(5)東京砂漠。
リハビリには、下肢の訓練を中心にした理学療法(PT)と上肢や生活対応の訓練を中心にした作業療法(OT)の2種類がある。
私がいた総合病院では、リハビリの時間が1日に1時間しかない。そのため作業療法(PT)などにまで十分な時間をとることは無理である。
病室における患者の自主トレといっても、患者にはそのための知識や能力はない。病室へ帰ってからは、ベッドで手足を伸ばすとか、廊下で手すりに掴まって何米か歩く程度のことしか出来ない。脳卒中では、特に最初の半年の間を回復期として、集中的なリハビリを行うのが効果的と言われている。総合病院における1日1時間のリハビリでは不十分なので、私はリハビリ専門病院への転院を考え始めていた。
私は、家族に頼んでインターネットなどで、脳卒中の専門病院やリハビリの専門病院を探してもらった。その過程で驚いたことには、ここ巨大都市・東京には脳卒中の専門病院がない上に、リハビリの専門病院もないことが分かってきた。総合病院で比較的リハビリに力を入ている有名な病院は少数存在するが、いずれも満員であり、何ヶ月も待たないと入院できない状態にあることも分かってきた。私は、いくつかの有名な病院にコンタクトをとってみた。それらの病院には、入院申し込みの前に審査があり、その審査には本人が行く必要があった。12月に入り、最初の病院の審査を受けた。
それは高級住宅地にある有名企業が経営する総合病院であった。私は息子の車に車椅子ごと乗せてもらい、妻も付き添って審査を受けに行った。病院からの指定日であったが、すでに私と同じ入院希望者が何人も待っていた。私は、部屋の中を杖で歩かされ、その状況を観察した上で、専門医師による面接・審査を受けた。それが終わると作業療法のテストがあった。
私は、装具をつければ若干は歩けたし、麻痺している右手で字がかけたので、面接した医師からは、当病院ではあなたは退院のレベルだと言われてしまった。歩くといってもトイレへ行くため、病院の廊下を横切るのもたどたどしい歩き方である。でもこの病院では、既に退院レベルとするとよほど重症の患者が多いのであろう。この病院では、審査に合格しても入院には1ヶ月以上待つ必要があるといわれた。
この巨大都市東京は、脳卒中患者にとっては巨大な砂漠にすぎないように思えてきた。病院訪問も12月も半ばを越えると、再入院先を見つけるのは難しくなる。場合によっては、年を越して1月の半ば以降に遅れ、完全に1ヶ月程度がムダになる。私はあせっていた。
そこで翌週、東京の周辺都市にある総合病院で、リハビリに力を入れている病院を訪問した。その病院のリハビリは、発症から6ヶ月以内の回復期の患者を対象にしたコースと雑多な患者を対象にしたコースの2種類に分かれていた。私の場合は前者になるが、すでにそのコースは、定員一杯であった。歳末の町にはジングルベルが鳴り響き、私は巨大都市・東京に絶望していた。
翌朝、私は病院の公衆電話から、自分で山梨のリハビリ専門病院へ電話をして、入院の可否を問い合わせてみた。その病院は、その日が2001年の事務受付の最終日であった。
幸いにしてその病院は、東京の病院のように本人の審査はなく、その場ですぐに年内の入院申し込みを受け付けてもらえた。でも入院後の翌年の春には、その病院も東京からの申し込みが多くなり、何人もの入院待ちができるようになっていた。
いずれにしても私は年内に転院して、専門病院でリハビリを開始することが決まり、本当に嬉しかった。
その頃、私はリハビリ場では、一応、1本杖で歩行ができるようになっていた。このようにいうと大変格好がよいが、詳細に述べると、それほど簡単ではない。この病気は、非常にデリケートな面が強くあり、その細部が極めて重要である。健康な人からすると鬱とおしい話であるが、あえて述べる。
まずリハビリ室の平行棒の中を歩くときは、かなり上手に歩ける。ところが平行棒から1歩でたとたんに足がすくんでしまい、うまく歩けなくなる。また療法士の先生の付き添いがあると、下手ではあるがかなり長く歩くことが出来る。そしてリハビリ室から歩いて病室まで杖をついて歩いてきたりする。ところが自分1人では、病室から出た途端に足が竦んでしまうのである。
私は、転院の前に自分の力で廊下を歩けるようにしたいと思った。幸い私の病室の前の廊下はあまり人通りがない。そこで手すりにつかまって歩いてみた。それは平行棒と同じでかなり楽に歩けた。次に手すりに沿って杖で歩いた。これもいざという時の安心感があるので、ある程度、歩けるようになった。ところが廊下を杖をついて横切るのは容易ではなかった。
わずか3メートルそこそこの廊下の幅が、まるで大河のように私の前に横たわっている。その途中で足が竦んでしまったらどうしよう!と思うとどうしても横切れない。翌日、心を決めて廊下の真ん中へ1歩踏み出した。案の定、緊張で体が竦んだ。しかし何とかしなければと思い、必死になって少しずつ進んだ。やっとのことで向こう側へたどりついた。太平洋をヨットで横断した時の堀江青年のような気持ちであった。
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