(6)ロシア連邦の独立とソ連の弱体化
★ロシア連邦の自主独立宣言
90年5-6月、第1回ロシア連邦(当時は、旧称のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)の人民代議員大会が開かれた。この大会においてエリツィンは、13条の綱領を公表した。それによるとロシア共和国は、『民主的独立法治国家』であり、他の連邦共和国諸国とロシアとの関係は、条約により定められるとし、憲法は「政治の多元主義と議会制民主主義の枠内で機能する複数政党制」を保障するものとした。
90年5月の最後の週には、ロシア連邦最高会議議長の選出をめぐって、過半数を占める共産党議員団と民主派との間で激論がたたかわされた。何回かの投票が重ねられ、最後の投票でエリツィンがロシア最高会議議長に就任した。
6月12日、人民代議員大会は、エリツィン議長の下、ロシアの自主独立宣言を行つた。この時から、ゴルバチョフとエリツィンの位置関係は大きく変わった。ゴルバチョフは90年3月以来、ソ連人民代議員大会で選ばれたソ連大統領として強大な権限をもっていたが、国民投票により国民の審判をあおいだことはなかった。
これに対してエリツィンは88年にモスクワ、90年に故郷のスベルドロフスクで、選挙に大勝した実績を基盤に、ロシア議会の議長になった。形の上では、ソ連共産党員ではあるが、『民主ロシア』のリーダーとなっていた。このことにより90年初頭には、ゴルバチョフが率いるソ連共産党は、ロシア共産党の結成により更に弱体化した。
90年7月2日から始まったソ連共産党第28回党大会が、ソ連共産党の最後の党大会になった。党書記長ゴルバチョフは、主演説でソ連共産党の指導による大改革の成果を報告し、民主路線の枠内で政治を行い、議会政党として活動する「革新共産党」なるものを提唱した。この発言は、従来の書記長報告を大きく逸脱したものであり、出席者の大多数は固く沈黙を守り、拍手もすくなかったといわれる。
この大会は、左右の激しい意見の衝突の場となった。ここでエリツィンは、徹底した党批判を行なったが、拍手はなく、党大会が終わりに近づいた7月12日、エリツィンはソ連共産党からの離脱を宣言した。
90年夏からソ連共産党の権力と党員数は、下降の一途を辿った。7月から9月までに53万人が離党した。90年10月1日には党員数は1770万人であったが、91年3月には1600万人に減少し、130万人の党員が党費を納めなくなった。
★シャターリンの『500日計画』
90年5月24日、ルイシコフ首相はソ連最高会議に『統制された市場経済』の導入を目的とした経済計画の草案を提出した。市場経済への移行を中央集権的方法によって行うとするこの案は、徹底した批判にさらされ、6月13日に最高会議は受理を拒否し、9月までに計画の練り直しを命じた。ところがこの年の夏、このルイシコフ案に対抗するエリツィンの経済改革案が発表された。この改革案(「信頼の500日計画」)は、抜本的かつ急進的な改革処置により、500日でソ連を市場経済に移行させようというものであった。
ゴルバチョフとエリツィンは、8月1日に合同経済専門委員会を設置し、このエリツィン計画を土台にして、合同の経済改革案を作ることに合意した。この改革案は、議長にゴルバチョフの顧問であった中央数理経済研究所長のシャターリンの名をとり、シャターリンの「500日計画」と呼ばれた。シャターリン委員会は、9月1日、600頁に及ぶ改革草案を提出した。
この改革案は、「国民の経済的自由」の獲得を目的にして、90年10月1日を開始日として、4期に分けて、終了日には建築業と小売業の70%を民営化しようというものであった。最初の準備期間(100日間)には、改革を平等に進めるために、連邦共和国との合同経済委員会を設置して、市場経済への法改正を進める。国民には私有財産と企業の民営化への権利が与えられ、国営企業と集団農場は大規模に民営化が予定された。
農地改革を行い、集団農場で働く人々は、そこから脱退して土地を持てるようにし、増大する財政赤字には、厳しい通貨政策と連邦の大幅な支出削減―特に国防費とKGB予算の20%カットにより対処する。新銀行制度の導入に直ちに着手するとした。
第2期(250日まで)には、小売価格の統制を徐々に解除する。国営大企業は民間企業に売却し、その売却益で国家の負債を削減する。その際、外国からの投資は歓迎する。
第3期(400日まで)には、市場の安定化、大半の小売業、レストランの私有化を行い、この期の終わりまでには、産業資本金の40%まで、土木・運輸の50%、商業・サービス業の60%までを株式会社、売却、賃貸に変える。物価は完全に自由化され、ルーブルは市場レートに1本化される。
第4期(500日まで)には、産業の70%、建設業の90%が民営化される、という構想であった。
90年9月4日に「イズベスチヤ」が、『500日計画』の骨子を掲載した途端に、改革支持者と改革反対派の間で論争がはじまった。当初はこの計画に対して断固たる姿勢を示していたゴルバチョフは、反改革派の圧力と国民の混乱から、結局、この案に反対の立場をとった。
そして9月17日に、最高会議において、改革のブレーキとしてのルイシコフ案と完全な市場経済計画としてのシャターリン案の折衷案の提案をし、10月13日に各共和国の指導層の集会に苦肉の折衷案を提出した。そしてこの折衷案が、ルイシコフやリガチョフの賛成を受けて、10月19日にソ連最高会議で『ソ連経済安定化と市場経済への移行のための基本方針』として可決された。しかしこの折衷案は、中央指令型経済にそった改革と市場経済への移行を望む改革案という異質なものをまとめたもので、実行不可能な案であり、その上に、期限の指定が全くかけていた。この頃から、ペレストロイカは急激な後退を見せ始めた。
★ロシア大統領選挙
91年3月はじめ、炭鉱労働者のストライキが各所で起こった。そこでは賃上げや待遇改善の上に、ゴルバチョフの退陣や連邦政府の廃止、複数政党による選挙、国家組織からの共産党の分離をはじめとする政治的要求が出されていた。ストライキ委員会とゴルバチョフ及びパブロフ首相との交渉が合意に至らないまま、ストライキは他の産業部門にも拡大する勢いを見せていた。このような状況の中で、ロシア人民代議員大会が開かれ、ロシア大統領選挙の方法が審議された。
ゴルバチョフの提案で、大会期間中はデモ、集会などすべて禁止されており、モスクワの市は軍が統制していたが、プーシュキン広場では改革派の集会が行われていた。
人民代議員大会の議長候補には、反改革派でロシア共産党議長のポロスコフと、改革派のエリツィンの2人が出て、共産党議員団が数の上では優勢であり、ポロスコフの議長就任が確実に見えた。ところが突然、「民主主義を目指す共産党員」と銘うったルツコイのグループがポロスコフの側を離れてエリツィン側についた。
91年4月半ばから新設のロシア大統領選挙の準備が始まり、大統領候補者としては、エリツィン、ルイシコフ、ツレエフ、ジリノフスキー、マカショフ、バカーチンの6人が出た。共産派のポロスコフは、大統領制の導入に反対して、大統領選挙には出なかった。6月12日のロシア大統領選挙の結果は、エリツィンが全投票の57.3%の票を獲得して、ロシアで初めて国民からの自由選挙で選ばれた元首として、7月19日にロシア大統領に就任した。エリツィンは、ロシア国民に対する挨拶で、政治の「抜本的改革」により、ロシアを「民主的な、平和を愛する主権法治国」に発展させるために尽力すると述べた。
同時に始まった第5回ロシア人民代議員大会では、新しい最高会議議長の座をめぐって改革派のハズブラートフと反改革派のバブーリンが鋭く対立していた。何回投票を行っても、どちらかが過半数を取ることができず、10月になってようやくエリツィンの支持者であるハズブラートフが、勝利を収めた。ロシア人民代議員大会は、更に多数決により、軍内部の共産党による統制を解除する決議をした。
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