アラキ ラボ
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  (6)清水建設(その2)
★研究所と超高層ビルの工程管理
                  三井霞ケ関ビルは、孟子の言葉にいう「天   
                  の時」、「地の利」そして「人の和」により成 
                  功した。  「三井不動産四十年史」より。
 
 1960年代の中頃、名古屋のトヨタ自動車は、全社を挙げてデミング賞を目指したTQC(総合的品質管理)運動に取り組んでいた。この頃、デミング賞は、既に非常に高い水準にあり、トヨタはTQCの範囲を自動車の下請けだけではなく、建設関係の工事まで拡張する必要に迫られていた。
 
 丁度、その頃、清水建設は、従来受注出来なかったトヨタに対して新しく営業活動を展開しつつあった。トヨタは、清水建設に工事を発注する条件として、「清水建設のTQCのしくみ」をトヨタに提示することを条件とした。そのため清水建設は、建設業の品質管理システムを作る必要がでてきた。それが私の研究所へ配転された動機である。

 1965年の秋、私は研究所の計画研究部へ移ることになった。清水建設の研究所は、本来、「技術研究所」であり、私のように文科系の出身者が研究員になるのは、初めてのケースであった。

 私が研究所へ転務した頃には、すでにトヨタはデミング賞を見事に受賞し、清水建設はトヨタからの工事受注に成功していた。清水建設がTQCに踏み切るのは、それから13年後のことであり、私の研究所への配転の理由も、また建築における品質管理へのニーズはすっかり消えていた。
 そのため私は、PERT系ネットワークによる、建設工事の工程管理とその拡張の研究を始めることにした。

 ちょうどその頃(1965-1968年)、鹿島建設により日本で初めての超高層ビルである三井霞ヶ関(36F,147m)の工事がすすめられていた。
 それまでの日本では、アメリカのような超高層ビルは地震国であるために、建てられないというのが常識であった。しかし1960年代に入ると、建築の構造理論は、従来の地震の際に踏ん張って耐える「剛構造の理論」から、五重の塔のようにしなやかに耐える「柔構造」の理論に大転換した。
 この理論転換を背景にして、1963年には建築基準法が従来の31米の高さ制限から容積率1000%まで認める容積制限に変わり、日本にも超高層ビルの建設が可能になった。

 更に超高層ビルの建設においては、構造理論が変わっただけではなく、その建設の工程計画の方法も大きく変わった。霞ヶ関ビルの工程計画には、所長の二階盛氏による「連続繰り返し工法」が採用され、二階氏の工法の研究には、早稲田大学から博士号を授与されたほどであった。

 清水建設は、鹿島建設より少し遅れて1968-1971年にかけて、はじめての超高層ビルとして朝日・東海ビル(29F,120m)を施工することになった。そこで私はこの超高層ビルの工程計画のために、PERT系ネットワークにより本格的な工程計画を作り、管理を行うことになった。

 朝日・東海ビルの工程計画においても、標準階の工程計画をネットワークで作成し、それを全体の総合的な工程計画にまとめていく方法がとられた。そこでの工程の全作業数は通常の現場の10倍くらいになった。
 しかも全体の日程の計画は、労務、資材の供給・輸送計画と整合性をとる必要があった。そのため全体の工程計画は本社のコンピュータにより作成したが、現場におけるきめ細かい管理は、日本で初めて工事現場にミニ・コンピュータを導入して行うことになった。
 
 1969年12月の暮れも押し詰まって、当時、発売されたばかりの富士通のミニ・コンピュータFACOM-Rが工事現場に導入された。日本では、ミニ・コンピュータのソフトウエアがまだ非常におくれていたため、私たちは超高層ビルの工程管理を行うために、工程計画のプログラムは勿論、コンピュータのオペレーテイング・システムのプログラムの開発まで行わねばならなかった。

 しかしシステム・プログラムの開発を通じて、コンピュータ・メーカー並みのプログラマーを社内に何人も作ることが出来た。そしてそのことが、後にコンピュータを利用したビル制御システムの商品化に非常に威力を発揮することになった。

★コンピュータによるビル制御システム
 私たちは、建物はその内部で生活する人々にサービスするロボットであると考えた。ロボットというと、「鉄腕アトム」のように人間に似た形をして、人間にサービスする機械を考える。

 しかし見方を少し変えてみると、建築物そのものも、そこで生活する人々に奉仕する機械であると考えることができる。しかしこの観点から現存する建築物を見ると、大方の建築物は、建物の側から内部で生活する人々への働きかけは特になく、ただ無能に立っているだけの「もの」である。そこで私たちは、まず建築設備に着目して、人間の生活空間の快適化、安全化、省エネルギー化、省コスト化などをコンピュータにより機械的に実現することを目指した。

 この頃までのコンピュータは、事務センターなどで厖大な事務処理を行い、ライン・プリンターにより滝のように印刷した紙を打ち出す機械と思われていた。そのようなコンピュータを、建築物の一部に部品として組み込み、建物を運転する機械にしようとする考えは、1960年代の末葉の日本ではユニークなものであった。

 1970年代のはじめ、清水建設は創業170周年の記念事業として、研究所を江東区越中島へ移し、研究所と計算センターを集結したビルの建築を計画していた。
 私たちはこの建物を実験台に使い、そこを30階建ての超高層ビルに見立てたコンピュータを利用した室内環境の制御システムを作ることにした。

 それまでのビルでは、夏は冷房、冬は暖房と2つの機械設備を持つのが普通であった。しかしこのビルでは、夏冬通じて冷房サイクルに統一した。そのことにより設備は簡単になり、コストは大幅に安くなった。つまり夏には内部の熱を外に汲み出し、冬には外部の熱を内部に汲み入れる機械に作り上げたわけである。この熱を汲み込んだり、汲み出したりする機械を「ヒート・ポンプ」と呼んだ。
 
 しかも取り込む熱量を最小にするために、地下に蓄熱槽(温水と冷水を入れるプール)を作って、その中に熱を貯めることを考えた。熱の出し入れは、温水と冷水の間で行われるため、取り込む熱量は最小になり、エネルギーのムダを最大限に少なくすることができる。

 このシステムの運転に、朝日東海ビルで苦労して開発したコンピュータの自家製のシステム・プログラムが、大きな威力を発揮した.このような建築のハードウェアのコンピュータ・プログラムの開発は、コンピュータ・メーカーでもすぐにはできないからである。このシステムは、1972年8月にシステム運用を開始し、更にそこでのデータ収集と解析をもとに、「シミズ環境制御システム」(BECSS)として完成、商品化された。

 BECSSシステムは、建物の省エネ化を考えていた電力、不動産、銀行、保険などをはじめとする有力な顧客に非常な関心をもって迎えられた。ショウルームとして公開していた研究所にも有力企業からの見学者が相次いだ。このシステムにより受注につながった効果は、数千億円に上ったが、残念ながら社内には、このシステムを正当に評価できる経営者はいなかった。

 私はこの設備制御を更に進めて、建築構造をコンピュータにより制御するシステム開発に進みたかった。そのためには、建築構造物を機械的に制御する実験設備や要員が必要になる。建設会社にはこのような大胆な技術開発を行う企業体質はなかった。この研究は、2003年の現在でも最先端のものであり、私たちの試みは、30年早すぎたため、研究の続行は出来なくなった。
 しかたなく私は、自分の本業の経済分析の研究に戻ろうと考えた。

★総合企画室とハウス55からの撤退
 1974年版の経済白書は、その冒頭に「日本経済がいまや歴史的転換期に遭遇している」と書いている。その転換期は、既に1970年代の冒頭から始まっていた。1971年8月15日、アメリカの大統領ニクソンは、ドルの金及び他通貨への交換を停止し、輸入品にたいしては10%の課徴金をかけることを発表した。
 戦後、日本経済の基盤となっていたドル本位制がくずれたのである。その日、東京為替市場の出来高は、平常時の10倍にはね上がり、株価は約8%という市場最大の下げ幅を記録した。いわゆる「ニクソン・ショック」である。
 
 さてその結果、戦後、長く続いてきた1ドル360円というレートを308円に切り上げざるをえなくなった。しかしその結果は、予想された円高不況の代わりに、1972-1973年にかけて、田中内閣の列島改造論を背景にした狂乱的な好況を迎えた。しかしその反動も大きく、1973年の中東戦争を契機にしたオイル・ショック以降、今度は深刻な不況に突入した。1974年には、企業家は弱気になり設備投資、在庫投資、住宅投資など、みな大幅に減少した。しかも実質個人所得が、減少する中で、物価は上がるという最悪の事態になっていた。

 この1973年度、はからずも私は職員組合の副委員長になった。この年、清水建設職員組合は大幅なベースアップを要求して、組合の結成以来、初めて会社に争議権の行使を通告する事態にまでなった。
 私は、その翌年、建築のハードウェアの研究をやめて、経営企画や事業開発に自分の管理技術を役立てたいと考えて、1975年の春、総合企画室へ転務した。

 企業のブレーンであり、シンクタンクである筈の総合企画室へ入って、建設企業の「経営企画室」には、ほとんど経営の企画機能が無いことを知った。
 つまり建設企業の経営は、経営企画を立てて事業を推進するのではなく、他企業の建設投資の結果を受けて、それを受注して事業を行うという受動的な機能しかないものであった。
 私は、研究所においていろいろな商品開発を行い、受注拡大につとめたが、それらの技術開発が、経営的にほとんど評価されない理由がよく分かった。
 建設業の本質は、基本的に製造業ではなく商業であった。

 総合企画室で最初にやった仕事は、間違って受けてしまった事業開発のプロジェクトを中止する仕事であった。そのプロジェクトとは、昭和55(1980)年度に、1坪あたり15万円という低価格による住宅を実現するという建設省・通産省の合同プロジェクトで、「ハウス55」と呼ばれていた。この国家プロジェクトは、3段階の仮説で構成されていた。

 第一は、抜本的な技術開発を行えば、廉価な住宅ができる、という仮説である。、第二の仮説は、廉価な住宅ができれば、購入希望者が殺到するであろう、というものである。そして第三の仮説は、購入希望者が殺到する商品があれば、その事業化は容易である、というものである。

 この3つの仮説は、一つ一つは尤もなものであり、間違いとはいえない。しかし3つをセットにして期限を定めたプロジェクトとすると、極めて非現実的なプロジェクトになる。

 事業化の年である1980(昭和55)年が近づくにつれて、社内のプロジェクト担当者の顔は暗くなり、毎日、売れない商品を売れるとする架空の計画づくりに空しい日を送っていた。私が、このプロジェクトを担当させられたのは、この最後の発売1年前であった。
 私は、この仕事は太平洋戦争におけるキスカ島撤退作戦であると思った。太平洋戦争の末期、キスカ島は玉砕せず全員撤退に成功した。これは勇ましく総攻撃して玉砕するより遥かに難しい作戦である。

 私は、まず事業化した場合の採算計算を行ってみた。すると10年間は、少なくとも毎年10億円程度の赤字が出ることが分かった。毎年10億円の赤字とは、この不況下で毎年100億円の受注量を失うことに匹敵する。当時、このプロジェクトの担当は3人の専務取締役であった。そこである日の会議で、私はスタッフ全員の合意を得て、3専務の前に事業採算の予想表を提出して、プロジェクト撤退の意思決定を求めた。
 その瞬間、3専務の表情はこわばり、沈黙した。中止の決定は3人同時でなくてはならない。そうでないと、あとで最初の決定者の責任になる。一瞬の沈黙の後、3人同時の合意に成功した。
 キスカ撤退作戦は成功して、会社は年間10億円の損失を免れた。しかしそれを評価する人はだれもいなかった。 

★ 「建設業冬の時代」とTQC(全社的品質管理)の開始。
                   デミング賞は、しばしば、品質管理の
                   墓碑銘となる。(荒木)
 日本の建設業は、1980−1985年の5年間、戦後初めての深刻な不況を経験した。この不況は、特に建設業に対する影響が強かったことから「建設業冬の時代」と呼ばれた。この間、GNPは増加したものの建設投資量は約50兆円で5年間、横ばいを続けた。このようなことは、戦後はじめてのことである。
 その理由は、第2次石油危機による原油価格の上昇と赤字国債の増加による国家財政の危機であり、5年間ゼロシーリングの緊縮政策がとられたことにある。
 建設業は、この間、生き残りをかけて経営の合理化と海外進出に取り組んだ。そこで経営合理化の手段として導入されたのがTQCであった。

 建設業で最初にTQCの導入を行ったのは、竹中工務店であった。同社は、1976年にTQC活動に取り組む社長方針を決定し、TQC界の第1人者であった東大の朝香教授を指導教師としてTQC活動を開始した。そしてTQCの勲章ともいえる「デミング賞」をはやばやと3年後の1979年に受賞した。
 当時すでに「デミング賞」の受賞レベルは非常に高く、前にトヨタのかかわりで述べたように、品質管理が下請け企業の末端まで行われていなければ、同賞の受賞は難しい状態にあった。ところが竹中工務店は、建設業で最初の取り組みであったことと、指導教師がTQC業界の第一人者であったことから、「設計・施工の一貫性」という製造業であれば当たり前の品質管理でデミング賞を受賞してしまった。
 この安易な受賞が建設業のTQCにとっての不幸となり、1980年代を通じて日本の建設業界において「文化大革命」にも似たむなしいデミング賞のためのTQC運動を展開する端緒になってしまった。

 清水建設は、社長が1977年7月にTQC導入の社長方針を決定し、全社的な活動を開始し、1978−79年にかけて品質管理活動は盛り上がったが、デミング賞を目指すことは、逡巡していた。しかし1981年に社長が変わると、創業180年にあたる1983年のデミング賞の受賞を目指した運動になった。
 私は、総合企画室にいて第一線の品質管理の指導を行っていたが、1982年にTQC推進本部へ転務となった。

 かつてテイジンがデミング賞に挑んだ時、社長の大屋晋三氏はデ賞審査にきた審査員に対して、これは自分たちのための活動であるから、少しでも悪い所があれば遠慮なく落としてくれといい、社員たちには落ちるのは会社が悪いのだから何度でも挑戦しようではないか、といっていた。戦後、東レに抜かれていたテイジンは、デ賞への挑戦を通じて、再び東レを抜き返すことができた。製造業においてデ賞への挑戦には、数々の感激的な話がある。しかし建設業のTQCは、膨大な時間と費用とエネルギーを投入しながら、経営的にはあまりにも愚かしい活動に終わった。その最大の理由は、経営者の能力の低さと指導する教師たちの程度の悪さにあったといえる。それはまさに「文化大革命」に似ていた。

 私は、デ賞受賞に向かっての「文化大革命」の最後の1年間、「その他TQC」を担当させられた。「その他TQC」とは組織図上の担当領域を指す言葉であり、トップにたしかめても意味が不明であったが、組織によるTQC活動を除く領域を担当せよ、ということらしかった。あまりも失礼な処遇であり、退職届を提出しようと思ったが、敵前逃亡は卑怯と考えて退職届の提出を少し延期した。
 しかしその後で、この「その他TQC」を担当して本当に良かったと思うようになった。その理由は次のようなことである。

 戦前、日本の軍隊を外国の軍隊と比較すると、世界一強いのは第一線の下級兵士であると言われていた。企業でも同様であった。私の「その他TQC」でかかわる企業の最前線の人々は、本当の意味での品質管理に取り組んでいた。1つ1つは小さなことであるが、従来、考えたことのない改善活動を始めていた。その中から、真にお客様に喜ばれる成果が生まれつつあった。デ賞が終わったとき、この盛り上がってきた力をトップが受け入れてくれたら、日本一の建設会社になるであろうと思った。

 しかしデ賞が終わった時、トップは第一線社員のこの気持ちを裏切ってTQC活動の終焉を宣言した。そして1989年12月、TQC推進室を解散した。私は、その時点で会社を辞めた。





 
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