アラキ ラボ
どこへ行く、世界
Home > どこへ行く、世界1  <<  21  22  23  24  25  26  27  28  >> 
  前ページ次ページ
 

(7)世界を震撼させた「8月クーデター」とソ連の解体
★反改革派によるクーデター
●クーデターの発生

 91年8月4日からゴルバチョフは、クリミア半島のフォロス岬の別荘に滞在して、8月20日に予定されていた新連邦条約の調印の際の演説の原稿をかいていた。翌19日にはモスクワへ戻ることになっていた。
 この条約は、ソ連の主権共和国諸国の自由意志による連邦を意図したものであった。そのため反改革派は、この条約が調印されると連邦の崩壊は不可避になると考えあせっていた。
     
 ゴルバチョフが別荘で連邦条約の原稿を書いていた頃、KGB議長のクリュチコフは、ゴルバチョフを別荘に軟禁する準備を整えていた。その計画は、別荘の暗号名をとって「あけぼの作戦」とよばれ、指揮をとったのは、クリュチコフの右腕のアジェエフであった。 
 8月18日の日曜日にクーデター実行組がクリュチコフからの召集でモスクワに集まったが、クーデターにおいてゴルバチョフにどのような態度をとるか意見が決まらないまま、代表団がクリミア半島に飛ぶことになった。

 代表団のメンバーには、ヤゾフ国防相、ワレンニコフ将軍、大統領府長官ボルジン、国防会議代理のバクラーノフ、政治局員で中央委員会書記のシェーニンが選ばれた。代表団は,ゴルバチョフ大統領に辞任を要求し、職務をヤナーエフ副大統領に譲るよう交渉し、もし同意されなかったら、幽閉の措置をとることになっていた。
       
 8月18日の夕方5時頃、書斎で原稿を書いていたゴルバチョフの所へ警備隊長が一団の人々が面会を求めていることと告げた。来客の予定はなかったので、ゴルバチョフが問合せの電話をしようとすると、大統領の通信システムはすべて遮断されていた。
 
 代表団はゴルバチョフに2つの選択を要求した。ヤナーエフ副大統領に全権を委譲し、非常事態宣言を受け入れるか、それとも大統領の辞任であった。これを共に拒否したゴルバチョフは、最高会議と代議委員大会の召集を提案した。交渉は不成立で終わり、代表団はモスクワに戻り、ゴルバチョフは、KGB兵士の監視の下、別荘に軟禁された。

●クーデター第1日
 8月19日朝6時、タス通信は、ヤナーエフソ連邦副大統領が、ソ連憲法第127条7項に照らして、大統領の職務を引き継いだとする声明をながした。ゴルバチョフは健康上の理由で,ソ連大統領の職責を全う出来なくなったということである。
 政府に代わって、「ソ連における非常事態のための国家委員会」が発足した。委員会のメンバーは、ヤナーエフ、プーゴ内相、パブロフ首相、バクラーノフ国防会議副議長、クリュチコフKGB議長、ヤゾフ国防相、その他、スタロドブチェフ、チジャコフであった。

 1時間後に、クーデター派は、ゴルバチョフの改革政策は、袋小路に行き詰まっており、市場経済への移行は、貧困、窮乏、犯罪など、国は無法と暴力の渦に巻き込まれると訴えた。クーデター派は、8月19日のモスクワ時間の朝4時、「社会が全民族的破局の道をたどることを阻止するため」、ソ連の広範な地域に6ヶ月間の非常事態を発令した。

 19日朝、エリツィンは、モスクワから30キロ離れたアルハンゲルスコエの別荘で護衛官からクーデターの報告をうけた。別荘には、ロシア連邦の首脳が続々集まり、対策を話し合った。エリツィンは、直ちにロシア国民に呼びかける文書を作成し、モスクワのホワイトハウスへ向かうことを決定した。モスクワへの途中、エリツィンの政府公用車は何度も止められたが、午前10時、一行は無事ホワイトハウス(ロシア政府ビル)へ到着した。

 午前11時、エリツィンは記者会見を行い、この国の大統領の権力剥奪は「憲法違反のクーデター」であり、「非常事態委員会」は非合法であること、ゴルバチョフ大統領が国民の前に姿を見せるようにすることが必要であること、臨時ソ連人民代議員会の招集を求めること、などを要求し、無期限ストの決行を呼びかけた。

 モスクワの市内は戦車であふれていた。至る所で検問が行われていたが、それでも数千人の人々がホワイトハウスに押しかけていた。正午頃、エリツィンが護衛官らに取り巻かれて建物から現れた。エリツィンは、戦車によじ登って、クーデターは非合法であると宣言し、無期限のゼネストに入る事を呼びかけた。

 午後、外務省の広報センターで、非常事態委員会の外国人記者会見が行われた軍関係のヤゾフ国防相やクリュチコフKGB議長は出席しなかったが、外国人記者たちの前に出たクーデター首謀者たちの姿は、悪印象を与えて失敗した。

 この日、時間と共にホワイトハウス前に集まる人の数は増えて、数万人がエリツィン率いるロシア政府の呼びかけに従い、民主主義と自由を守るために集結し、バリケードを作ったり、戦車の兵士たちの説得を始めた。軍隊も、いくつかの最精鋭部隊と空軍はクーデターに参加しなかった。

 夜10時頃、最初の10台の戦車がエリツィン側に寝返り、政府所在地でその防備に陣取った。その夜は1万人がホワイトハウス(ロシア政府ビル)の前で頑張った。その夜、KGBのアルファ部隊は3度も議会ビルの奪取の命令を受けたが、6年間のペレストロイカが功を奏し、「特殊部隊の指揮官たちは、相談した結果、命令を遂行しないことに決めた」。夜遅くなって、北部ロシアで炭鉱労働者のストライキが始まり、エストニアは独立を宣言し、レニングラードも改革派の市長サブチャックの手に戻った。

●クーデター第2日  
 8月20日の朝、ホワイトハウス前の群集は増え続け、ホワイトハウスが軍により襲撃されることが予想された。しかし一方では、内務省の特殊部隊のいくつかがエリツィン側についた。またモスクワの市議会ビルの前にも群集が集まり、改革派のポポフ、ヤコブレフ、シュアルナゼが独裁政治の阻止を呼びかけていた。非常事態の下で厳重なデモ禁止令が出ていたにも拘らず、正午頃には10万人がホワイトハウス前に集まり、「エリツィン!、ロシア!」のシュプリッヒコールが行われていた。

 その頃、ゴルバチョフは、人民代議員大会とソ連最高会議に対し、非常事態委員会の発表が虚偽であること、代議員大会と最高会議の緊急開催の要求などをビデオテープに録画して外部に持ち出すことを計画していた。しかし厳重な警戒態勢の中で失敗した。

 20日夜、ホワイトハウス前はますます険悪な雰囲気になっていた。深夜12時頃、大戦車隊は、続々とホワイトハウスへ向かって前進し、そのつど、市民たちに行く手を妨害されていた。ホワイトハウスの攻撃は避けられたが、3人の若者が殺された。

●クーデター第3日
 8月21日朝4時頃には、軍とKGBの150隊が、ホワイトハウスを包囲していたが、KGB内部の意見がまとまらず、攻撃にはいたらなかった。朝早くからヤゾフ国防相の解任のうわさが流れ、5時に非常事態委員会の会合が行われて、ホワイトハウス周辺の部隊は引返し始めた。

 午前11時、ロシア議会は、臨時会議で昨夜の犠牲者に黙祷を捧げ、非常事態委員会に夜10時までにすべてを放棄することを要求した最終通告を出した。午前11時40分、クリュチコフKGB議長は、ゴルバチョフとの話し合いをエリツィンに申し出た。そこでロシア議会は、ゴルバチョフを迎えるため、クリミア半島へ行く代表団を任命した。
 午後1時53分、喜びに満ち溢れたエリツィンは、クーデターが未遂に終わった事を宣言した。午後4時20分、国防相が全部隊にモスクワからの撤退命令をだしたことがニュースで流れた。

 ここで不思議なことに、クーデターの失敗が明らかになった時、首謀者の一味はゴルバチョフに会うため、クリミア半島へ向かって飛び立った。ゴルバチョフの健康確認というエリツィンとの約束の形式をとって、最後にクーデターの正当化を目指したのであろうか?全く不可解な行動である。彼らの出発した直後の午後4時55分、ロシア政府の代表団がゴルバチョフ救出のためクリミア半島へ向かった。

●クーデターの終焉とソ連共産党の解散
 8月22日午前2時55分、見るからにやつれ果てたゴルバチョフは、その大統領機が攻撃されないように、KGB議長クリュチコフを人質としてモスクワ空港に帰ってきた。ホワイトハウス前には、数十万人の市民がクーデター失敗を祝って集まっていたが、ゴルバチョフ一行はそれを知らずに、大統領別邸へ帰ってしまって、後に非難を浴びることになった。

 ゴルバチョフは、空港で「1985年からやってきたことすべてが、実を結んだ」と挨拶したが、クーデターの首謀者が、すべてゴルバチョフ直属の人々であったことから、ゴルバチョフを含むソ連共産党そのものの信用が失われていた。その日、モスクワ市長で改革派のポポフが、ホワイトハウス前で、「ソ連共産党から脱退する時期にきていることを、ゴルバチョフはこの経験から学ぶべきだ!」と言った時、民衆から「退陣!退陣!」という声が上がっていた。

 このクーデターの失敗の結果、ゴルバチョフは「殉教者」ではなく、陰謀者たちの党の書記長としてあつかわれることになった。その夜、モスクワの中心街では、デモ隊が共産党の活動禁止を訴えた。8月23日のロシア議会には、ゴルバチョフも出席して、これからのソビエト連邦と党についての政見を披露したが、議員たちはもはや聞く耳を持たなかった。エリツィンはロシア共産党の全活動を停止する大統領令に署名した。そして、この日のロシア議会の劇的な場面は、すべてTV中継された。

 1991年8月24日、ゴルバチョフは、ソ連共産党書記長の職を辞任し、中央委員会に自主解散を求めて、ソ連共産党の資産を凍結させた。
 8月28日、ソ連議会は、パブロフ政権の不信任を決定し、ソ連最高会議は、全国の共産党の活動を停止させ、「プラウダ」をはじめ、5つの共産党系新聞は発行が禁止された。
 一方、民主派がこの段階で解散、総選挙を行わなかったことが、後に共産党に代わる政治の方向を不明確にし、ロシア漂流の出発点を作った。




 
Home > どこへ行く、世界1  <<  21  22  23  24  25  26  27  28  >> 
  前ページ次ページ