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(8)ソ連の終焉と「独立国家共同体(CIS)」の成立
★ソ連解体と「独立国家共同体」の創設

 91年8月クーデターの失敗は、ロシアの内政に大きな変化を齎しただけでなく、ソビエト連邦の各共和国の関係も大きく変えた。すでに90年3月に独立したバルト3国に続き、91年12月にウクライナ、91年8月にベラルーシュをはじめ、モルドバ、アゼルバイジャン、キルギス、ウズベク、タジク、アルメニア、ツルクメン、カザフスタンなどが独立宣言を行った。

 これらの独立国家の共同体を作る試みが、91年12月8日に、エリツィン・ロシア大統領、クラフチュク・ウクライナ大統領、シェンケビッチ・ベラルーシ最高会議議長の3首脳がミンスクで会談して行われた。その結果、緩やかな「独立国家共同体」〔CIS〕を創設する決議がなされた。

 91年12月21日、グルジアとバルト三国を除いた旧連邦共和国のすべての大統領が、このCISに加入のためにアルマ・アタに集まった。そして「独立国家共同体」の原則と目的が宣言書に定められ、参加11カ国の首脳により調印された。これにより旧ソ連のすべての政府機関と官庁は解散した。この時をもってソ連の74年の歴史が終わった

 CIS諸国は、旧ソ連の条約や協定にある国際的義務の履行を保障した。戦略上の安定,安全を望む面から軍事戦略圏と核兵器管理をつかさどる統合司令部はそのまま維持されることになった。将来の相互調整のため、共同体の最高機関としては、首脳会議と閣僚会議が設けられた。首脳会議の方は、年2回開催され、共同体のための主要な記録文書の作成、その変更、補足の権限が与えられ、閣僚会議は年4回開催されることになった。

★エリツィン・ガイダール政権による急進的経済改革
 91年10月のIMF〔国際通貨基金〕と世界銀行の年次総会の際に開かれたG7(先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議)にヤブリンスキーを団長とするソ連代表団が招かれ、ソ連経済に対する本格的支援について話し合いがなされた。
 この時、G7側から援助に当たって、次の4条件が出された。
(1)ソ連がIMF等の協力を得て、包括的経済改革プログラムを策定・導入する。
(2)対西側債務を連邦と共和国が期限どおりに返済する。
(3)債務返済の実務的な枠組みを確定する。
(4)経済・金融データを開示する。

 この条件に沿って、91年10月、エリツィンはガイダール首相を政府の全経済活動の長に任命し経済改革の策定に乗り出した。それによってつくられた経済改革の構想は、10月21日のエリツィン演説によると、経済改革の関連部分は、ロシア経済の安定化措置に関する提案、民営化の推進と私企業発展計画からなる。特に経済の安定化については、価格自由化、財政再建計画、税制改革、銀行制度改革などの基本方針が明らかにされた。

 価格の自由化については、12月3日の大統領令「価格自由化に関する方策」、12月24日のロシア政府の決定により詳細が明らかにされた。これによると社会的に重要な基本的生産財と消費財を除き、すべての生産財、消費財、作業及びサービス、農産物の買い付け価格が、需給によって形成される自由〔市場〕価格・料金に移行することになった。
 
 ロシアの市民は、74年前の革命以来、「市場経済」の経験はない。 それが、92年1月2日に、突然、全面的な価格の自由化が行われたわけである。その結果は、生活費はたちまち3倍に上がり、ある種の消費財、サービス料金は10倍に跳ね上がった。配給制は崩壊し、企業は原料を自由価格で購入しなければならないのに、国家に収める製品は統制価格で納入しなければならず、生産高は破局的減少を見せて、食料品、工業製品の供給が妨げられた。
 国営市場での統制価格と個人商店での自由価格の2本建ては、供給面を混乱させた。
 資本主義経済の形式的適用による機械的な価格引き上げが、「自由化」の実態であった。ここからロシア経済の混乱が本格化していった。
 
 このIMFが、対ソ支援の政策として行った考えた経済改革のプログラムが、「ショック療法」と呼ばれるものである。資本主義における自由市場の原理を、相手方の経済的条件も考慮せず機械的に適用するものであり、ソ連のマスコミには、ペレストロイカをもじって「カタストロイカ」(ペレストロイカが齎したカタスロフィーの意)という言葉まで登場した。

 92年1月14日に、これまでは忠実なエリツィン派として知られていたハズブラートフ最高会議議長は、価格自由化ではなく、「無政府主義的に生じた物価騰貴」の横行であり、また国営農場(ソフホーズ)と集団農場(コルホーズ)を解体するというエリツィン・ガイダル計画は愚挙であると批判した。またルツコイ副大統領も、この「ショック療法」に反対の立場をとっており、「経済特別事態」宣言を出して、一時期「強力な国家権力」が必要であることを主張した。
 国民大多数の間には次第に落胆と不満が広がり、旧共産党幹部、右翼民族主義の双方から反エリツィンの動きが活発化し始めた。

 財政再建計画をみると、旧ソ連の財政赤字は、90年の1089億ルーブルから91年1500億ルーブル(GNP比約14%)に拡大、92年には旧ソ連諸国の赤字累積総額は1兆ルーブルを越えた。しかもこの歳入欠陥の90%以上をファイナンスしてきたゴスバンク(中央銀行)の信用創造は、91年に対前年比4.8倍という通貨発行高の激増を齎し、92年12月には年率300%という物価上昇の原因になった。




 
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