自由な経済進出を対華政策の原則とすることを宣言した。        

★ アメリカの中国進出
 アメリカが中国進出をはかった19世紀の末には、中国市場は欧米列強の草刈場と化しており、既に、アメリカは大きく出遅れていた。
 この状況を、ゾルゲ事件に連座して死刑になった尾崎秀実が、1937(昭和12)年に「列強角逐中におけるアメリカの対支政策」という論文(「尾崎秀実全集」第1巻,所収)において的確な分析を行っている。
 
 尾崎論文によると、19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカの中国に対する進出はかなり目覚しいものがある。
 1899年に中国に進出していたアメリカ商会は70であったのが、翌1900年には81になり、ハワイでも活躍したアメリカ宣教師の数は、1875年の200人から、1900年には5倍の千人になっている。

 またアメリカの対中輸出は、1895年の7.8百万ドルから1902年の33.2百万ドルに増加、中国からの輸入は、1895年の21百万ドルから1900年の28百万ドルに増加して、アメリカの対中貿易の比率は1896年の6.7%から1902年の10.5%に増大している。 

 1901年にはニューヨークのナショナル・シティー銀行の支店が進出し、アメリカ金融資本は日清戦争後の国際金融戦争にも乗り出していた。
 アメリカは、米西戦争によりフィリピンに足がかりを得て、中国市場の争奪戦に参加したもののかなり出遅れていた。
 その頃の中国には、既にロシアが満州、北支、ドイツが山東省、イギリスが中支、南支、フランスが南支に勢力範囲を設定しており、アメリカの入り込む余地は残されていなかった。
 そこでアメリカが考え出したのが、「門戸開放」、「機会均等」という政策であった。

 「門戸開放」に関する有名なヘイの覚書は、1898年9月に出されて、ここからアメリカの極東政策の新しい段階が始まった。アメリカは、既に日露戦争の後に「門戸開放」の大幟を立てて満州へ進出を試みていた。
 その地域が最も欧米資本の抵抗の少ない土地と考えたからである。ところがそこには同じように出遅れて帝国主義に参入した日本が進出を試みていた。

 そのように見てくると、ペリー来航以来始まった日米関係は、欧米列強に対して出遅れた国家同志の関係であり、その両者が、はからずもぶつかりあった場が満州であったといえる。そしてその結果は、最後には太平洋戦争にまで発展したわけである。 その事情は「日本の行方」の日米関係のところで述べる。




 
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