アラキ ラボ
プロフィール
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  (4)東海中学・高校
                  万だの桜か襟の色、花は吉野に嵐吹く。
                  大和男の子と生まれなば、散兵線の花と散れ
                      戦争末期に歌われた軍歌より
★ 進学
 1945年4月、私は名古屋の私立東海中学へ入学した。当時の中学は4年制で、2年生以上は学徒動員で工場へ行っていた。太平洋戦争も末期で勉強どころではなかったが、それでも、この学校では1年生には授業をおこなっていた。英語は「キングス・クラウン・リーダー」を使っていたし、数学は1次方程式を教え、物理、化学、歴史、地理なども教えていた。しかし教科書はなく、すべて先生が黒板に書いたのを写した。筆写による授業は、学校を欠席した場合についていけなくなる。

 私は、入学してA,B,Cの文字と読み方をノートに書き写した夜、急性盲腸炎で手術する羽目になった。退院してようやく登校した日に、英語では、"I live in Nagoya."の書き取りをやらされた。当時、英語は敵性語として本など全く売っていない。アルファベットもローマ字もまったく分からないし、本当に困り果てた。
 その頃、近くに疎開していた人が古本屋を開店した。古本屋といっても土間に縁台を置き十冊程度の古い雑誌や小説を並べた店である。早速入ってみたら、薄い英語のリーダーの参考書があり、カナで読み方が書いてあった。私は、地獄で仏にあった気持ちで買い求めた。そのお蔭で2年生になる時には、特別学級であるA組に入ることが出来た。

★ 敗戦
 本土決戦が迫っていて、学校でも毎日の軍事訓練は激しさを増していた。空襲もほとんど連日のようにあり、その中を逃げ回りながら通学するわけで、もはや日本では国内の都市そのものが戦場になっていた。学校では、「たこつぼ」を堀り、その中に1人入っていて、米軍の巨大なM4戦車が目の前に来たとき、その前に躍り出て爆雷を投げて自分も死ぬ「戦車肉攻」という特攻攻撃の訓練を毎日やっていた。これは現在のパレスチナにおける自爆テロの原型である。
 その頃、人生は25歳と言われており、私は12歳であった。私は、あと13年生きることは最早、不可能であろうと思っていた。

 軍事訓練の間に町の焼け跡に、いも、かぼちゃ、なすびなどを植えて、食料増産を行っていた。途中、糞尿の桶を担いで運びながら、私たちは原子爆弾を日米のどちらが先に開発するかをよく話しあった。そしてその時が、戦争の終わりであると思っていた。
 8月6日、広島にパラシュートをつけた新型爆弾が投下されたとき、すぐ原子爆弾であると思った。それが投下された後、政府は何も言っていないが、原爆が落ちた以上は、もう駄目だと皆思っていた。

 8月15日の空は抜けるように青く、夏の白雲が輝いていた。私たちは、本土決戦に備えて学校に備えられている38式歩兵銃を軍に返却するために油掃除をしていた。銃の掃除には非常に気を使う。銃は天皇からお借りしているもので、一寸でも汚れがあれば、目から火がでるほどぶっとばされる。しかし学校に貸与された銃など兵器としては使用に耐えないものであり、そんなものを集めてどうするのであろうか?と思った。
 昼、天皇の「玉音放送」があった。雑音が多くて内容は全く理解できなかった。本土決戦でみな死んでくれ!ということであろう、と話しながら帰る途中で、ラジオが神妙なアナウンサーの声を伝えていて、どうやら戦争が終わったらしいことがわかってきた。
 私の周りで泣いた者は一人もいなかった。皆、心の中で、これで死なずにすんだ、と思っていた。

★ 進駐軍
                     You are my sun shine,
                     my only sun shine!
                       最初に覚えた英語の歌詞。

 9月に、名古屋にも「進駐軍」がやってきた。最初に来た米軍の兵士たちは実に洗練され、訓練されていた。彼らの態度を見て、妻や娘たちの顔に墨を塗りどこかへ隠そうと相談していた男たちも、安心して、これでは戦争に負けるはずだと思うようになった。

 その頃、中学では東大英文科で夏目漱石から英語を習ったという立派なひげの先生が英語を教えてくれることになった。最初の授業の日、黒板に"off limits"と書いたので、あだ名が「オフ・リミッツ」となった。こんな偉い先生が、学校に来るときは、草履も履かず、裸足で両肩から水筒を2つ下げていた。その一つにはお茶が、もう一つにはおかゆが入っていた。それがお昼のお弁当であった。

★ 友人
 学校からの帰途は、細江君、水野君という友人たちと話しをしながら遠い電停まで歩いた。細江君の父君は名古屋大学のレントゲン科の主任教授、水野君の父君は市の職員で、宗教思想に造詣の深い方であつた。私たちは、物理、哲学、宗教など、いろいろなことを歩きながら話し合った。

 水野君は親譲りの哲学少年であり、彼から親鸞の「歎異抄」の「善人なおもて往生す、いわん悪人おや」という悪人正機の思想を教えてもらい衝撃を受けた。彼から借りた暁烏敏「歎異抄講話」という古い大きな本を読んだ感激と衝撃は忘れられない。私は、早速、学校の本屋さんに、当時、復刊されたばかりの岩波文庫の「歎異抄」を取り寄せてほしいと頼んだ。本屋さんは、本当にあなたが読むのか?と驚いた顔をした。この人の息子は、私と同級であった。

 細江君は、本来、理科系の人なので宗教には関心がなかった。丁度、京都大学の湯川博士がノーベル賞を受賞して話題になっていた。水野君も私も、アインシュタインの相対性理論には、ともに大きな関心を持っていた。3人は、光、重力、空間、宇宙などについて、熱っぽく語りながら市電の停留所まで歩いた。

 旧制中学の4年生になった時、学校制度が変わり新制高校の2年生となった。私立の場合は呼び名が変わっただけで、学校生活には大きな変化はなかった。ただ文部省のカリキュラムは新制になって程度が顕著に落ちた。我々が戦時下の1年生で既に学んだ英語や数学の基礎と同じことを高校1年生で再び教えられることになった。
 我々は占領政策の陰謀であると考え、先生が1次方程式を教えている時に、自分の机の上では微積分の本を読んでいた。英語もベチイさんのアメリカ英語の初歩でかなわないので、選択学科として始まったフランス語とドイツ語を始めた。

 東海高校では、立派な図書館が新設されることになり、水野君と私は早速、図書委員として入部した。体操の時間は点呼のときだけいて、すぐに脱出して図書室で本の分類・整理をやった。夜もこっそり図書室で整理を続け、宿直の先生に見つかり、翌朝まで宿直室で寝せてもらったこともある。当時は生徒の自主性が尊重されていて、特に問題にもならなかった。

 同級の西脇君が図書委員として新しく入部してきた。私は当時、知多町にいたが、彼は隣町の大野町にいた。名古屋の呉服問屋の御曹司で、音楽や英文学に造詣が深かった。私は彼の影響で、彼の別荘でクラッシクのレコードを聞かせてもらい、英文学ではシェクスピアやワーズワース、コールリッジ、シェリーの詩を原文で読むようになった。そのおかげで、高校3年生になり大学受験のため、皆が「英単語3000」を覚えているとき、私の英語の理解語彙は30,000を超えていた。



 
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