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日本人の思想とこころ
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  (5)平安朝と鎌倉期の早期儒学

●変貌する平安朝の早期儒学
 奈良朝以前の早期儒学の習得に課せられていた課題は、当時の世界の先進国である中国の政治・経済の組織・制度を学び、それに近いものを日本の国内に実現することであった。
 そのために奈良朝以降は、日本の国内においても正式文書は、すべて「純漢文体」で書かれるようになった。そのことから、貴族、官僚、学者、僧侶たちは、漢文の読み書きができる事が仕事上の必須の条件になった。

 しかしこの状況は、平安朝になると大きく変化し始めた。
 その第1は、律令体制が解体期に入たことによる。そのため律令による官僚制度が壊れて、儒学の教育、学習の環境が変化した。
 第2は、儒学の本場である中国において儒学と仏教の対立が顕著となり、その後に「宋学」として確立する新儒学への理論的移行が始まったことにある。
 ちょうどこの時期、日本の遣唐使による留学制度が中止(894)され、そのため平安朝の中期以降、「国風文化」が花開くことになった。
 このような儒学をめぐる環境条件の変化から、平安朝後期における早期儒学は、奈良朝以前の天下国家の学から、個人の教養としての学に変貌した

▲儒学と漢詩文の教育・学習体系の変貌
 平安朝初期は、「唐風文化」の全盛時代であり、儒学と漢詩文の教養は貴族、官僚たちの必須の知識となり定着した。そのため、この時期に貴族、官僚の子弟の教育機関であった大学寮は、律令制官僚の養成機関として発展していた。
 しかし10世紀の後半になると、藤原氏の世襲政権が確立したことにより、いわゆる「蔭位制」とよばれる貴族の子弟は自動的に高い位につく制度ができて、全面的に律令的官僚制が崩壊期に入った。

 そのため大学寮の本来の教科である明経道の地位が低下し、試験制度は形骸化した。教官の世襲制は進み綱紀は紊乱して、国家有為の人材を養成すべき大学寮は没落過程をたどっていた

 大学寮は、本来、国家有為の人材を発掘すべきところであるにも拘らず、明経(=経書得業生)の出身者より「秀才」(=文書得業生)出身者が優先するようになった。そのため学生の関心は、経学より文学に向かい、文章道の学生がいつも一杯になる状況が生じていた
 そして大学寮では、本来の教科である明経道は、文・史を兼学する文章道に圧倒される状況になっていった

 平安中期から末期にかけて教官職の世襲化の傾向も益々強まり、算道では10世紀末から小槻、三善両家による完全な世襲化が確立した。続いて、清原・中原両家による明経道、文章は菅原・大江両家のほか藤原氏の南家、北家、式家の職掌となり、明法は坂上・中頭両家の職掌となった。
 そのことから学問は、特殊の人々の特殊技能と見做されるようになり、学問の真の意義は失われていった

▲平安貴族の読書
 このような文章道の流行を受けて、平安時代には六朝の四六駢儷体による格調の高い純漢文体で文章を書くことが求められた。そのために平安貴族により圧倒的に利用されたのが、「文選」と「文集」であった。
 この2書は、清少納言の「枕草子」にも、「ふみは文集(もんじゅう)、文選(もんせん)」といわれたほど平安朝では広く利用されたものである。

 「文選」は、既に聖徳太子の十七条憲法にも利用されたものであり、南朝梁の昭明太子蕭統(501-531)により編纂された、周から梁にいたる詩文集である。
 「昭明文選」ともいわれている。この書は、わが国において平安時代から室町時代にいたるまで文人たちに大きな影響を与えた。
 また「文集」とは、白居易(772-846)の詩文集である「白氏文集」のことである。この詩集が後世に及ぼした影響は非常に大きなものであった。
 そして文も彼の思想や当時の史実・制度を知るには有力な史料であった。

 その他にも応神帝のとき齎されたとされる論語、千字文と、三史(史記、漢書、東観漢記または後漢書)、五経(易経、詩経、書経、礼記、春秋)も、長く学者必読の書とされて利用された。
 平安時代には、寛平3(891)年に勅選により、当時、日本に存在した漢籍の総目録である「日本国見在書目録」が作成された。そこには40部門、1,579部、16,790巻の漢籍が収録されており、平安朝までには夥しい書籍が中国から日本に輸入された事が分かる。

 平安朝の貴族たちも、小さい時からそれらの漢籍を非常に良く勉強していたと思われる。たとえば関白・太政大臣・藤原道長(966-1027)の日記である「御堂関白記」の寛弘7(1010)年、道長45歳、左大臣の8月29日条には、棚厨子2雙をつくり、文書を置いた記事があり、その書名が記されている。
 そこには三史、八代史、文選、文集、御覧道道書、日本記、具書等、令律式等具、並びに3千余巻の本が入れられたと記されている。
 
 そこには当時の貴族たちの必読書である三史、八代史、文選、文集をはじめ、令律式にいたる書籍が備えられた。道長自身はかなりの読書家であるから、既に読んだことのあるものが、備えられたと思われるが、いわば当時のベストセラーが書斎に並べられたわけで、非常に面白い記事である。

 平安朝の貴族で読書家として知られるのが、太政大臣をつとめた藤原頼長(1120-1156)である。かれの日記である「台記」には、若いときから読んだ夥しい書物が、年を追って克明に記録されていて非常に面白い。

 それによると17歳で蒙求を読んだのに始まり、18歳には史記、論語、19歳には漢書を読み、20歳代には漢籍の主要なものはすべて読了する読書力であり、殆んど20歳代には寸暇を惜しんで漢籍を読んでいたようである。
 30歳代のはじめには、周礼、儀礼、毛詩、老子、尚書の講義録をよんでおり、漢籍のほとんどすべてを読破したように見える。

 しかし平安貴族たちの漢籍の読み方は、奈良時代以前の漢籍の勉強が即、日本の政治組織や制度に結びついていった読み方とは異なり、自らの知識を深め、文章を立派なものにするためのものであったと思われる。

●鎌倉期における「朱子学(=宋学)」の流入
 中国において朱子学(=宋学)が有力になったのは、13世紀の初頭である。日本では鎌倉時代がそれに対応する。漢・唐の訓詁を中心とした早期儒学は、鎌倉時代には既に没落していた。そして中国で朱子学が普及を始めた同時期に、それらは日本にも導入されたと思われる。
 鎌倉時代は、このWebでも取り上げたように、多様な思想が一斉に開花した時代である。それらは思想的には仏教が圧倒的に優勢であり、儒教は禅僧により中国から持ち込まれたが、主流にはなりえなかった。

 王家○(○:馬へんに華)「日中儒学の比較」によると、入宋僧による朱子学の導入は、入宋した僧俊☆(しゅんじょう)(☆:草かんむりに乃)が、1211年に宋から持ち帰った2000余巻の中に儒学の書が236巻もあったこと、また同じく入宋僧の円爾が1241年に帰国の際、持ち帰った書物の中に朱子の著作が数部あったことから、この時点で入ったとする2説がある。
 日本で朱子学を広めたのは、必ずしも日本の禅僧ばかりではない。宋もしくは元から来た大陸の僧もいた。それらのうちで有名なのは、道隆、正念、祖元、一山などの僧であった。

 それらの中で一山およびその門人による宋学の弘布の功績は大きかった。宋の西蜀の禅僧である蘭渓道隆は、1246年に来日し、1252年に北条時頼の請に応じて鎌倉に来て、建長寺を開山した。
 また一寧一山は、1299年に元の世祖により日本に派遣された。一山の宋学普及の功績は、彼のもとで虎関、雪村、夢窓、龍山などの英才を育て、室町時代における禅林儒学の淵源となったことである。

 鎌倉・室町時代を通じて、宋学は殆んど五山禅林の僧の手で伝承された。彼らの宋学の特徴は、第1に儒学と仏教、ことに宋学と禅宗の一致・融合を説いたことにある。そして第2には、武士たちを禅宗に帰依させた事であった。
 その点で最も成功したのは、夢想門下の義堂周信(1325-1388)であった。義堂は、関東管領・足利基氏に招かれて鎌倉円覚寺に入り、また瑞泉寺にも住した。

 義堂は、鎌倉から上京して将軍義満の師となり、治道の要書として「四書」の勉強を勧め、さらに儒学の教授を通して、義満を禅宗に帰依させた。そこでは宋学は禅宗の付属物になった。

 鎌倉時代に禅僧の間に唱えられた宋学は、鎌倉時代末期から宮廷の天皇、公家、博士家に波及した。そして面白いことには、宋学が倒幕の理論と結びつき、北畠親房など南朝の忠臣たちによる勤皇思想の源流となった。
 その流れは、幕末になり会沢正志斎の「水戸学」における神道と儒学をあわせた大義名分論に繋がるように思われる。
 いずれにしても新来の宋学が、後醍醐天皇の建武中興の理論になったという事は、非常に面白い

 明経博士・清原良賢が、はじめて伝統的儒学に宋学を導入したといわれる。
 それは1328年刊行の陳△の「礼記集説」に清原良賢の奥書きをしたものが、足利学校に残されていることから分かる。陳△は、宋末・元初の朱子学派の大儒であり、彼の「礼記集説」は、主子学派の「礼記」の標準とされたものであった。
 清原良賢の曾孫の清原業忠(なりただ:1409-1467)も宋学に関心を持ち、彼の論語の講義は朱子の集注を参考にして行なわれたといわれる。
          (王家○「日中儒学の比較」六興出版、128頁)

 鎌倉・室町時代を通じて、儒学は主として京都の公家・博士と五山の禅僧の間に伝播されてきた。それが室町時代後期からは地方の武士階級に広がり、それが江戸時代に儒学が官学として採用される基盤をつくり出した。






 
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