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(4)ペレストロイカの第三段階 ―政治改革の実施
 1988年6-7月にモスクワで行われた第19回党協議会は、70年のソ連共産党の歴史に一線を画する重要な会議になった。第一に、『党協議会』という形式自体が1941年以来行われていないものであり、91年に予定されている定期の党大会を事実上繰り上げて、ペレストロイカを論議するための会議となった。
 この協議会に出席した4991人の出席者を前にして、ゴルバチョフは、過去の政治体制と現在の官僚主義に対して辛らつな批判を行った。この頃から、ペレストロイカに対する反改革派の抵抗も非常に激化していた。

★国会の新設
 この協議会において、ゴルバチョフは、政治組織に関わるかなり大きな改革の提案を行った。その第一が『国家権力の最高機関』としての「ソ連人民代議員大会」の創設である。この大会は、2250人の代議員で構成され、1年に1回開催され、国家の重要な憲法上の問題や、政治、経済、社会問題を審議するものである。更にこの人民代議員大会から、2院制の最高会議が、常設の立法、行政、監督機関として設置され、400人から450人が委員として選出されることになる。

★大統領制の導入
 従来の『ソ連最高会議幹部会議長』の代わりに、『最高会議議長』を新設し、このポストを『大統領』と呼ぶ。大統領の機能は、法律の立案、重要な社会、経済面の計画に関わる全指揮権を持ち、火急の外交問題、国家の安全保障問題の決定、国防会議の管理、ソ連閣僚会議議長の指名などである。

★協議会の討議
 会議では、261人の代表者が発言をもとめ、70人が直接、討議に参加して、かってないほどの白熱した討議が行われた。特に注目されたのは、経済学者レオニード・アバルキンの演説で、党と国家官僚機構の同一議長による連合は、国家と政党の分離という意図に反するとして、ソビエトの社会組織と一党独裁制を維持したままで、社会生活の民主化ができるかどうか?をといかけた。
 中国共産党が、77年の党規約に取り上げた『4つの現代化』(農業、工業、国防、科学技術)には完全に欠如している社会主義国家における「政治体制の現代化」を、ソ連共産党は協議会の討議にかけたわけである。

★ボリス・エリツィンとその演説
 エリツィンは、ゴルバチョフと同年の31年生まれである。ロシア中央部を南北に走るウラル山脈の東側の町エカチェリンブルグで州の第一書記をつとめていた。85年4月、リガチョフによりモスクワに呼ばれ、中央委員会書記局員に抜擢された。その3ヵ月後には、モスクワ市委員会第一書記をへて、党中央委員会建設部門書記に昇進し、更に12月には、ゴルバチョフが、モスクワ市党委員会第一書記に任命した。
 彼はタフで気性が厳しく、モスクワ市の特に官僚主義と汚職の問題において古参のグリシン派の人々と対立し、市党委員会のメンバーを次々に入れ替えて強引に仕事をすすめた。

 86年、モスクワの人口は予定より110万人も超過しており、住宅は欠乏し、食料品、医療も確保できない状況にあった。エリツィンは、これらの状況を自分で把握し、実地に即した解決を行い、高い評価をうけた。特にペレストロイカにより、広範囲な民主化を行いたいというのが彼の意見であり、改革派代表的人物の一人となった

 しかし87年段階では、ペレストロイカをめぐってのゴルバチョフとエリツィンの見解は大きく食い違ってきていた。10月21日の中央委員会総会の席上で、エリツィンは党指導部の仕事のやり方や最高幹部達の特権、特に改革反対派のリガチョフ個人を痛烈に批判して辞職した。

 88年1月には政治局を追われていたエリツィンが、この協議会で党と国家のあらゆるレベルで選挙に基づく民主政治を求める、優れた演説を行った。たとえば書記長が交代するときは、全指導層も一緒にいったん退陣すべきであり、故ブレジネフ時代の指導者が何人も残っているのに、政治停滞の責任をブレジネフ一人に負わせるのは誤りであると述べて、そこに列席する政治局員の責任を追及した。ソ連共産党の会議の席上でこれほど思い切った要求がでたことはかってなかった。

★協議会の結果
 この協議会の結果、1917年以来、初めての複数候補制による人民代議員会議の選挙が、89年3月26日に行われることが決まった。そしてソ連で最初の議会(名前は、ソ連最高会議)がスタートし、その内容がTV中継されて、民主化への大きな圧力となった。また反改革派のリガチョフたちに一定の配慮を示すゴルバチョフに対して、改革派エリツィンの存在を明確化することになった。

 この協議会で示された多数の政治改革案は、その一方で、党と官僚機構内部の反改革勢力を活発化させた。ソ連共産党の70年の歴史の中で形成されてきた特権階級集団(ノーメンクラツーラ)は、88年頃までは改革を本気になって受け止めていなかった。今まで行われてきた運動は、下部機関や第一線の人々が行うものであり、自分たちは無風状態の中で、号令だけしておればよかった。ところが88年の段階では、自分たちの所までペレストロイカの危険が及んできたわけである。その時点から、ノーメンクラツーラ達の結集と抵抗が本格化した。

 またソ連の軍事力を以って押さえ込んでいた社会主義諸国の独立運動も一斉に激化しはじめた。ペレストロイカでは、ソ連と社会主義衛星諸国との関係を、従来のソ連中心から対等の国家関係に移そうとするものであったが、現実には国家利益に直接からむ問題であり、ゴルバチョフの理想主義はなかなか通用せず、内戦や非常事態宣言が起こった。




 
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