アラキ ラボ
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  (5)名古屋大学
★大学教養部
                     本宮山や、豊川や、市田の森の流離ひに
                     若き血潮の火と燃えて、・・
                             豊川振風寮の寮歌より 
 1951年4月、私は名古屋大学の教養部へ入学した。当時の名古屋大学は、総合大学とはいえ寄せ集めの学校であり、校舎は県内のあちこちに分散していた。私たち文科系と医学部の学生は、最初の1年間、豊川の旧海軍工廠の跡地に作られた分校へ行くことになった。場所は名古屋から通学できる範囲ではなく、旧工廠の寮に入ることになった。そこでは戦争末期、空襲で女子挺身隊の学生が多数亡くなり、大学の敷地の中には棺桶を3段に積み、仮埋葬されたままになっていた。初期、学寮の壁には、血の跡が一杯残っていたといわれるが、私たちが入った頃には、壁は塗り直されていた。
 しかし学校で講義を受けている時、外では埋葬された遺体を掘り起こし、火葬にする作業が進められていて、その煙りや臭いは教室まで流れてきた。若い挺身隊の人々の遺体は、空襲で亡くなった時のまま出てきて、時間はその時のままで止まっていた。

 戦前の旧制高等学校では、学寮生活が人格形成の重要な場になっていた。新制大学になり基盤は完全に変化していたが、この分校には旧制高校から教育学部に編入された残党たちが一部そこに残っていた。そのため私たちは、旧制最後の学寮生活を体験することになった。
 旧制高校の学寮の夜は、午前2時頃から始まる。その頃になると、廊下のあちこちに七輪を出して夜食の準備に入る。ご飯を炊き、スキヤキなどを作る。当然、お酒が入る。スキヤキ、お酒というと聞こえがよいが、スキヤキの肉は医学部の学生が解剖に使った犬の肉であったり、お酒は2級酒であれば良い方で、どぶろくや薬用エチル・アルコールなども使われることがある。酔いがまわり、お腹が一杯になると、腕を組んで寮歌を合唱して寮の中を練りあるく。これを「ストーム」(嵐)という。
 この時、寝ていたりすると、布団を剥がされて、ストームに参加させられる。これは江戸時代末期に流行った「ええじゃないか」の流れではないかと私は思うが、異様な風体をして寮の入り口などで、大声上げて自寮の名前やストームの宣言をする。本当はおとなしく真面目なのであるが、その蛮声と言葉の激しさに初めての人はたいてい驚く。
 秋には、外の広場に出てその真ん中に火を焚き、周りで輪になり寮歌を歌って踊ることもある。これを「フアイヤー・ストーム」という。

 寮が静かになるのは午前4時頃になる。この頃から眠る人もいるし、1人静かに本を読み始める人もいる。また近くの墓地へ散策に出かける人もいる。

★ 政治の季節が始まる。
                 学生の歌声に、若き友よ、手を伸べよ
                 輝く太陽、青空を、再び戦火で汚すな!
                          国際学連の歌より
 2年生になり、名古屋の旧第八高等学校の校舎に移った途端、私たちの楽しい「ノンポリ」生活は終わり、激しい政治の季節に巻き込まれた
 1951年10月16日、日本共産党は第5回全国協議会において「新綱領」(日本共産党の当面の要求)を発表して、「アメリカ占領者と売国的封建諸勢力にたいして、必要な実力をもって闘うこと」を国民に呼びかけた。その政治路線に沿って、農村には「山村工作隊」が送り込まれて「反地主運動」が組織され、都市では労働者・学生による火炎ビン闘争などの非合法闘争を行う「軍事方針」が採択された。

 一方、吉田茂が率いる政府は、これを受けて1952年4月に「破壊活動防止法案」(破防法)を国会に提出した。この法律は破壊活動を目的とする団体を規制するものであり、直接的には日本共産党の活動を封じ込めようとするものであったが、戦前の治安維持法や治安警察法に匹敵する反国民的性格を持つ法律として、その後の安保闘争に匹敵する激しい国民的反対運動がおこった。

 この左右の激突は、まず5月1日に東京の第23回メーデーで起こった。その日、6千人のデモ隊は、中央公園を離れて無許可の皇居前広場に集結し、5千人の警官隊と乱闘となった。そしてデモ隊は2人が射殺され、1230人が検挙されるという「メーデー事件」が発生した。続いて大阪の吹田市では、6月23日に人民電車を動かして警官隊と衝突する「吹田事件」が起こった。
 破防法が、国会を通過する7月にかけて、日本中が騒然となっていた。更にその頃、日本人の渡航が禁じられていたソ連に、国会議員であった高良とみ、宮腰喜助、帆足計の3氏が入り、「モスクワ経済会議」に出席し、更に中国へ入って「日中貿易協定」に調印するという事件が起こった。政府が行わないことを、少数の国会議員が代わって行ったのである。

 7月7日の夜、名古屋の大須球場において帆足・宮越両氏の帰国報告会が開かれた。会の後、球場から出たデモ隊は警官隊と衝突し、火炎瓶とピストルの弾が行きかう「大須事件」が起こった。
 その夜、同級の友人である小西君が逮捕された。彼は真面目な普通の学生で、当日、集会には出ていたが、帰りに見知らぬ人に誘われて一緒に歩いていただけのことである。
 しかも場所は、会場とは遠く離れたところであった。私もその夜、家庭教師のアルバイトのあと、遅い時間に交番の横を通つて帰宅した。翌朝、母は警官から、夜遅く帰った理由を聞かれた。
 これほどの反対運動にもかかわらず、破防法は7月4日に国会を通過し、26日に交付された。しかし政府は、この反対運動の広がりのため、法律の適用には極度に慎重にすることが求められた。そのため、後の「オウム事件」にも、破防法の適用ができないほどになった。また一方の日本共産党も、山村工作隊とか火炎ビン闘争という過激な非合法闘争を変更せざるをえなくなった。

★ ゼミナール
 1953年春、私は3年生で教養部から経済学部の学生になり、桜山の旧名古屋高等商業学校の校舎に移った。そこで私は専門科目に、日本経済史の塩沢ゼミナールを選択した。ゼミは比較的少人数であったが、東海高校の同級であった近藤、犬飼の両君と一緒になつた。2人は、東海時代に中学、高校を通じて、共に全学の1,2番を争う秀才である。その後、近藤君は名古屋大学の教授になり、犬養君は共栄火災の社長になる直前に残念ながら過労で亡くなった。

 経済学部の建物は、正門を入って左へ行くと学寮があり、右へ行くと教室があった。その学寮の1室に西洋経済思想史の水田ゼミにいた沢井君の部屋があり、水田・塩沢両ゼミの学生たちの溜まり場ともなつていた。梁山伯の主人であつた沢井君は、卒業後、トヨタに入つたが、まもなく夏の白馬の雪渓において不慮の死をとげ、また小西君も冤罪で大須事件の被告として裁判中に、急病で無念の死をとげた。

 1年先輩で農業問題にくわしく、大学院をへて専売公社へ入った長谷さんも今は亡い。当時の梁山伯のメンバーでは、水田ゼミで学生の時から既に思想家であった岐阜県関市出身の山田道夫君と私が今では残つているだけである。

 私がゼミに入る前年の1952年は、日本の歴史学にとって「国民的歴史学」に大きな足跡を刻む重要な年であった。それはその年の11月の「歴史研究」40号に、東京都立大学の歴史研究会の「石間(いさま)をわるしぶき」が掲載されたことに始まる。
 この論文は、加藤文三氏など同大学の歴史研究会の6人のメンバーが、秩父・上吉田村沢戸部落を訪ね、そこで調査・体験した村の歴史をまとめて、その結果を全農家に配布したものである。
 その論文の内容は、素朴なものであったが、従来のように古文書を学者がまとめた歴史とは異なる生き生きとした新鮮なものであった。この調査が動機となり、1953年夏には、山形大学歴研の「沢をゆるがす足音」、京大経済学部の「大桑村」、奈良支部の「福貴の歴史」が発表され(「歴史研究」50号)、「国民的歴史学」運動が始まったのである。
 私たち塩沢ゼミの新入生も、この「村の歴史」をやってみようと提案した。最初は山村工作隊と間違われて反対されたが、やがて趣旨も理解されて、旧制大学院にいた川浦さんの指導の下、長谷さんも加わり、その夏、愛知県一宮市西大海道の調査に行くことになった。その結果は、全員で分担し執筆したが、更にそれを近藤哲君が理論的な筋を通した論文にまとめ、秋に早稲田大学で行われた民科の大会で発表して好評を得た。
 名古屋大学塩沢ゼミナールにおけるこの「村の歴史」の研究は、その後も20年以上に渡って継続し、全国でも類例のないものになった。

★ 就職試験
                       吉田首相のステッキの先の減り方
                       はどのような形か?
                        (朝日新聞社の就職試験問題)
 1954年、我われは大学最後の年を迎えていた。政治では吉田茂の政権が造船疑獄で末期的状況にあり、経済面で「特需」が減少して日本の「戦後経済」が終わり、新しい段階が始まろうとしていた。今、考えると、1955年はその後に続く日本の「高度成長」の出発点の年であるが、当時、そう考えた人はなく、第1次世界大戦の後と同じ、大きな戦後不況がくると、みな考えていた。そのため就職戦線は、戦後最悪の状況であった。

 私は、大企業には全く「コネ」があるわけではなく、ゼミは企業には直接、関係にない「日本経済史」であり、就職は絶望的であった。その頃も、企業の就職協定にようなものがあり、10月15日から大企業の就職試験は一斉に始まることになっていた。それ以前に採用試験を行う企業が無いわけではないが、そこで採用が決定するとその後に採用試験を受ける権利をすべて失う。そこで学生側もそれを警戒して、期日以前の試験にはあまり応募しなかった。

 10月のはじめ、経済学部では前期の期末試験が行われていた。そのある日、私が教務課へ行ったら、課長の武田さんが私の顔を見て、「清水建設」という会社から求人があり、実績がなくて分からないが、明日、来いといっているがどうか?といわれた。当時、土建業は、まだ産業として認知されていず、特に経済学部では希望者はいないと思われた。私は、コネもないのに、商社、銀行はいや、兵器産業はいや、平和産業へいきたい。などと贅沢なことを考えていた。そこで平和産業の土建業で日本再建のために働くということは、大変な魅力であった。そこで残りの期末試験を放棄して、すぐ東京へ向かった。就職試験の勉強は、上京する汽車の中でしていった。

 翌日は、筆記試験と面接であった。試験は、経済は「オーバーローンについて記せ」、法律は、「憲法改正の手続きについて記せ」という選択問題であった。私は、経済の問題は見解の相違があり、100点は難しいので法律を選択した。論文は、満点の筈である。
 単語の説明の問題は、「統合幕僚会議」の知識は全くなかったが、後はすべて書けた。面接は、主査が後に社長になった吉川常務であった。卒論について聞かれたので、「尾西綿業の発達」の話をした。常務は、前の名古屋支店長であったので話がかみあった。

 その日、夜行列車で帰ったら、合格通知のほうが先に来ていた。四方学部長に報告と挨拶にいったら大変喜ばれた。学部長には、「ところで、君はお酒の方は大丈夫か?」といわれた。当時の土建業に対するイメージは、大方、その程度であった。




 
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