(2)早期儒学の伝来
江戸時代の儒学については、夥しい量の著書が出版されているが、それに比べると、鎌倉期以前の早期儒学の研究は非常に遅れている。
そこで本稿では、古代から鎌倉期までの「早期儒学」を中心に、日本に儒学が導入されてきた経過を眺めて見たいと考えた。
●儒学伝来
日本への儒学の伝来は、百済の王仁博士が、仇首王の文化使節として日本に派遣されて、応神天皇時代の皇室の師伝として活躍したことに始まるとされている。
古事記によれば、応神天皇の16年(4世紀後半?)乙巳、「百済の照古王に賢人の派遣を依頼して、ワニキシ(和爾吉師)という人が、論語十巻と千字文1巻を携えて来日した」と記されている。
その前年には、百済の学者の阿直岐が来日しており、皇太子の莵道雅郎子が彼を師として経書の学習を始めていた。それが翌年の王仁の来日に繋がる。
ここで古事記がいう「照古王」とは、百済の肖古王(166-213)のことではなく、近肖古王(346-374)のことと思われる。
つまり百済の「照古王」に対応している日本の応神天皇は、九州王朝の王として朝鮮半島に何度も攻め入り、かっては騎馬民族説までささやかれた征服王である。
その後、応神天皇は、本拠を九州から河内へ移して「河内王朝」をおこし、河内に巨大古墳群を作った天皇である。
しかしその紀年も明確ではなく、いろいろナゾの多い天皇である。私のwebでは歴史はミステリー(その2)
−4〜5世紀の倭国王朝において応神天皇を取り上げており、参照していただきたい。
それによると応神天皇16年は378年頃と推定される。そのときの百済の王は肖古王ではなく、近肖古王の次ぎの近仇首王になる。
日本書紀によると、王仁が来日した年に百済では阿花王(阿○王392−404 ○:草かんむりに辛)が崩御されたため、日本にいた阿直岐が帰国し、腆支王として即位したとされる。
とすれば王仁の来日は404年となり、古事記の記事とは100年以上の食い違いが生じることになる。
また「続日本紀」の延暦9(790)年秋9月条における百済王・元信等の上表文には、儒学書の日本への伝来について面白い記述がある。
それによると、応神朝に百済の貴須王(近仇首王375−383)が王族の中から1人を選んで、日本に遣わした。それは王仁ではなく、貴須王の孫である辰孫王であり、特に天皇に信頼されて皇太子の師となり、ここで初めて日本に書籍が伝えられたと記されている。
貴須王とは近仇首王のことであり、儒学書を日本に伝えた人物は王仁と辰孫王の2説が存在することになる。そのどちらも時期としては380年ごろのことになり、私が推定した年代と大体一致してくる。
そこでこれらに関係する百済の王を図表-1に整理してみる。
図表-1 百済の王と儒学伝来
王の名 |
即位年 |
記事 |
肖古王 |
166 |
阿直岐来日?
応神帝が賢人派遣を依頼? |
仇首王 |
214 |
王仁を日本に派遣? |
古爾王 |
234 |
|
責稽王 |
286 |
|
汾西王 |
298 |
|
比流王 |
304 |
|
契王 |
344 |
|
近肖古王 |
346 |
阿直岐来日?
応神帝が賢人の派遣を依頼? |
近仇首王 |
375 |
王仁もしくは辰孫王を日本に派遣? |
枕流王 |
384 |
|
辰斯王 |
385 |
|
阿○王 |
392 |
王仁来日の年に崩御(405)? |
腆支王 |
405 |
日本にいた阿直岐が即位? |
上記の記事を年表に書き込んでみると、肖古王と仇首王では、120年のずれがあり、明らかにおかしい。つまり、応神天皇に対応する百済の王は、肖古王と仇首王ではなく、近肖古王と近仇首王とすると時代が大体、合ってくる。
日本書紀の紀年は応神天皇の頃は全くデタラメであり信用できない。しかし上記伝承における日本への儒学の伝来は大体4世紀後半と考えてよいであろう。
今西龍遣氏の「百済史研究」によると、百済はこの時代、中国から積極的に文物を求めており、肖古王の時代から百済の歴史の記録が出来るようになったという。
従って、図表-1の肖古王以降の紀年は、文書に記録されているものであり、大体、信用しても良いことになる。
さらに近肖古王のときからは、中国の文物が百済を通じて日本に入るようになったとされている。したがって、380年頃に儒学が日本に齎されたという可能性は高い。
そのとき王仁が日本に齎した論語10巻は、谷川士清、栗原信充等は何晏の集解であるとしているが、百済のあたりまでは漢代の鄭玄の注であったとする説もある。
また千字文1巻については、新井白石は「同文通考」において「小学」の書としており、また本居宣長の古事記伝は、後世にできたものを王仁が将来したとしたとしている。そこでは諸説が入り乱れておりよく分からない。
むしろこの応神帝の時代に漢籍が初めて日本に来たとする説には、根本的に無理があると思われる。
渡来人を通じて行なわれた中国から日本への文物の流入は、その記録が残されていないだけで、肖古王より遥か前の後漢時代以来、かなりあったと考えられる。
千字文も、漢の元帝のときに史遊によって作られた「小学」の急就章が広く行なわれており、それが百済を通じて伝来したことが考えられる。(安藤正次「記・紀・万葉集論考」)つまり漢字や儒学思想の伝来の時期を厳密に規定することは、殆んど不可能なのが実情である。
●漢字の使用
日本における文字の使用は、いわゆる「神代文字」の存在ともからみ、いろいろ論議がある。日本書紀の欽明天皇の巻には、「帝王本紀に多く古字あり」と記されており、江戸時代には新井白石の「同文通考」、平田篤胤の「神字日本伝」、鶴峯戊申の「神代文字考」など多くの研究書も出されている。そして落合直澄の「日本古代文字考」においてそれらは総括されている。
日本における文字一般の成立ではなく、古代に国際性をもっていた「漢字」の使用に限るとすれば、「古語拾遺」がいうように日本には「上古の世未だ文字あらず」という状態にあった。
その漢字が日本で使われるようになる上限は、現在、我々の目に入る金石文から見ると5世紀以降になる。
しかし一方で、漢籍が4世紀後半には日本に入っている事を考えると、実際の漢字の利用は4世紀の始めにおける竹簡、木簡の形による利用から既に始まっていたと考えられる。
金石文で見ると、6世紀末以前の文字で現存しているものは次の2つがある。
その第1は、和歌山県伊都郡の隅田八幡宮に伝わる人物画像鏡の銘文であり、そこには「癸未年8月」という年号が記録されている。この年号については、允恭天皇の443年(癸未年)と、仁賢天皇の503年(癸未年)の2説がある。
第2は、5世紀後半と見られる熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から出土した太刀(東京国立博物館蔵)のみねに刻まれた銘文である。
そこには、「治天下復□□□□歯大王世、奉□典□人名旡□弖、八月中、用大鐺釜扞四尺廷刀、八十練六十☆三寸上好□刀、服此刀者、長寿子孫注々得其恩也、不失其所統、作刀者名伊太加、書者張安也、」と刻まれている。(☆:手へんに君)
その最初の文章は、恐らく「治天下復宮瑞歯大王」という文章であり、瑞歯大王とは反正天皇のことであるから、太刀の製作年代は5世紀の中ごろであろうと推定されている。
つまり上記の2つの金石文から5世紀の中頃には、日本において金石文による漢字の利用が始まったといえる。
これらの銘文を見ると、漢文の語法の中に和文の語法を交えており、また漢字の音と訓が混用されている。この方法が発展して、宣命体や万葉仮名が成立したと思われる。
そこには史(ふひと)たちの苦心のあとが見られ、この種の文章を史部流(ふひとべ)とか史官流(しかん)というのもそれを示している。
古事記、日本書紀の基礎資料となった帝紀・旧辞の類も、この史部流の文章でつづられていたものと思われる。(関晃「帰化人」至文堂、33頁)
6世紀にはいると、百済から五経博士が大和朝廷に派遣されるようになった。
513年に段楊爾博士が来日し、3年後に高安茂博士に交代し、経典を講説した。
554年には、五経博士のほかに易博士施徳王道良、暦博士固徳王保孫などが派遣された。五経博士は、固徳馬丁安博士、王柳貴博士が相次いで交代に派遣された。
特に占術に関する知識と暦法に関する書籍が、当時の官僚たちの興味を呼び起こしたとされる。(金昌洙「博士王仁」成甲書房)
このような状況からみて、聖徳太子の頃(6世紀の後半)には、帝紀・旧辞の類が大体出来上がっており、また17条憲法で示されるような、儒学思想に基づいた政治制度を規定する文書体系の前提条件が、出来上がっていたと考えられる。
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