(3)小学校
★軍国・科学少年
1939年4月、 御園町にあった園町尋常小学校へ入学した。薄茶色の革のランドセルを買ってもらい、黒いセルロイドの筆箱、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」という文章で始まる国語の教科書、折り紙の鶴の表紙の算術の教科書などを入れた。
3年生になった1941年12月8日、太平洋戦争が始まった。私はその頃、日中戦争の頃に遡って新聞を収集しファイルすることに凝っていた。そして米、英、中、蘭の諸国から経済的に追い詰められた日本が、いつ開戦に踏み切るか、毎日、そのことを考えていた。これを当時、ABCD包囲陣とよんでいた。担任の今井先生は、私の新聞情報の収集を評価して、毎朝、時局の解説をしてくれたことも私の戦争への関心を更にかきたてていた。
日米開戦の朝、「本八日未明、帝国陸海軍は、西太平洋において米英両国と戦闘状態に入れり。」という大本営の発表をきいて、やたらに興奮していた。
学校への道、「ついにやった!」、「ついにやった!」と、やくざ映画の殴りこみのときのように一人でつぶやきながら歩いていた。この町へ爆弾の雨が降ることも漠然と想像しながら、一方ではあっと驚く新兵器を発明しようと真剣に考えていた。
小学校では3年生の頃がもっとも充実しており、大人の本も大抵は読めるようになっていた。その理由は、まだ字がほとんど読めなかった頃から、母が図書館から借り出した吉川英治の大作「宮本武蔵」を毎夜、読んでくれたことにある。これで私は小説の面白さを知り、少年倶楽部を愛読していた友人から山中峯太郎や南洋一郎、また江戸川乱歩などの小説を借りて濫読していた。しかし家では小説類は一切買ってもらえず、新しく広小路にできた「第一書店」で買ってもらったのは、「自然の驚異」という科学書であつた。
成績は、甲乙丙の3段階でつけられていた。私は、小学校のはじめから、体操、習字、音楽はいつも「乙」であった。その頃、乙は「あひる」と呼ばれていた。私は、その三羽のあひるのために、優等賞とか級長には縁がなかった。しかし絵画は上手で、無審査で教室に張り出された。校長の似顔絵を頼まれて、戦地にいる息子さんに送ったこともあった。
★ 集団疎開
君は鍬取れ、我は槌、戦う道に2つなし
決意一たび火となりて、守る国土は鉄壁ぞ
ああ紅の血は燃える。
学徒動員の歌より
6年生になり、太平洋戦争は終局に差し掛かっていた。名古屋市内の小学校は、空襲に備えて、学校の統合が行われ、更に3年生以上の児童の集団疎開が行われた。名古屋の中心部の小学校は、まとめて三重県の伊勢に行くことになった。戦時下で修学旅行や遠足などの行事は全て無くなっていたので、私達は旅行に行くような気分で伊勢に出発した。伊勢に着くと駅から旅館まで、軍隊にように勇ましく行進した。
しかし疎開生活は、日を追って酷い状態になっていった。その第一は飢えであった。育ち盛りの子供たちに与えられるものは、配給の米とわずかな野菜、魚などである。魚はゴムのような、さめ、えい、まんぼう、などの肉であり、パンは1食が4分の1斤であった。私たちは飢えて、絵の具をなめたり、消化剤を食べたりして更に空腹になった。子供たちは栄養失調で下痢になり、その上にしらみがわいた。
9月には伊勢も危険になり、津市の近く、浄土真宗高田派の本山のある一身田に再疎開した。季節は冬になり、皆が寝る寺の本堂は寒かった。便所は寒い屋外と本堂の裏の暗い場所にあり、上には棺桶を運ぶ輿が吊り下がっていた。1人で行き、怖くて、ご本尊の裏で漏らしてしまった子もいた。手はひどい霜焼けで腫れ上がっていた。冬のさなかに疫痢が発生して、隣に寝ていた梅村君の妹さんが亡くなった。疎開児童は、飢えと寒さとしらみと病気で、太平洋戦争末期の戦地と同じ状態になっていた。
★ 名古屋大空襲
1945年3月9日、私は中学受験のため大空襲が始まる直前の名古屋へ戻った。その翌日の東京大空襲からB29による都市への大規模な無差別攻撃が開始された。名古屋の最初の空襲は3月10日であった。幸いその夜の空襲は南部が中心になり、私のいた中心部の被害は少なかった。
翌朝、家の向えの延命院へいくと、前夜の空襲で亡くなったお婆さんの遺体が筵をかけて地面に寝かされていた。1人いた付き添いの人も、見知らぬ私に代わりを頼んで、どこかへ行ってしまった。誰もいない寺の境内で、私は遺体と2人きりであつた。
筵からは炭化した手足が出ていて、着物で守られて焼け残った皮膚との境がなすびのへたのように生なましかった。
翌週の19日の大空襲で名古屋の中心部は全焼した。その夜、火焔は名古屋の空を覆い、強風に乗って火がついた紙や衣類が幅100米に拡張された広い道路の上を舞った。それはさながら火焔地獄の中であり、濡れた地面には合羽を着た横丁のすし屋のおじさんが仰向けに亡くなっていた。
翌朝、大きな太陽は輝きを無くして東の空に昇った。すべて燃えつくした名古屋の町には、北に焼け残った名古屋城、西に名古屋駅、南に港の3本煙突などがすべて見渡せるようになっていた。その夜、喫茶店「リットルコーヒー」の河村君が、防空壕の中で亡くなった。1週間前、疎開から一緒に帰ってきた友である。小学校の焼け残った鉄筋コンクリートの校舎は死体の安置所になり、20日に予定されていた卒業式は取りやめになった。
翌週の25日は、焼夷弾ではなく250キロの爆弾による住宅地の無差別爆撃が行われた。その夜、私は中学の受験票をなくして探しに戻る途中、栄町の交差点のところで空襲にあった。この爆弾が落ちると地面に直径5m、深さ3mほどの穴があき、50m四方の家は破壊される。もちろんその近くにいる人々は、死ぬか重傷を負う。
その夜、私の入る中学の裏に爆弾が落ち、多数の市民が死んだ。丁度、みなが避難していた所であり、死体はばらばらになって木々の枝にぶら下がっていたといわれる。この空襲で同級の中野君が防空壕の中で直撃を受けて亡くなった。
これで2週間前に疎開から一緒に帰った友は、2人亡くなっていた。
この日本の市民への無差別爆撃を決定し、実行した米軍の司令官はカーチス・ルメーという男であるが、戦後、日本の政府はこの男に勲章を授与した。日本の政治家や官僚の無神経さは驚くべきものである。しかしこの空襲のため、小学校の卒業式だけではなく、中学の入学試験もなくなり、私たちは全員、希望する中学へ入学した。
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