アラキ ラボ
プロフィール
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(1)略歴
(2)ふるさと・名古屋
(3)小学校
(4)東海中学・高校
(5)名古屋大学
(6)清水建設(その1)
(6)清水建設(その2)
(7)経営コンサルタント
(8)日の名残り
(9)再出発
(10)再出発(その2)
 
   最初に簡単な私の経歴を挙げ、その後に、いろいろな経歴の段階に分けて述べます。適当に選択して見てください。

(1)略歴
1933年 名古屋に生まれる。
1933-1955年 名古屋で小学校から大学までをすごす。
1955年 名古屋大学経済学部を卒業。
1955-1989年 大手建設会社に勤務。
1990-2001年 経営コンサルタント。
2002-?年 病気のためリハビリ中。

(2)ふるさと・名古屋
                古き昔の忘らるべきや、心に想いいたさずに、
                古き昔の忘らるべきや。
                    (スコットランド民謡―蛍の光)
 時間の長さから言えば、名古屋に居住したのは戦前・戦後の20年そこそこであるが、そこは私の座標の原点にある。
 ここに1枚のふるい名古屋の写真がある。そこは伝馬町と伊倉町(いまの伏見大通り)の交差点を西から東に向かって写している。そこを左へ曲がると右に名門・菅原小学校がある。21世紀の現在、そこには日銀名古屋支店の壮麗な建物が建ち、名古屋の中心地である。しかし明治のそこには今の京都にあるような小さな家並みが並んでいた。そこの角を右へ曲がり、1町いくと右角に理髪店、左角に「一八」といううどん屋がある。
 その角を左折して数十米先の右側に「立田屋漆器店」があつた。私は1933年3月2日、その家に生まれた。
 名古屋の町は、慶長15年1月に、徳川家康の命で城が清洲から尾張名護屋に移されたところから始まる。町は城から出て南へ下り熱田にいたる「本町(ほんまち)通り」)と、万治3年1月の火事以降、町屋を払って作られた東西の「大筋」である「広小路」に囲まれた碁盤割りの商家町を中心に発展した。
大阪では、南北の道を「筋」、東西の道を「通り」というが、名古屋では、南北を「通り」、東西を「筋」という。本町は、南へ下るに従い、本町、玉屋町、鉄砲町、末広町、門前町、橘町、古渡町、・・と名前が変わり、門前町へ入ると名古屋弁が変わると言われた。
 
 この碁盤割りの町筋の一つ、「西区袋町3丁目12番地 立田屋漆器店(水野庄六方)」が私の生家である。祖母・水野静子は、名古屋で「一閑張」を漆器に応用し、勧業博覧会に出品して有名になった鉄砲町の漆器商・黒田忠譲店の3姉妹の次女である。母は立田屋の長女で、父は支配人であり、その店は、明治末年の名古屋の地図では、1町四方の半分近くを占める大きな商店であつた。

 幕末、徳川御三家の一つであった尾張藩は、勤皇と佐幕の間を揺れ動いていた。元治元(1864)年7月の第一次長州征伐では、幕府の総帥となって長州を攻めた尾張藩が、慶応4(1868)年2月には、徳川御三家の一つにもかかわらず、将軍慶喜を征討する東征軍の先鋒となり江戸に向かっている。つまりこの間に、尾張藩は幕府を守る側から倒す側に180度方向を変えたわけである。この尾張藩の国策転換の犠牲が、慶応4(1868)年1月20日におこった「青松葉事件」である。藩内の佐幕派の重臣3名が斬首、11名が処刑された。名古屋では、戦後になるまで語られなかったその事件の内容は、今では城山三郎「冬の派閥」に詳しい。
 この精神的重荷を背負って、慶応4(1868)年4月11日に明け渡された江戸城を受け取りにいったのが尾張藩である。それが長州や薩摩ではただでは済まなかったであろうと思う。その年の9月に江戸時代は終わり、明治元年を迎えた。

 この江戸城の明け渡しに、水野の3兄弟が参加した。その時に東京で撮った兄弟3人揃つての写真が立田屋の仏間に飾られていた。無人になった江戸城の中を行くのは本当に怖かったという話を祖母から聞かされた。帰国後、恩賞として市内矢場町の西、約10万坪の土地を藩主徳川義勝が与えるというのを断り士族から平民になったと伝えられている。
 この時代、藩主が本当にそのような恩賞を与えようとしても、その通り実行されたかどうか分からない。また立場は違っても、佐幕派の人々の多くが処刑され、残りの人々は北海道八雲の開拓民として移住したのを身近に見て、恩賞を頂くことはできなかったであろう。 いずれにしても士族商法では先が暗く、明治末年には広大な敷地をもつていた店も、私が生まれる昭和の頃にはかなり小さくなっていた。それでも敷地は百坪、建物は3階建てで、市内の享栄デパートにも店舗を持つ大店であった。
 名古屋の商家では芸ごとへの関心が強かった。その一環として芝居へはよく行った。それも江戸時代からの名残りであろうか、その日は1日、御園座の花道の横の桟敷を借りて、黒田3姉妹とその一族が集まった。重箱に食べ物をいっぱい用意し、1日中食べたり、芝居を見たりしてすごした。歌舞伎を見た記憶はあまりないが、新国劇や前進座などはよく見た。最後は、太平洋戦争の局面が押し詰まった1944年の春頃、菊五郎の「藤娘」を見にいった。初日のため、芝居がはねたのは、夜中の12時を過ぎていた。外へ出ると、灯火管制下の町は、真っ暗に寝静まっていた。これが良かりし時代の最後であり、その後、2度と皆で芝居見物にいかなくなった。



 
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