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日本人の思想とこころ
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  (4)日本の在来思想と早期儒学

●古事記における儒学思想
 古事記は、天武天皇の命を受けて稗田阿礼が誦習し、それを元明天皇の詔により太安万侶が撰録して、和銅5(712)年に完成した日本最古の史書である。
 それは少し遅れて完成した日本書紀に比べて、本居宣長の言葉を借りると、「からごころ(=中国的なこころ)を清く離れて」、「古言(ふるごと:日本の古代の言葉)をえたるもの」といわれる。
 そのため本居宣長は、35年の歳月をかけて、この「古ごと」で記述された「古事記」の注釈書を、大作「古事記伝」としてまとめたほどである。

 しかし古事記の伝承を誦習した舎人である猿女君の族に属する稗田阿礼はともかくとして、それを撰録した民部卿の太安万侶の方は、日本書紀の編纂にも参加したほどの中国的儒学思想に培われた文人であった
 彼のそのような儒学思想は、古事記の序文、本文のいろいろなところに登場してくる。

 まず古事記の序文は、四六駢儷体による格調高い見事な漢文で書かれている。そしてそのことは、多くの人々に周知のことである。さらに、その漢文の書き方は、唐の長孫無忌の「進五経正義表」に倣ったとする指摘までなされており、当代流行の漢文の文体が利用されていた
 この上表文は、永徴4(653)年2月24日に行なわれたものであり、古事記が出された和銅4(711)年の僅か60年前のものである。そのことから、この上表文が利用されたとは考えにくいとする説すらでたほどである。

 つまり古代の中国と日本の情報伝達の時間から考えると、60年という時間は余りに短か過ぎる。そのことから、井上頼圀氏は、その模倣説を否定された。
 倉野憲司氏の「古事記論攷」には、「進五経正義表」の全文が掲載されており、古事記の序文との比較が詳しく行なわれている。
 それを見ると、「臣安万侶言。夫根元既凝。・・」で始まる古事記序文は、「臣無忌等言。臣聞混元初。・・・」で始まる上表文と余りにも類似している。
 つまり古事記の序文は「進五経正義表」に倣ったとしか考えられないものである。

 聖徳太子の時代は、我々の想像を遥かにこえて日本の国内文化の環境が国際化していたと思われる。そのため中国と日本の文書の往復は、我々の想像以上に密接に行なわれていたと考えられるのである。
 それは十七条憲法に利用された夥しい中国文献からも、十分に推測できることである。さらに、文献の流入量だけではなく、そのスピードも非常に早くなっていた。
 その結果、この聖徳太子の時代には、中国で発表された文書や思想は殆んど時間を置かずに日本に流入していたことが考えられるのである。
 つまり中国で発表された文書は、日本に渡来する年数は60年もあれば十分すぎる時代に入っていた事が推測されるのである

●記紀の文体
 この時代に漢字を使って作られた文体は、次の4つに分かれる。
(1) 純漢文体
 古代において文筆の職に従事し、記録の任に当たっていた人々は、中国、朝鮮の渡来系の人々やその子孫であった。この人々が純漢文体を標準にしていた事は、当然のことである。それは明治まで続いており、明治時代の新聞社には中国人のスタッフが、新聞に書かれた漢字の使い方に誤りがないか、専門的にチェックする仕事を担当していたほどである。
 
 古代における国際語としての漢文に誤りがあっては日本国の恥であり、正式な文書は純漢文体で書くのが標準であった。従って古事記もその序文には、正式な純漢文体が使用された。
 正史である日本書紀が、純漢文体で書かれたのはその意味からして、当然のことであった。

(2) 準漢文体
 形式的には、漢文の構造に従いながら、国語的表現、つまり口語体で記述したのがそれであり、古事記の文体がこれに属している。
 このほか、播磨風土記、法隆寺金堂薬師光背銘、正倉院文書のいくつかに見られるものである。

(3) 準国文体(宣命,祝詞体)
 宣命,祝詞などに見られる国語的表現であり、助詞や活用語尾はカナで細書きされる。語法については、漢文の形をとる場合も多い。宣命,祝詞のほか、釈日本紀に引く摂津国風土記における夢野の鹿の条、同備後国風土記の蘇民将来の条、万葉集の歌のいくつか、に見られるものである。

(4) 準国文体(仮字体)
 全く仮字のみで文をなしたもので、古事記の選者が企ててできなかったものである。しかし歌謡にはこの体が採用されており、日本書紀、万葉集などの歌謡にこの体が使われている。
 倉野憲司氏によると、正倉院文書続修別集第48巻に、この体による文書が見られるという。(倉野憲司「古事記論攷」126-127頁)

 日本の国学者は、民族的古典における純粋性の選択にあたり、「思想」ではなく「語法」を採用したようである。そのため本居宣長は準漢文体の古事記を民族的古典として選択し、平田篤胤は準国文体の宣命を民族的古典として選択した。

 古事記の文体は漢文の形式に沿って、国語的表現を主とした準漢文体である。
 その書法も仮字書き、宣命書き、漢文の語法、漢字の熟語をとったものなどがいろいろ混じっており、いわば当時の口語体で記述されていると思われる。
 そのために漢文の顛倒などは殆んど重視されなかった。そしてそのことが、本居宣長により高く評価されたのであろう。
 しかしその内容に対する儒学思想の影響という観点から見たら、古事記と日本書紀の間に有意差を見出す事は非常に難しいと思われる。

 古事記の文体の原型をなしているものは、聖徳太子の逝去を悼み妃位奈部橘王により作られた繍帳の「天寿国曼荼羅繍帳銘」であるといわれる。
 このような文体により古代の文献を分類する事は可能であるが、儒学的思想の影響の度合いで古代の文献を分類する事は至難の業である。
 それだけ儒学的思想は、古代の日本人の中に空気のように入り込んでいたといえるのではないかと考えるのである。






 
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