アラキ ラボ
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  (10)再出発(その2)

★「孟子」から「十八史略」へ
 谷口さんと孟子の素読を始めたのは2003年の7月であった。2004年の春4月には「孟子」が終わり、5月から「十八史略」に取り掛かった。なぜ「十八史略」か?というと、中国史を原点により今一度見直してみたいという気持ちからである。

 中国史の原典といえば、まず司馬遷の「史記」であるが、残念ながら史記の時代は漢代までである。それに比べると、「十八史略」宋代まである。そこで漢代までは「史記」を併せて読みながら、「十八史略」を通読してみようということになった。
 
 5月に「三皇五帝」に取り掛かった。ところが取り掛かってみると「三皇五帝」とは誰か? 意外に定説がない。更に、驚くことは、殆ど神話の時代と軽く考えていたこの時代の叙述に、神話を越えた現実性が感じられることである。 
 儒教の国・中国には、古代から姓氏制度というものがある。この制度によって、王の血縁、地縁などの系統がある程度まで分かる。

 「三皇五帝」の言葉が公式文書に初めて現れるのは、紀元前3世紀の秦の始皇帝の時代に書かれた「呂氏春秋」といわれ、今から2200年以上前のことである。
 この「三皇」の最初の2人の王が、太昊伏義氏炎帝神農氏である。太昊伏義氏風姓炎帝神農氏姜姓であるが、「風姓を継ぎて立つ」とあるから、この2人の王は同じ系統である

 2代目の炎帝神農氏の一族は、太古の中国の西部,陜西省を中心に何代にもわたり非常な勢力を持って栄えていた。これに対して新しく河南省を中心に起こった強大な勢力が黄帝軒轅氏である。この新興勢力が炎帝神農氏の一族と戦い、古代中国を支配していった姿が浮かび上がってくるのである。

 つまり三皇といっても、そこに2つの古代勢力の葛藤があり、そのために誰を三皇に当てるか人により違ってくるわけである。そのため司馬遷は、史記において「三皇」を飛ばして、「五帝」から叙述を始めた。
 その五帝の最初が、黄帝軒轅氏であり、まさに黄帝こそが河南省を中心にして成立する、中国古代の王朝の最初になる事が分かる。

 「十八史略」は、史記に比べると、受験の参考書のような書物であり、中国では余り読まれなかったようである。それに対して日本では、中国史の参考書としてよく読まれたもののようである。いまいち食い足りないところもあるが、上記のようにつじつまを合わせて読んでいくと、推理小説を読むような面白さもある。

★妹の死
 8月11日の深夜、電話のベルがなっていた。別棟の妻がとったようで、しばらくしてやんだ。それきり何も言ってこないから、間違い電話かと思って眠った。
 午前2時頃に再び電話のベルが鳴り、暫くしたら妻が部屋に来て、「孝子さんが亡くなった!」といった。

 「孝子」は、私の4歳下の妹である。血圧は少し高いものの、どこかが悪いとは全く聞いていなかった。くも膜下の出血による突然の死であった。    
 老幼不定というものの、自分より妹が先に行くとは、夢にも思っていなかった。そのため心の準備もなく、ただただ可哀想でたまらなかった。

 動乱の戦時下にあった私達の子供時代における4歳の年齢差は、私と妹との生活環境を非常に大きく引き離していた。私が上京してから後、妹は愛知県、私は東京と生活環境を地理的に分けて経過してきたため、私にとっての妹はいつまでも若い、というよりは、いつでもまだ少女の状態のままで存在していた。

 生まれたばかりの頃は、色が白く、頭の毛が薄く少なかった。当時、子供のマスコットであったキューピーの人形に似て、可愛いい顔が今でも目に浮かぶ。

 昭和19年、私と長女の美恵子は集団疎開で家を離れたが、孝子は小学校に入るか入らないかの年のため、疎開もせずに空襲下の名古屋に残り、B29の爆撃の下を逃げ惑った。

 私は、戦中・戦後を通じて名古屋市内の私立中学・高校に通学していたが、一方の妹は知多半島の田舎で小学校と中学校を卒業した。そのため、非常に差別されていると思った、としばしば語っていた。

 田舎の中学では、英語の先生がお粗末でどうしても、授業が理解できないと悩んでいた。そこで先生が英文を解釈した言葉をそのまま書き写してきた。私が見ると、先生の訳は間違いだらけであった。そんないい加減な英語の授業では、子供達に分かるわけがない!今でも私は胸が痛む。

 私にはまだ謝らねばならぬことがあった。私が中学生で妹が小学生の頃である。父方の田舎へ行き、帰りに当時の貴重品である小豆を土産にもらった。妹はそれを大切にランドセルに入れてもらい、私と一緒に家に帰ってきた。
 バスに乗り、船に乗り、電車に乗り、それは小さな女の子には大変な旅であった。

 ようやく帰りついて、名鉄電車の寺本の駅についた。私は中学生で、赤いランドセルを背負った女の子を連れて電車に乗っていることがなぜか恥ずかしかった。誰もそんな事、思う人はいるわけもないのに!
 当時の電車の扉は手動である。私は、まだ停まってもいない電車から、ひらりとホームに飛び降りた。残された妹は、驚いて自分もホームへ飛び降りた。倒れて、ランドセルの小豆がホームに散乱した。

 この事件は、終世、私自身を許せない事件である。最近、妹と話した時、今でも覚えているといった。その時も、私はきちんと謝罪しなかった。
 私が脳卒中で倒れ、リハビリ病院から退院する日、山梨の石和温泉まで不便な中央線を乗り継いで三河安城から来てくれた。
 次は知多半島の疎開していたところで兄弟姉妹の一族、皆で母を入れて集まろうといっていた。
 その妹が、思いもよらず私より前に逝ってしまった! 嗚呼!   (つづく)





 
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