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日本人の思想とこころ
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  (3)早期儒学の思想

●聖徳太子の十七条憲法

 中国の儒学的政治思想を、日本の制度に導入した最初の人物は聖徳太子である。
 それは、推古11(603)年に、儒家の徳目(徳・仁・礼・信・義・智)で命名した冠位12階の制定となって現われ、さらにその翌年の推古12(604)年には、十七条憲法が制定された。
 その十七条憲法については、本当に太子により制定されたのかどうか、江戸時代の狩谷○斎の偽作説以来、多くの人々が疑念を抱いてきた。(○:木へんに夜)
 そして最近でも津田左右吉氏により、大化改新以降の制度によって作られた言葉がそこに使われていることから、「日本書紀」の編者の作と断定されていた。

 しかし現在では、「日本書紀」の編者により手を加えられたとしても、一応は聖徳太子の作であることが認められるようになっている。
 十七条憲法は、儒学思想を中心にしているものの、佛教、法家、道家の思想が多様に入り組んでおり、その内在的精神の判定を巡っては、まだ判断が分かれている。
 この複雑な思想が入り乱れている十七条憲法が、どのような書籍を参考にして作られているかを図表-2にあげる。

図表-2 十七条憲法が参考にしたと思われる文献
  出典
第1条 論語 礼記 孝経 資治通鑑 左伝 周礼 千字文 漢書  
第2条 法華経 管子 拾芥抄 孝経          
第3条 尚書 礼記 論語 管子 左伝 孝経 説苑  
第4条 孝経 礼記 韓詩外伝 論語          
第5条 礼記 周礼 文選 老子 左伝 後漢書 正韻    
第6条 老子 孝経 文選 漢書 後漢書        
第7条 尚書 荀子 論語 芸文類聚 孝経 管子 千字文 魏志 韓非子
第8条 論語 尚書 墨子 詩経          
第9条 論語                
第10条 唯識論 孫子 淮南子 荘子 史記 韓非子      
第11条 後漢書 漢書 随書 韓非子 卓氏        
第12条 礼記 孝経 孟子 詩経 左伝        
第13条 晋書                
第14条 楚辞 荀子 尚書 史記 孟子 桓子 文選    
第15条 史記 韓非子 漢書            
第16条 論語 漢書 孟子 蒙引          
第17条 韓非子 菅子              
 (注)谷川士清「日本書紀通証」、河村秀根「日本書紀集解」、日本思想大系「聖徳太子集」、田所義行「儒家思想から見た古事記の研究」などから作成。

 図表-2を見ると、十七条憲法の作成にあたり、実に多種類の文献が利用されている。このことは、7世紀の初頭には、中国、朝鮮から輸入された漢字や儒学思想が、既に非常に広い範囲に活用され始めている事を示している。
 しかしその一方で、これらの文献のいくつかは孫引きのような形で利用されていることも考えられ、必ずしもこれら儒学書のすべての原本が利用されたかどうかは定かではない。

 中国で発達した儒家と法家の思想は、前年に始まった聖徳太子の冠位12階の新制度において君臣関係、特に中央と地方の官僚のあり方を明確にし、「臣の道」の具体的要求を示すものとして利用された。
 その意味で、冠位12階と十七条憲法は、大化改新以降の律令制へ移行する理論的基礎を与えたものといえる。

 聖徳太子の頃の中国においては、孔子、孟子時代には儒学に対立していた法家思想が、既に儒学に吸収されていた。
 その意味で、十七条憲法においては、漢代以降の専制支配的な儒学が、内容に取り入れられたことになる。
 勿論、仏教的な思想は太子の場合に重要な位置にあるものの、それは為政者の政治行為を規制する政治道徳として援用されており、政治思想には儒学が利用されたといえる。つまり日本の早期儒学は、政治組織や制度を作る参考として利用されたところに大きな特徴がある

 その他にも道家の思想も十七条憲法に影響を与えている事が最近、指摘されている。その意味から聖徳太子においては、儒・仏・道の調和主義が採用されており、中国の魏・晋・南北朝の主流といえる思想の影響を受けていたことが見られる。
             (王家☆「日中儒学の比較」六興出版、71頁) ☆:馬へんに華

●儒学思想と大化改新
 十七条憲法における聖徳太子の政治思想を延長した線上に、大化改新がある。
 既に大化改新の前に、改革集団の中心人物であった中大兄皇子と藤原鎌足は、「周礼」の教えを学ぶために南淵請安のところへ通いつつ、その往復で改新の計画をねったとされており、大化の改新に儒学思想は大きく関わっていた

 藤原鎌足は僧旻(みん)による「周礼」の講義にも出ていたといわれる。
 南淵請安と僧旻は、推古16(608)年に聖徳太子により遣隋使として中国へ派遣・留学された人物である。彼らは帰国後、中国で学んできた儒学を通して中国的政治制度を日本に紹介し、政治改革を進める中核となった。

 彼らが講義した「周礼」(しゅらい)は、古くは「周官」と呼ばれており、そこには西周の周公旦が制定した行政組織が記録されていた。
 それは孔子や孟子など、儒学の祖師が理想とした周王朝の政治組織を詳述したものであった。
 周礼の内容は、諸官職を天官(中央政府)、地官(地方政府)、春官(神職)、夏官(軍事)、秋官(司法)、冬官(器物製作)の六編に分け、それぞれの官職名を挙げて、職制、人数、職務内容を詳述していた。
 それにより、儒家の理想に基づく国家組織と統治政策を明確にしたものであった。

 この書は、前漢末期に古文学派の劉○により世に出たことから、今文学派から偽書として退けられ、「戦国時代の陰謀の書」とまでいわれたものである。(○:音へんに欠)
 また王莽が前漢の帝位を簒奪するときに是を利用したことから、宋代には王安石により新法が実施される際に、その根拠として用いられたこともある。
 そのことから保守派の非難を受けるもとになっていたものである。
 そこに描かれている古代理想帝国の姿は、歴史的事実ではないが、現実を批判する場合の根拠となりうるものであった。(「中国の古典名著 総解説」自由国民社、181頁)

 大化元(645)年の「大化改新」において、僧旻と留学生高向玄理(たかむこのくろまろ)は、新政権の政治顧問として国博士に任命された。
 そのことは、彼らの儒学の素養が大化の改新において、大きな役割を果たしたことを示している。
 改新後の最初の公式年号である「大化元年」は、2人の国博士の意見から出たともいわれる。その大化の年号の出典は、中国の「尚書」、「漢書」などによるものであり、八省八官の制も彼等により設置されたと思われている。
 学者の中には、有名な改新の詔をはじめとする諸制度が、すべて2人の手によるものであると推測する人まである。

 大化2年の「改新の詔」は、津田左右吉氏などによる日本書紀編者の捏造説があるものの、聖徳太子による十七条憲法の趣旨とも完全に一致しており、そこから儒学思想の理想を明確に読み取る事が出来る。
 たとえば大化元年八月詔書の劈頭の、「天神の寄させまつりし所に従い、はじめて万国を修めんとす」という言葉は、中国の儒学思想と日本の皇孫思想が見事に統一されたものといえる。

 ことごと左様に、大化の改新に基づく日本の律令制度は、中国の儒学的律令制の影響下において、それらを継承した形で作られた
 たとえば儒家は貴賎・上下の区別を強調するために、「八議」(議親・議故・議賢・議能・議功・議貴・議勤・議賓)、即ち「周礼」の「八辟」(へき)という内容を「律」に取り入れた。
 そのために皇帝の親族、身分の高い人、徳の高い人には、「律」(刑法)がストレートには適用されず、貴賎の区別により刑罰に差がでるという結果になった。






 
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