アラキ ラボ
プロフィール
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  (8)日の名残り
★ホーム・ページの作成
 これまでの「プロフィール」は、コンサルタントの仕事の途中で、突然、脳卒中で倒れ、その後はリハビリ中という記事で終わっていた。それはその後に、どのような人生が展開するのか自分でも分からなかったからであった。
 山梨のリハビリ専門病院を退院して、来月でちょうど1年になる。この間に、どの程度まで体の機能が回復したのか? また社会生活に復帰するのにどの程度の余力が残されているのか?といったことが、かなり明らかになってきた。

 私の場合、ダメージは右の足首から先にある。毎日、2キロ以上歩いているから、満員電車に乗ったり、自動車の往来の激しい道を歩いたりするのは困難であるが、近い将来、杖をついて普通の道を歩く程度はできるようになるであろう。しかし前のように、全国を歩き回り、企業のコンサルタントの仕事を続けることは、もはやできない。

 私が生まれたのは、このプロフィールの最初に書いたように1933年、ヨーロッパでナチスが勃興した年である。それから中日戦争、太平洋戦争、敗戦と激動する時代を身をもって体験してきた。
 その20世紀の前半、ソ連で成立した社会主義は、資本主義国の不況・恐慌・戦争とは別に計画経済を着実に進行させ、人類に新しい社会を作り出すような幻想にあふれていた。
 更に、太平洋戦争が終わると社会主義の国に中国や東欧が加わり、ソ連の人工衛星が世界で始めて打ち上げられて、毛沢東がモスクワで演説したように、まさに「東風が西風を圧倒」していた。そのことから新しい時代への幻想は更に膨らんでいた。

 しかし21世紀に入った今、私たちは総べての人類の夢に裏切られていた。世界で最も自由な国と思われていたアメリカは、世界で最も危険な軍事国家に変貌し、ロシアも中国も人類の未来の夢とは程遠い国になった。
 古いヨーロッパが、健気にも明日に向かって努力しているのが唯一の救いである。
 世界の国々の中でも、最近の日本の姿は特に哀れである。アメリカの属領と言われても仕方ないほど国の主体性を失い、国内的には無能、無責任、無気力、腐敗が充満してしまった。このままいくと、優れた企業や人はすべて海外へ流出し、老人・身障者・社会的弱者とそれら弱者を搾取して生活する支配階級のみが国内に残り、残された膨大な国の借金を払い続けることになるであろう。

 一体、世界はどうしてこのようになってしまったのか? そして、これから世界はどこへ向かっていこうとしているのか? その中で、日本はどうなるのか?
 残された人生の時間の中で、私なりに出来る限り考えてみたい。それが、このホーム・ページを始めた趣旨であった。まだ明確な反応はないが、何人かの方がアクセスしていただいているようであり、幸い人生最後の仕事として非常に有意義で充実した毎日である。

★新しいコミュニケーシヨン
 脳卒中者になってから、町の中の行動範囲は非常に小さくなった。5分で行ける多摩川の土手が、暖かくなってからの到達目標となっているほどである。徒歩で12-3分かかる調布駅まで行くのは、現時点では夢のまた夢である。

 ところがこのように世界が狭くなったのに、町での知り合いは、非常に増えた。以前には、ただの通行人ですれ違うにすぎなかった人々の中に、車椅子に乗って1人でいると、声をかけてくれる人が非常に多いのである。その何人かを上げてみよう。

●犬を抱く女性
 「犬を連れた貴婦人」というと、チエホフの作品の題名のようになるが、この女の人はやや小柄の秋田犬のような犬を抱いていた。私が坂道を車椅子で降りようとしていたとき、「大丈夫ですか?お手伝いしましょうか?」と声をかけられた。私は、病院では「車椅子の名手」といわれたほど上手で、坂道を車椅子でかけ下るのは芸の内である。
 「ありがとうございます。でも大丈夫です。かわいい犬ですね!」といった。「この犬、車にやられて、両足が麻痺して歩けないので捨てられていたのです!」と女の人は云った。

 そういえば1年前の雨の日、我が家の隣の駐車場に子猫が捨てられ倒れていた。死んでいると思い、拾い上げたら小さな声で泣いた。4本とも足が立てない状態だった。牛乳に蜂蜜を入れて、口へもっていったら、一生懸命すった。箱の中にタオルをしいて暖かくして寝せて、次の日、獣医さんのところへ連れて行こうとしたが、その夜、天国へ旅立った。なんとも残酷な人間がいるものだと、許せない気持ちになったことを思い出した。

 人間の身内でも、身障者の面倒を見るのは大変なのに、捨てられた身障の犬の面倒を見るやさしい人が今でもまだいるのだと本当に心が温かくなった。その人は、同じような身障の人間が、一人で駅の横の坂のところに佇んでいたので、声をかけてくれたのであろう。日本にもまだこんなやさしい人がいるのなら、まだ捨てたものではないか!と本気になって思った。それから時々、駅の近くで犬を抱いたその人とすれ違うとき、手を上げて挨拶するようになった。

●アンジェ(Ange)の人々
 「アンジェ」とはフランス語で「天使」を意味する言葉である。京王多摩川の横に、大阪の宝塚より古い歴史をもつ「百花園」が休園した後、2002年春に新装、開園したイギリス式フラワー・パークである。私は、アンジェの開園直後から車椅子で歩行練習に行くようになった。休園日を除いて、連日通っているので、いろいろな人と顔見知りになった。

 まず、アンジェの職員の方々である。職員といっても、ほとんど全員が、男性も女性も「花守り」さん達である。仕事の性格から、心のやさし人たちばかりである。女性の方たちは、白雪姫の小人さんたちのような可愛いいスタイルが特徴である。
 夏の暑いときも、冬の寒いときも、ほとんど1日中、園内の木や花の手入れ、草取り、掃除などで実に大変であるが、いつもにこにこと話しかけてくれる。「頑張ってください!」といわれると、嬉しくなって少し格好をつけて歩いてみる。

 去年の秋、台風が過ぎ去ったある日の夕方、私と家内は、アンジェの池の岸辺を歩いていた。台風の後で、園内は人影もなく空いていた。池のほとりの草むらでは、1羽の鴨が羽根を広げて、大声で鳴きながら岸辺に上がったり、滑り降りたりしていた。
 私と家内は、鴨が楽しく遊んでいると思って近くを通り抜けた。ところが帰りに池を通りかかった時、大変な騒動が持ち上がっていた。

 前夜の台風の最中にアンジェの池では、鴨に6羽のひなが生まれていた。その雛たちが、全部、池の排水溝に吸い込まれてしまったのである。私が遊んでいると思ったのは、実は排水溝に入った雛たちを親鴨が必死になって救出しようとしている姿だったのである。
 池の排水溝は小さく、台風であふれた水は音を立てて流れ込み、その先は数十米先の府中用水に続いていた。男性の花守りさんが府中用水まで追いかけて、6羽の雛、全部の救出に成功した。女性の花守りさんが、2度と雛が吸い込まれないように排水溝に網をかぶせていた。私は何もできず、横でただ見ていた。しかしその後で、花守りさん達と更に仲良くなった。
翌朝、アンジェの池には、親鴨を先頭に6羽の小鴨が1列になって泳いでいた。

 アンジェの支配人さんは、花守りさんたちのチーフでやさしいアイデア・マンである。いろいろな楽しい企画は、支配人さんの発想から生まれ、私たちはその恩恵に預かっている。去年のクリスマスは、非常に楽しかった。
 通常は、4時半から5時には終了するアンジェに、夜の催しが設けられた。園内の小道の両側には本物のローソクに灯がともされ、ジャズやハンド・ベルのコンサートが催された。「手作りのコンサート」ともいえるものであり、たとえば来年は保母さんになる学生さんのハンド・ベル・コンサートでは、演奏をした側が、感激して泣いてしまうほど、心にしみる良いコンサートであった。去年のクリスマスは、私には本当の「天使」に囲まれた、人生で初めての良いクリスマスになった。

 




 
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