(5)ペレストロイカの変貌と混乱 ―政治改革の進行と民主化の発展
★政治改革の進行
1989-91年、ペレストロイカの政治改革がいろいろ実行に移される中で、ペレストロイカ自体は当初ゴルバチョフが考えたものとは大きく異なる方向へ動き始めた。そして一方では、従来のソ連共産党による支配体制に戻そうという反改革派の動きと、他方ではソ連共産党による改革からはみだした民主化勢力との闘争が入り乱れて、混乱が広がっていった。
そしてその結果は、91年8月19日の反改革派のクーデターとなり、そのクーデターの失敗はソ連国家の解体につながっていった。
その最初は、89年3月26日に行われた人民代議員の複数候補制選挙から始まる。この時は、まだ本当に自由な選挙とはいえなかった。その理由の第一は、候補者の3分の1が、ソ連共産党を筆頭にする『社会団体』に属する人であり、上から定められた人々であったことにある。 第二は、党官僚機構がまだ勢力を十分保有しており、企業、官庁、公共機関などで、厄介な候補者は事前に排除されていた。また第三は、選挙区によって、1人の候補者しかいない地区もあったことなどにある。
★エリツィンの大勝利
しかしこの選挙で、エリツィンは多くの地区集団や労働者集団の支持をえてモスクワから人民代議員選挙の候補者として出馬し、3月26日の選挙では、モスクワ市民680万人中、510万票を獲得する大勝利をおさめた。
この時、対立候補のブラコフの得票は40万票にすぎず、モスクワ政界の支配勢力は大敗を喫した。レニングラードでも民主派のサプチャックが、76%の得票で当選するなど、大都市ではペレストロイカ左派とでもいうべき民主派がこの選挙で進出した。
この最初の代議員選挙では、2250人の代議員の内、筋の通った改革派は300人ほどであったが、この選挙が党の官僚機構に与えたダメージは大きかった。4月25日の党中央委員会総会では、もうこれ以上は対処できないと考えた74人の中央委員会委員と24人の同委員候補が引退を申し出た。
89年5月25日、複数候補制によって選ばれた第一回議会(=人民代議員大会)が開かれた。その日の議題は最高会議議長の選挙であり、結果的には、95.6%の支持を受けてゴルバチョフが選ばれるが、予想に反してエリツィンを推挙する代議員も出たことに注目される。
★ゴルバチョフのソ連最高会議議長就任と改革派の勢力拡大
議長選挙は、秘密選挙により2123人がゴルバチョフに投票、87人が反対、11人が棄権し、ゴルバチョフが5年の任期でソ連最高会議議長に就任した。続いてソ連最高会議の542人の代議員が選出された。しかしこの時、改革派の主要なメンバーはすべて落選し、事前に根回しされていたことが明らかになった。そのことに抗議して大きなデモがおこったほどであった。
ゴルバチョフは、5月30日に『ソ連国内及び対外政策の基本方針』と題する報告を行い、内政では計画経済と市場経済の融合を目標に掲げた『徹底的な経済改革の続行』、連邦の各民族の『全般にわたる自由な発展』を訴えた。しかし、この時点でペレストロイカによる改革派は、もはやゴルバチョフから離れ、エリツィンなどを中心に野党的色彩を強めていたことが注目される。
エリツィンは、大会6日目に演説を行い、汚職、犯罪は跡を絶たず社会道徳の支柱は失われてきており、民族問題におけるグルジアでの流血事件は、「自国の民族に対する犯罪」であると述べた。また改革派のアイマートフは、共産主義のイデオロギーに対する厳しい批判と、真の社会主義の発展は、スウェーデン、オランダ、フィンランド等繁栄する法治国であるとする演説を行い、大きな反響を呼んだ。
これらの大会の模様はTV中継され、エリツィンの言葉を借りれば、『ソ連国民にとって、マルクス・レーニン主義による政治教育の70年間以上に重要な大会』となり、この大会を通じて、『国民は長い眠りから目覚めた』。
この人民代議員大会を契機に、ゴルバチョフ政策に飽き足らない急進派代議員たちは、『地域間代議員グループ』を結成し、連邦憲法の『ソ連共産党の指導的役割』に関する第6条の削除と国民による大統領の直接選挙を要求した。ゴルバチョフによる共産党の指導下でのペレストロイカの枠が壊れた。
★ソ連最高会議(国会)の発足と『民主改革運動』
1989年6月3日、新しいソ連最高会議が発足した。271名ずつの代議員が、それぞれ連邦会議(上院)と民族会議(下院)に属し、この両院にそれぞれ4つの常任委員会が置かれた。
連邦会議には、予算・財政・産業・エネルギー・科学技術・交通・情報科学・労働及び社会政策が含まれ、民族会議の方には国際関係、連邦共和国と自治共和国の経済的・社会的発展、大量必要物資、各民族の文化・言語・伝統などの発展を検討する委員会がふくまれた。
このほかに国防・国家保安を含む14の『常設委員会』の設置が決められた。
本格的な議会ができたことは、ソ連の国家統治の歴史に新しい時代をひらいた。
このような国家組織の民主化とともに、過去の弾圧による犠牲者の社会復帰に関する指令が採択され、無実の罪で逮捕されていた26万人の人々が解放された。一方、89年7月10日以来、シベリアで始まった炭鉱ストライキでは、「ストライキ委員会」が結成されて、従来の「労働集団委員会」や公認の労働組合をしのぐ勢いとなり、7月には数十万人の規模に拡大した。
ゴルバチョフの言葉を借りれば、『政治危機を招きかねない規模と形をとり』、『4年間にわたるペレストロイカ最大の試練』になりつつあり、既成の労働組合への信頼は完全に失墜していた。
これらの状況を背景にして、89年9月16日からレニングラード『人民戦線』の音頭とりで、「民主化運動・組織の第1回会議」が開催され、ソ連の82組織から162人の代表が集まり、ロシアの20都市の代表が送られた。
この会議では、民主勢力の活動を全土的に組織化し、統一するため、『民主派組織の地域間同盟』の結成が決議された。アルメニア、グルジア、ウズベクの民主化組織もこの同盟に加わった。この頃から、ペレストロイカにおけるソ連共産党と民主化運動の対立が表面化してきた。
★ロシアの民主化の進行とソ連共産党による一党独裁制の終焉
90-91年にかけてソ連共産党による一党独裁国家から複数の民主派による議会制に基づく民主主義国家への移行が始まる。90年1月20日から2日間、100あまりの市から民主派の代表がモスクワに集まり、「民主化の展望」なるものを可決した。この内容は、共産党の独裁を拒否し、民主的議会制の発展を推進するというものであった。
そこから発生した選挙ブロック「民主ロシア」が、90年3月4日のロシア連邦人民代議員選挙において大きな役割を果たした。「民主ロシア」は、2月4日と25日に大規模なデモを組織し、20万人以上の人々が参加していた。更に「民主ロシア」は、3月4日の選挙にあたっては、候補者を『民主派』と『共産系』に区別するまでになっていた。
この年の選挙戦では、特に民族問題についてゴルバチョフとエリツィンの意見の相違が目立ち始めていた。ゴルバチョフは、ソビエト連邦の統一・維持を第一に考えているのに対して、エリツィンは、すでにこの時点で独立した連邦による共和国をイメージして、国内の州や共和国を経済面で区分し、そこに独立した管理体制の導入を考えていたようである。
90年2月のデモでは、ソ連共産党の一党独裁反対と改革の促進を要求していた。3月の選挙では、民主派の影響力は増大し、スベルドロフ地区で立候補したエリツィンは大勝利をおさめていた。これらの状況は、ソ連人民代議員大会の代議員に大きな影響を与え、3月14日にはついに複数政党制に関する憲法改正案が可決され、ロシア革命以来のボルシェビキによる一党独裁制は終焉を迎えた。
77年10月のブレジネフ憲法では、第6条にソ連共産党が、「ソ連社会の指導力、ソ連政治体制と国家及び社会組織の中核」と規定されており、ソ連共産党は「社会発展の見取り図」及び「ソ連邦の内政、外交の路線」を決定してきた。
これに対して新憲法第6条では、社会的組織、大衆運動及び政党(複数)が、「ソビエト国家の政治及び国家的、社会的業務の仕事に参画する」権利がある、と定められた。また修正第7条には、ソ連共産党(及びその他の組織)の活動は、憲法とソ連の法律の枠内で行われる,という項が加えられた。
★ソ連大統領選挙と民主諸政党
90年のソ連大統領選挙には、はじめゴルバチョフ、ルイシコフ、バカーチンの3人の立候補者がでたが、後の2人はすぐに立候補を取り下げ、結局ゴルバチョフ1人が残った。しかし左右両派の抵抗は根強く、3月13日のソ連人民代議員大会においてゴルバチョフは1392票(59.2%)の得票で大統領に選出されたが、495人の反対票がでた。
ゴルバチョフは、ソ連の国家元首として、『ソ連邦と連邦共和国の主権及び国家の安全保障と領土権の擁護,並びにソ連邦内の民族国家組織の方針実現に必要な措置』をとる強大な権限を持った大統領に就任した。
90年の春、ソ連の政界は共産系と民主派にはっきり2分されていたが、『民主ロシア』運動を基盤として、多数の政党が誕生していた。公然と市場経済、私有財産を支持する「ロシア連邦社会民主党」、ソ連共産党官僚機構の解体とロシアに民主化をスローガンとする「ロシア民主党」、キリスト教民主派の3党、などの他、ソビエト派、右翼の「ロシア自由民主党」などの政党も活動を始めており、共産党の勢力が衰退したことを示していた。
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