アラキ ラボ
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  (9)再出発

★むらさきの会&サロンドメイ
●安定してきた血圧
 2002年は、山梨温泉病院を退院してから丁度1年を迎えて、この年の冬は、退院後に自宅で迎える最初の冬になった。脳卒中者にとって心配な血圧は、発症から丁度1年後の10月には退院後の最高値を記録して、元の高い水準まで戻り、気持ちもすっかり落ち込んでしまった。
 寒さに向かってただでも上昇するであろう血圧を、なんとかこれ以上上げないようにして、この冬を乗り越えねばと考えた。そこで、寒さが増しはじめた11月から歩行距離を1日1キロから1日2キロに伸ばした。

 その効果は劇的に現れた。冬に向かって上がる筈の数値が、歩行距離を伸ばしたら、逆に下がり始めたのである。月平均で150-90あった血圧が、140-80になり、更に年を越すと130-70まで下がった。心配していた血圧がようやく安定し、無事に2003年の春を迎えることができた。

 その春先に「むらさきの会」から出席のお誘いが来た。「むらさき」とは、20年ほど前まで東京の京橋の橋から少し銀座の方へ行って、小さな路地を右に入ったところにあった飲み屋さんの名前である。
 1950年代の終わり頃から、ここに会社帰りの清水建設の常連たちの集まりができた。それが「むらさきの会」である。その後の地上げで店もなくなり、常連の多くも退職したが、不思議に50年もの長きにわたり続いてきている稀有の会である。

 しかし都心で行われる会への出席は私にはまだ無理であり、欠席の返事を出しておいたら、その会の当日、幹事の谷口、石川両氏が私の状況を会員に説明するため、わざわざ我が家までお出でになった。

 心配な血圧も安定し、家の周辺は歩けるようになっていたので、この際、私は自分からは歩いていけないが、我が家に皆が来ていただく会を計画したらどうであろうか?などと勝手な提案をした。そうしたら大変賛成をしていただいて、再開することになったのが「サロンドメイ」である。

●第一回サロンドメイ
 「瓢箪から駒」で、2003年5月、春の花の満ち溢れた京王多摩川のアンジェにおいて、第1回サロンドメイを開催することになった。

 サロンドメイ(=5月のサロン)は、「むらさきの会」にヒントを得て、1970年代に我が家を会場にして行っていた会の名前である。
 この会の特徴は、毎回、違った種類のスコッチを用意することと、会員の誰かが講師となって会社業務とは関係のない自分自身が関心をもつテーマを話してもらうことであった。

 この会は、1970年5月から始まり6,7年続いた。その間、いろいろ興味ある話が沢山あった。数学者の清水さんの数学史の話し、設計部の方によるアントニオ・ガウディーの教会サグラダ・ファミリアの話し、計算センターの方のチョウチョウ収集の話、西沢さんの明治憲法の話し、嶋村さんのイメージマップの話しなど、いろいろ貴重な話しが語られたことを思い出す。 

 再開第1回サロンドメイは、5月27日(土)午後1時、新緑の若葉と美しい花々が溢れるフラワー・パーク「アンジェ」のセミナー・ルームで開催した。私の脳卒中は、幸い発声機能と思考機能には障害を齎さなかった。そこで講師は「大家の義太夫」よろしく私自分が勤めることにした。

 テーマは、「アメリカ・イラク戦争の行方」であり、その内容は、本ホーム・ページの「世界の行方」に掲載したものである。

 5月の花々を前にして、余りに無粋で殺伐としたテーマであったが、20名を越える方々に参加して頂くことが出来た。清水建設とそのOBの皆様、コンサルタントの皆様、そして私の弟の家族たちなど、ご夫妻で参加していただいた方も多く、本当に有難くうれしい会になった。

 今回のテーマは国際政治の問題であり、硬く難しいものであったが、サロンドメイの会合を通じて私は多くの人々に生かされていることを心から感じた。 
 私はこの病気のため、歩ける範囲は狭くなったが、精神的な活動範囲は、逆に健常者の時より遥かに広くなったような喜びがあった。

●第2回サロンドメイ
  サロンドメイの第2回は、7月20日の京王多摩川大花火大会に合わせて行うことにした。午後4時から6時までサロンを開催し、7時から9時までは花火大会を見ようという計画である。

 前回の会場である「アンジェ」の苑内は、「禁酒」であることを知らなかった。そのためワイン、梅酒とシーバス・リーガルを密かに用意したが、今ひとつ、盛り上がりに欠けた。
 サロンには、どうしてもお酒が必要・不可欠である。そこで今回は、多摩川の自宅を使うことにした。ここなら2階のテラスから、多摩川の花火大会が一望できる。 幸い当日は心配された台風もそれて、絶好の花火大会になった。

 テーマは、前回にご要望が多かった経済問題を取り上げた。今回も私が「大家の義太夫」を勤めることにした。経済といっても特に難しい「国際金融」と「アジア通貨危機」を取り上げたため、前回より更に硬い内容になってしまった。

 しかし21世紀に我々が体験する世界金融危機は、否応なく「国際金融」の危機の形をとると考えられ、しかも被害を受けるのは我々市民であるから、どうしても知ってほしいと考えて出来るだけ分かりやすく話した。その内容も、本ホーム・ページの「世界の行方」の中に掲載されている。

 今回は更に新しい方々のご参加をえて、栗焼酎や大吟醸そして美味しいお菓子の差し入れも沢山いただいた。難しい話は兎も角として、7時からの多摩川の花火大会により第2回サロンドメイは非常に盛り上がった。

★孟子の素読会
  7月、谷口さんから孟子の素読会をやらないかとお誘いを受けた。2人だけの勉強会であり、しかもその相手は「孟子」である。今、「何故、孟子なのですか?」と聞いてみると、今、誰もやらないからだ!ということであった。

 谷口さんは、旧制第一高等学校の最後を経験した貴重な人である。谷口さんによると、一高で学んだ卒業生と一高がなかった時に漢学を学んだ教師との間には、漢学の素養において圧倒的な格差があるそうである。

 つまり幕末から明治にかけて日本の思想界を担った人々は、その思想の基盤に今の人々がほとんど知らなくなった漢学の素養をもっていた。その今、誰もやらない漢学を今一度基本からやるために、谷口さんは御茶の水の聖堂(=江戸時代の昌平こう)に通って漢学の勉強をされている。

 私は谷口さんの弟子になって孟子の素読をやることになった。
 孟子(BC371?-BC289?)は、今から2300年も前の中国古代・戦国時代の思想家である。孔子から孟子に繋がる思想の流れは「儒教」と呼ばれて、戦国時代に「諸子百家」の論争の中で体系化され、前漢の武帝の時になって官学として確立した。
 もともと孟子も諸子百家の一人であったようであるが、やがて彼の言葉は論語と並ぶ「四書」の一つとなり、旧制の中学・高校では「漢文」の講義で誰もがその一部を学んだものである。

 私は自著の「建築と都市のフォークロア」を書くに際し、孔子の「論語」と共に「孟子」もあわせ読み、学校で学ばなかった面白い記述をいろいろ知った。
 しかし、今になって覚えている箇所は一つしかない。それは、孟子が仁をそこなうものを賊、義をそこなうものを残と規定した箇所である。
 そこでは、たとえ王であっても「残賊の人」はもはや王の資格はなく、たとえ臣下に殺されても、それは家来が主君を殺したことにはならない(巻二、梁恵王章句下、八)と孟子が語る大変な記述である。
 
●孟子は日本では古来禁断の書であった!
 私はその文章を読んだ時、2300年前の孟子の革命的な思想に驚嘆してしまった。そして毛沢東が孔子より孟子を高く評価した意味も分かるような気がした。
 日本では吉田松陰が、安政元年3月、ペリ−再来航の際、渡航に失敗して故郷長州の野山の獄にとらわれた時、もはや2度と出ることのない牢獄の中で、ほかの囚人と一緒に勉強を始めたのが孟子であった意味も、よく分かった。

 しかし孟子のこの革命思想が、日本では孟子の思想の普及を阻んできたことを知った。日本に儒教が伝来したのは仏教より遥かに古く、応神天皇の16年に論語と千字文が伝来したと日本書紀にみられる。しかし不思議なことに、孔子の論語が伝来したのはこのように古いのに、孟子の書は公式には伝来していないのである。

 701年に制定された「大宝律令」は、儒教の書が注釈書に到るまで利用されている。ところが、そこにも驚いたことに孟子はない。孟子の書は官立の大学で忌避されただけでなく、一般学会でも日本では忌避されたようである。
 平安朝初期の寛平年間(889-)に宇多天皇の勅を奉じて作られた「日本国現在書目録」は、当時我が国に現存するすべての漢籍を網羅したものといわれる。
 驚いたことに平安朝になっても、その中に趙岐注の孟子14巻と陸善經注の孟子7巻が納められているに過ぎない。

 このような日本における孟子の書への禁忌はその後も続いた。16世紀の明代の中国人が書いた「五雑俎」という本における日本の記述の中に、「日本では中国の經書はすべて高い値段で買ってくれるのに、孟子だけは駄目だそうである。もし孟子の書を持って行くと、船が転覆して溺れ死ぬということが言われており、これまた不思議なことだ!」と書かれている。
 
 孟子の書が日本で読まれるようになったのは、江戸時代に朱子学が官学として力を持つようになり、朱子の「四書集注」が読まれるようになって以降のことといわれる。しかし、そこでも日本の国体に理解を有する学者は特別の注意をしたといわれている。吉田松陰は、このことを余り知らずに、4書の一つとしてなにげなく孟子を選んで、後で困ったと書いている本もある。(清原貞雄「外来思想の日本的発達」昭19)。吉田松陰が二度と出られない野山獄において、選んだ書がなぜ孟子であったのか? 大変、興味がもたれる。

●吉田松陰は、それを知らなかったのか?
 実際に松陰が野山の獄にいたのは、安政元年10月24日から翌2年12月15日までの1年2ヶ月であり、この間に松陰は、当時、野山獄に収監されていた11人の囚人に看守までが加わり、半年かけて囚人一人一人が先生になって「孟子」の輪講を始めている。
 
 谷口さんの孟子の講義を受けることになり、孟子の本文に合わせて松陰自身による孟子の講釈書である「講孟箚記」(こうもうさつき)を、今回、初めて読んでだ。
 驚いたことに、そこからは、松下村塾を開く以前の弱冠24歳の吉田松陰を通して2300年前の孟子の言葉が、生き生きと現代に甦ってくるのである。

 松陰による野山の獄の孟子の講義は、安政2年4月12日から始まり、2ヵ月後の6月10日に終了した。続いて6月13日以降、囚人による輪講が孟子序説から始まり、同年11月24日の万章上第9章までいったところで、松陰は実家の杉家にお預けとなり、野山獄における孟子の輪講は終わる。

 その後、家族の人々が孟子研究の中断を惜しみ、実家の杉家で孟子の講義を継続することになり、安政3年6月13日に孟子全章の講義が終わる。その全貌は松陰自筆の原稿としてまとめられた。
 その内容は、孟子の全章の構成に忠実に従いつつも、各章ごとの要点を幕末時点の日本の置かれた歴史的な状況から論じる方法をとっており、その講釈はそのまま現代に置き換えても通用する面白さをもっている。私には、黒船来航という日本の危機に際して、松陰は意識的に孟子の書を選んだように思われる。
 私はこれによって21世紀をもう一度見直すことが出来るよう思えてきた。

 谷口さんの孟子の素読は、始まってまだ2ヶ月なので、今、ようやく巻三の公孫丑章句上に入ったところである。そしてそこまでにも面白いところがあった。

●ブッシュ大統領も孟子を禁書にするかも!?
 斉の国が、燕の国の内乱に乗じてこれを攻めて占領した。諸侯はこの斉のやり方を不義として燕を応援し、斉を討伐する相談を始めた。
 これを心配した斉の宣王が、孟子に相談した。そこで孟子は宣王に向かっていう。
 もし斉が燕を占領したことにより、燕の国民が喜ぶならば攻めて占領しなさい。しかし燕の国民が喜ばないようなら止めなさい。孟子はそのことを周の名君・文王の例を引いて述べる。

 斉の宣王は、家臣が王を殺してのよいのか?と夏の桀王、周の武王の例を引いて、孟子に尋ねた前記の王である。この王は孟子にたびたび登場してくる。
 このときも宣王は、せっかく孟子の意見を聞きながら、その意見を無視して燕を占領してしまう。そして、諸侯が斉の占領に反対したら、また心配になって孟子に意見をきいている。諸侯を国連に置き換えたら、宣王は今のブッシュにはてしなく似ている。
 
 松陰は、「呉子」(図国篇)にある「戦勝は易く、勝を守るは難し」という言葉をひき、内乱に乗じて燕を占領することは易しいが、燕の民衆の心を掴まないで、斉が燕の占領を続けることは容易ではないとする孟子の言葉を解説している。そして問題は、軍事ではなく、民心をつかむ政治にこそあると述べている。

 この言葉は、世界中の世論を無視して、イラクのフセイン政権を圧倒的な軍事力で倒し、その後の占領政策において、イラクの民心が掴めずに、完全に生き詰まってしまったアメリカのブッシュ大統領に教えてやりたいものである。
 ブッシュよ! 孟子を読め!




 
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