(2)ペレストロイカの第一段階 −社会経済発展の加速化(スカレーニエ)
ゴルバチョフが政権の座に着いた85年以前、つまりフルシチョフの後を受けたブレジネフ、コスギン政権以降のソ連の社会は、停滞し活力を失い、社会的・経済的発展に対する「ブレーキ機構」が形成されてきていた。その停滞の最大原因は、ソ連共産党による一党独裁からくる中央集権的国家体制とそれに基づく官僚制的・非能率的経営機構にあった。これを民主的原理に基づく管理制度に改革し、経済を効率化していくことがゴルバチョフによる新政権の「緊急の課題」であった。
そのため1985年4月23日の中央委員会総会において、ゴルバチョフは『社会経済の発展をスピードアップ』することを要求し、更に、中央本部の計画に従いつつも、官僚機構の大幅な削減と企業の自主権を拡大することなどを考えていたようであるが、彼自身は、当初その戦略を必ずしも明確にしていなかった。
ゴルバチョフのペレストロイカのブレーンをつとめたヤコブレフは、著書『歴史の幻影 ロシア−失われた世紀』(邦訳、日本経済新聞社)の中で、改革に着手した85年段階において、『準備されたコンセプトや目的とその達成日を定めた実行計画はなかった』と述べている。それらは党の最高首脳部〔保守派〕抜きでは出来なかったし、彼らは現行制度の手直し位しか受け入れうる状態にはなかった。
ペレストロイカの不幸は、ブレジネフ政権下の「ブレーキ機構」の中で出世してきたソ連の最高首脳部の幹部達の多くは、その内容も必要性も理解していなかったことにある。たとえば85年4月の中央委員会総会において、アンドロポフから推されて政治局の正局員になったリガチョフは、かなり明確な反改革側であった。
その彼はペレストロイカを、全体主義の時代の意識改革の1つと理解し利用した。85年6月にリガチョフが中心になり、ペレストリカの最初の運動として全国的に展開したのが『飲酒とアルコール中毒に対する大闘争』であった。
この運動によりウオツカ、ワイン、ビールの生産は激減し、国家財政に大ダメージを与えたのみか、国民の飲酒量は逆に増加し、ペレストロイカは只の意識改革にすりかえられた。ヤコブレフは、ゴルバチョフがこのリガチョフを更迭すべきであったと書いているが、ゴルバチョフは西欧的な民主主義の立場に立つ理想主義者のような人で、改革反対派を最後まで排除せず左右のバランスをとろうとしていた。
更にペレストロイカにとって不幸が重なった。改革に着手した翌86年4月26日、チェルノブイリの原子力発電所で大事故が発生した。この事故によりソ連の科学技術や工業技術の信頼性は大きなダメージを受けただけでなく、ゴルバチョフによる「グラスノスチ」(情報公開)がソ連の現実には適合しないことを世界に示してしまった。この事故において政治局の幹部たちは、スターリン時代そのままに情報の発表を遅らせて、ことの重大性を隠したからである。
つまり1985-87年のペレストロイカの最初の『加速政策』は失敗に終わった。しかし一方でこの第一段階において、その後のペレストロイカに大きな影響を与える重要な事が行われた。
その第一は、87年1月1日に『国家品質検定機関』が新設されたことである。これは従来の生産量第一主義に対して、消費者の立場に立って商品の品質の規格を決定し、検定を行う機関である。社会主義経済では従来は殆ど無視されてきた領域に対して、国家機関が設立されたことは特筆されるべきであろう。
また第二は、同年6月、国営企業に対して、一定の自主性を与えた『国営企業法』が制定されたことである。この2施策は、市場経済の導入の前提として必要不可欠なものである。
(3)ペレストロイカの第二段階 −グラスノスチと民主化
87年になってようやくペレストロイカは、少し軌道に乗り始めた。しかし革命から70年間、社会主義官僚の指導により「市場経済」とは無関係な「統制経済」により運営されてきた経済体制は、一片の法律でつくりかえることはできない。
中国の社会主義経済の導入に当たっては、すでに80年に『経済特区』を設けて資本主義的な市場経済システムの実験的導入を始めていた。そして、それには海外の華僑たちが多数参加して協力していた。ソ連には、不幸にして市場経済へ移行するための素地がなかった。
88年になってソ連でも『自由経済特別区』、『自由企業特別区』の構想が頻繁に討議されるようになったがペレストロイカと同様に論議ばかりが先行し、実際の実験的体制は後まわしになっていた。このような状態で『市場経済』を形式的に導入すると、つくられた市場は、統制経済時代に形成されてきた特権的官僚=「ノーメンクラツーラ」や経済マフィアに利用される恐れがつよくなる。そして実際に、その後のロシア経済では、正常な市場よりは悪徳官僚や経済マフィアたちによる闇市場の方が発達してしまった。
1987年にゴルバチョフは、自ら筆を取って「ペレストロイカと新しい考え方について」(邦訳「ペレストリカ」、講談社)という著書を発表し、ペレストリカの啓蒙と実践に乗り出した。彼の著書は、自国民と世界の人々にペレストロイカとその影響を理解してもらうために、ペレストロイカの意味・内容と国際政治への影響の2部で構成された。
第一部では、ペレストリカの起源、本質と党指導部に対する「上からの革命」とあらゆる企業・職場における『草の根運動』としての意義、そしてその2年半の経過とグラスノスチ(情報公開)と民主化の必要性と重要性、経済改革、意識改革、組織改革の内容、そしてそれらに対するソ連共産党の役割などがわかりやすく説明されている。
第二部では、デタント(=東西の緊張緩和)路線が崩れようとしている状況に対して、逆にペレストロイカを通じて、デタント路線を促進・強化するためのターニング・ポイントとする考えが示された。また外交政策においては、『対話』、あいまいさを払拭した正直で率直な外交へのアプローチなど、従来のソ連外交からの転換が語られている。また社会主義諸国に対しては、従来のソビエト中心から、新しい協力関係へ移行することが提案された。そしてなによりも米ソの敵対関係の解消、軍拡競争の中止と軍縮が提案された。この方向に沿って、87年12月、INF(中距離核戦力)全廃条約がアメリカとの間で締結された。
1987-88年には、ペレストロイカを支える基本概念であるグラスノスチ(公開性)と民主化に主眼がおかれた。ソ連の全体主義にとって、その秘密保持システムは重要な要素であり、官僚の職権乱用を隠蔽する手段としても利用されていた。そして情報の公開性は、民主化の問題とも密接につながっていた。たとえば映画を例にとっても、政治的な理由で上映禁止になっている映画は、当時30本もあり、5年から15年も眠っているものがあった。このような映画を事前の許可手続なしで、一般公開する試みが始められた。また新聞、雑誌、TVに対する事前検閲も解消していった。
87年1月には映画検閲が廃止され、2月には、反体制知識人140名が開放され、パステルナークの名誉が回復された。更に、88年2月には、ブハーリン、ルイコフ、カーメネフ、ジュノビエフなど、スターリン時代に粛清された政治家の名誉回復も行なわれた。
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